狂った研究者
夕焼けに染まる空の下、とある街の裏通りの一角に聳えるその建物は、表通りからも見ることのできるほどに高い。
八階建ての高層ビル。
その一室。地下深くの冷たい部屋の中に、「あはははははは」という心底楽しげな笑い声が響き渡る。
「いひひ、ふふ、あはは、」
笑い、カタカタとキーボードを打ち、目の前に幾つも重なり合うように浮かぶ電光掲示板に文字を高速で入力していく。
「神具シングしんぐううううううううううひいいいいいいいいいいやほおおおおおおお」
じたばたと足を動かし、その女性は高く激しいテンションで、狂ったように笑い続ける。
この狂人の名はノア。
薄い銀髪に眼鏡をかけた、長身に豊かな肉感の女性で、
神具を研究し、その副産物たる法具を世に生み出し続ける狂気の研究者である。
「だめだめだめえ、こんなんじゃまったくだめえ」
ひひひと笑い、体を揺らす。
「神具は歌、ノアちゃん愛しい寝具。あはははのはぁ」
それから歌い出す。と、そこへ彼女の楽しげな気分を害する者がその室内に入ってきた。
「博士、失礼します」
勝手に戸を開けて入ってきたのは、全身を黒子のように黒に染め上げた小柄の男。
「んん? なんのようだい。ノアちゃんは今とっても忙しいの、要件はボックスの中にいれといてよ」
ノアは特に手を止めることもなくただ言葉だけを、入ってきたその男へと向ける。
「申し訳ありません、ノア博士。ただ、早急に新しい『嘘発見紙』の用意をお願いします」
この黒づくめの男は、骸鳩という暗殺依頼の仲介組織に属する構成員である。
「嘘発見紙?? なんだっけそれ」
ノアは首を傾げる。
彼女は神具を一から創造する、という研究の過程で大量の法具を生み出した。
嘘発見紙はその内の一つなのだが、ただ彼女にとって法具というのはただの失敗作。
ゴミに過ぎない為、直ぐに記憶から追い出してしまう。
「博士の造った嘘を見破る法具に必要な紙ですよ」
んん、と唸り、ノアは頭を悩ませる。
あったようななかったような……、あまりよく覚えてはいない。
その姿に、黒い男は嘆息する。
「また、ですか。あれだけの成果を忘却の彼方に追いやるとは、はあ」
「成果あ?」
何言ってんだこいつ、という風にノアは呟いた。
「ノアちゃん、まだ神具を作れてないのよん」
彼女にとって成果というのは、神具の開発の成功のみ。
それ以外のものは成果ではなく、ただの経過に過ぎない。
つまり経過を成果とのたまうその男の発言は、彼女の認識とは違って、まったく理解することができなかった。
「それで、えっと、なんだっけ。うそはっけんし、だっけ? うん、わかった、直ぐに用意するけどいつまでに用意すればいいの?」
「ああ、ディアボロス家に行かせた暗殺者の分だから二枚おねがいします」
「いえす、りょうかーい」
今までやっていた作業を中断して彼女は嘘発見紙を製造する為の作業に入る。
本当は無視して自分の作業に没頭したいが、そういうわけにもいかないのが彼女の立場だ。
(まったくめんどくさいなあ。もう骸鳩から抜けようかなあ)
ノアもまた後ろにいる男同様に骸鳩の一員である。
とある目的のためだけに骸鳩に属してはいたが、その目的も既に果たし終えた。
今まだこの場所に彼女がいるのはただの惰性で、
別に無理して抜ける必要がなかった未だにここにいるに過ぎない。
(でもしばらくは追ってから逃げる日々を送らないとならんのよねえ。はふはふ、それはノアちゃんはいやだなあ)
ノアは思う。
(いっそ誰かこの連中皆殺しにしてくんないものかな)
そして嘘発見紙を作り、その男に渡してから「じゃあさっさとばーい」と強引に追い出した。
「さて、それじゃあ作業にもーどろ」
それから再びキーボードを打ち、神具の研究に戻る。
◆
ノアの研究室から出た小柄の男は、嘘発見紙を見ながら薄暗い階段を上っていた。
(もう失敗は許されない)
どくんどくんと心臓の鼓動が早くなる。
(これ以上の失敗はまずい。消される)
じわりと掌に嫌な汗が滲む。
標的は大貴族の令嬢だ。
殺すのはそれなりに苦労するとは踏んでいたが、まさかこれほど時間がかかってるとは思わなかった。
(くそ、今日こそは成功してくれよ)
これから定期報告の為にディアボロス家に送った暗殺者の元に行く。
恐らく今夜暗殺を実行する手筈のようだが、場合によっては延期することも考えられる。
(ただのガキ一人に何やってんだよ。俺は死ぬのは絶対嫌だぞ)
自分たちの属する骸鳩は、裏切り者と自分たちに損害を与えるような無能には容赦がない。
きっとこの依頼が失敗し、その挙句、骸鳩に何らかの損失を与えた場合、間違いなく始末されるだろう。
(本当に、本当に成功してくれ)
心の底からそう思い、彼はビルの最上階まで歩いていった。
そして、最上階。
そこは全体がガラス張りになっている広間で、その中心にかつてノアの造った法具の一つが設置されていた。巨大な水晶のような見た目の法具である。
「……さて、いくか」
彼は水晶に触れる。と、ゆっくりと手先が水晶の中に沈んでゆく。
これはある特定の場所へと転移することのできる法具だ。
その特定の場所というのは、嘘発見紙のある場所のこと。
彼は水晶の中に身を沈めて、消え、転移する。
その先に彼は隻眼に隻腕の男の姿を見つけた。




