悪役令嬢、死す
その日は空が泣いてるかのような陰鬱とした豪雨だった。
降りる雨粒は地に弾け、大気の温度を著しく下げる。
世界の輪郭は滴に歪み、大地が雨水に溺れる。
まるで天地を紡ぎ、舞台を閉ざす暗幕のようである。
(冷たいわね)
雨に打たれて、地に伏すのは漆黒の美女。
かつて傾国の美女としてこの世に悪名を轟かせた魔女である。
彼女はその存在そのものが悪で、生まれながらの魔性。
関わった者の尽くを不幸に陥れる、最悪にして災厄の存在である。
そんな悪魔にも等しい彼女が、今この瞬間、死の淵に身を置いていた。
(ふふ、ここまで、か。これで私の人生も終わり……、実にくだらない末路ね)
どくどくと切り裂かれた腹部から溢れる流血は、大気を満たす大雨に混じり、儚く消えてゆく。
そのことに彼女は自嘲する。
くだらない人生を生き抜いた、くだらない自分にはお似合いの末路ではある。
誰かを愛したことも、何かに本気で打ち込んだこともない。
人間としての歓喜を一切得ることなく、ただ天に与えられた異質な才覚のみで、機械のように生きてきた。
だが、それも仕方のないことだと彼女は割り切った。
彼女は生まれながらに天才であった。
万人に好まれる蠱惑さを孕んだ婉然たる容姿に、特に何かを学ぶこともないのにそれでいて優れた領域の能力を発揮することのできる、そんな真性の天才だった
それ故、彼女には凡人の心情を理解することができず、故に努力を愛する心を持たず、故に彼女の理解者は現れなかった。
そのことには内心では仕方ないとは割り切ってはいても、さらに深い心の内には激しい寂寞を宿していた。
そうして死の直前に即しながらも彼女は自嘲するように笑みを零す。
これでようやく楽になれる。
そう思い、笑う彼女の表情はとても柔らかいものだった。
そして、それこそが生まれて初めて得た人としての歓喜というのが、彼女にとっての不幸を如実に示していることだろう。
不運ではない。むしろ彼女の生育環境はとても恵まれていた。けれども彼女は不幸だった。
「可哀そうなひと」
そんな彼女のことを初めて理解したのは、彼女とは真逆の少女。
とても優しく、心の性質は善。
誰彼からも愛されて、誰彼もを愛し、孤独とは程遠いようないわば太陽のように明るい少女である。
「本当は貴女のことを救いたかった。でも、弱く儚い貴女にとっての救いは、きっと死ぬことだけだったんだね」
ふわりと彼女の頬に少女の木漏れ日のような柔らかい温度が触れる。
(あたたかい)
大雨に奪い尽されたはずの熱が、僅か頬に灯る。
懐かしい熱だ。
ここ数十年。誰かと触れ合うこともなく、長らく忘れていた人の温もり。
(それにこの私に対して弱く儚いと言うなんて……、)
凍りついた心が溶けるかのように穏やかに彼女は微笑む。
彼女の本質を見極めて、言葉にしたのは少女が初めてだ。
(強いひとね、貴女は)
心に雪解けの春が訪れた。長く冷たい冬は過ぎ去って、心は溶かされて、死の間際にやっと彼女は人になる。
(もう少し早くに、あなたと出会えていれば、何かが変わったのかしら)
そう考えるが直ぐにその考えを否定する。
(いいえ、考えても無駄ね。こうなることは、きっと運命だったのだから)
意識が離れていく。
世界が、彼女の視える退屈な世界の輪郭が薄れてゆく。
ああ、もうこれで終わりか。
だが、枯渇しきっていたはずの心は潤いを得た。
満足だ。
満足して逝ける。
彼女は眼を閉じ、息を吐くように全身の力を抜いていく。
視界が、音が、触覚が、死に蝕まれて呑まれてゆく。
そうして彼女の意識が闇に溶け、
「おやすみ、哀れな私の愛しい魔女さんーー」
彼女の世界は終りを迎えた。
そして……。
陽光溢れる新たな世界で目を覚ます。
「え……」
意識を起こした彼女は目の前の光景に驚いた。
なんだこれは……。
目の前には豪奢なシャンデリアを吊るす見覚えのない広い天井が。
体の下には柔らかく心地のいいベッドが。
視界の端にはヘッドドレスにエプロンドレスという使用人ぜんとした洋装に優雅な居出立ちの女性が。
目を覚ました世界の中に存在していた。
ここは一体なんだ……。
何が起きているのだろうか。
目覚めた彼女は直ぐに思考を巡らせる。
(私はあの時に刺されて死んだはず……、あの痛みは確かに覚えている。それなのに)
彼女は自身の刺された箇所を触れる。が、そこには柔らかい肌の感触だけ。裂傷の跡も、止めどなく流れる熱い血液もない。
夢なのではと一瞬だけ思ったが、直ぐにその考えの無意味性を悟り、頭の中より追い出した。
よく創作物等で夢か現実かの区別を付ける為に自身に痛みを与える描写があるけど、そんなことをせずとも夢か現実かの区別は大体つく。
これは間違いなく現実だった。
あの時の腹部の強烈な痛みは今でも鮮明に思い出せる。
死の直前に得た感動も、しっかり思い出せる。
(どういうこと、私は生きている? いや、そんなはずはない……、私は確かに死んだ。それは間違いない)
まずは状況を認識することが最重要。
自分に何が起きたのか。その状況を整理する為に彼女は思考を重ねる。と
「お嬢様、おはようございます」
その声で彼女は不意に我に返り、
反射的に取り繕う。
「……ええ、おはよう」
その声は傍らに控えていた使用人のものだった。
(見覚えのない顔ね。私の屋敷で雇っていた人ではないようだけど)
彼女は生前ーー死ぬ直前まで一国を裏から支配する女王で、その住居は豪邸だった。その為、多くの使用人を抱えていた。当然、雇用主たる彼女はその使用人たちの情報の全ては頭の中に入れていた。
だが、目の前のメイドの顔を彼女は知らない。
雇用主は彼女だった為、勝手に新たな使用人が雇われることはない。
彼女は考える。が、結論を導き出すにはまだ情報が不足している。
ここは彼女の知らない場所。それは考えるまでもなく分かる。
だが、今分かっているのはそれだけだ。
「お嬢様、朝食の準備ができています」
淡々と抑揚なくメイドは言う。
(お嬢様?)
彼女は怪訝に思う。
自分はもうお嬢様という年齢ではないはずだし、それ以前に使用人たちには自分のことを「お嬢様」などとは呼ばせてはいなかった。
(どういうことかしら)
彼女は背の柔らかいベッドの感触から身を離して、ゆっくり起き上がる。と、
「!?」
またもや驚きに目を見開いた。
(な、に、これ)
視線の先にあるのは一つの姿見。そこに映るのは自分の姿。それがあまりに異様で、異常。
(どうなって……、)
別に姿見に映る自分が醜いわけではない。むしろ、惚れぼれするほどに愛らしく、美しい。
だが、彼女が驚いたのはそこではない。
姿見に映る自分が、自分でなかったことに彼女は驚いたのだ。
本来の自分の髪は黒く、瞳は赤、目付きは鋭かった。だけど今目の前に映る自分の姿はそれとは真逆で、雪のように髪は白く、空のように瞳は蒼く、目もとも優しく、可愛げに満ちている。
そして、その年齢も違う。
今この姿見に映る自分の年齢は凡そ五歳程度で、本来の自分の年齢とは比べ物にならない。
子供の姿になっていた。
彼女は驚いたあまり固まり、心を困惑の色に染めながらも姿見の自分を眺め、
(この私は……誰?)
思う。