婚約の噂
王子様の婚約の噂ですが、それはどなたが婚約したというのでしょうか?
公爵家の令嬢ととして、父に王子様と恋仲になるよう言われて参りましたが、王子様よりわたくしはなにも聞いてはおりません
あなたが仰る通りわたくしが相手なのでしょうか?
それから隣国の姫の名が上がるのは一体……
クリストファー様が婚約したと学園中の噂になっております。
でもわたくしはまだ侯爵である父から、クリストファー様からなにも聞いておりません。
本当にクリストファー様の婚約者になれたのでしょうか?
この学園に一つ年下のクリストファー様が入学されるとわかったとき、わたくしは父にクリストファー様と恋仲になるように命じられました。
この国の王子様であるクリストファー様にまだ決まったお相手もなく、王家の方々もクリストファー様のご結婚のことはまだまだ先にと考えられていたようでした。
十を過ぎても婚約者のいない令嬢は希な存在です。
父はいずれクリストファー様の相手にとわたくしに婚約者を宛がうこともなく、籠の中の鳥のように育てられて参りました。
父の想いも命令も関係なくわたくしはクリストファー様をお慕い申しております。
初めてそのお姿を拝見したときからわたくしの心はクリストファー様のものですわ。
クリストファー様の隣にいられるようになったのも学園に入ってからのことですが、わたくしはずっと前からお側にいられると思っております。
学園を卒業したら……
わたくしもこの国の王妃として恥ずかしくないように邁進しております。
誰もが憧れるような王妃になれるように頑張っておりますわ。
きっとこの婚約の噂もわたくしとクリストファー様のことだと思います。
他にクリストファー様に女性の影はございませんもの。
深紅の子供と呼ばれるアリス・トワイニング様は護衛の騎士ですもの。
お相手になるはずがありませんわ。
……でも、気になる噂もございます。
――――隣国の姫君と婚約した。
クリストファー様からなにも聞いていないので……なんとも言えません。
クリストファー様には噂が沢山ございます。
嘘も誠も本当に沢山です。
沢山あるからこそ噂を信じてはいけないと思いますわ。
わたくしとクリストファー様のことを知っている方は祝福をくださり、また慰めをくださる方もおります。
喜びたいのに喜べない……
隣国の姫とはなんでしょうか?
婚約の噂は本当なのでしょうか?
クリストファー様は今どちらにいるのでしょうか?
直接聞かなくては気持ちが落ち着きません。
同じ学年でしたら、同じクラスでしたらすぐにお話をお伺いできますのに……
教室におりますでしょうか?
こんなにも注目されることは初めてです。
クリストファー様のお側にいるときですらここまで露骨な人目を感じたことはありません。
この人の目が祝福だけであればいいのですが、憐れみの目もございます。
人に憐れみの目を向けられるような謂れはございません。
我慢できませんわ。
「失礼ですが、クリストファー様はおりますか?」
教室にクリストファー様はおりませんでした。
どこに行ったのでしょうか?
クリストファー様は寮生活ですので放課後に寮へ訪ねたらいいのですが、早く噂の真相を確かめたいのです。
クラスの方に鍛練室の方に居るのではないかと伺いました。
王子様でありますので自衛の技も武勲も必要とクリストファー様は剣の鍛練を欠かすことはありません。
護衛が居ようと居まいと関係なくクリストファー様はご自身の身は自分で守れなくてはいけないと仰っておりました。
クリストファー様の剣は上級生にも匹敵するほどですわ。
わたくしのクリストファー様はなんと頼もしい方なのでしょうか。
剣のことはよくわかりませんが、クリストファー様の剣技はとても美しいのです。
金色の髪が揺れ、剣の刃が光り、まるでワルツを踊っているかのように剣を振るうのです。
丁度わたくしの兄が剣の鍛練しておりました。
兄の鍛練を見ていてもそんなことを思ったことは一度もごさいません。
「クリストファー様はさっき鍛練を終えて出ていかれたぞ」
その後に続く言葉を聞きたくなくてわたくしはすぐに鍛練室をあとにいたしました。
兄は婚約の噂についてなにかを知っていたのでしょうか?
それとも何も知らずにいるのでしょうか?
いいえ、噂は知っているはずです。
兄は侯爵家を継ぐ身ですので本当のことを知っているのかもしれません。
でもわたくしは父から……クリストファー様から直接お聞きしたいのです。
他の誰からも聞きたくはありません。
クリストファー様は以外にも本が好きなのです。
時間があれば図書室で本を読んでいられることも珍しくありません。
わたくしが本を読んでいるクリストファー様に近づくと読むことをやめてしまわれます。
わたくしとの時間を大切にしてくれると喜んでおりましたが、今ではそうではありません。
わたくしには隙を見せることも出来ないのだと悲しく思っております。
クリストファー様の周りにはいつも沢山の人がおりますが、クリストファー様の素顔を知っている方はいないのではないかしら。
いつもニコニコと笑っているクリストファー様ですが、幼い頃お城でお見かけしたクリストファー様は無愛想な笑顔のないお子様でした。
わたくしにだけでもその弱味、素顔を見せてくださってもいいのに……
クリストファー様の抱えるものを一緒に支えていきたいと思っておりますのに。
わたくしではクリストファー様の支えにならないのでしょうか?
恋人としてお側にいられるようになってもわたくしはそこまでの女なのでしょうか?
「ベアトリス様、お一人でどうされたんですか?」
いつもクリストファー様と一緒におられるヴィンセントさんが沢山の本を抱えておりました。
真っ黒な艶やかな髪に黒くて冷たい瞳をしたヴィンセントさんは、わたくしあまり得意な方ではありません。
その……あまりにもお美しいお顔に気後れしてしまって……学園の中にはヴィンセントさんのファンクラブがあると聞きましたわ。
「クリスでしたら先程までいたんですけど」
ここにもおりませんでした。
どこにいるのでしょうか?
いつもは会いたいと思えば会えたのですが……
今日はなかなかクリストファー様に会えません。
淋しいものですね……
廊下の窓の外に金髪の男子生徒の姿が見えました。
あれは、クリストファー様でしょうか?
急いで行かなくてはクリストファー様がいなくなってしまう気がいたします。
淑女としてはどうかと思ったのですが、窓の外むかってに走りました。
走りましたが、間に合いませんでした。
本当に今日はどうしてクリストファー様にお会いできないのでしょうか?
いつでもクリストファー様のお側にいられることがわたくしの自慢ですのに……
誰かに邪魔されているような気がしますわ。
落ち込んでいても仕方がないのですが……
あとはどこを探したらいいのでしょうか?
こんな風の気持ちが良い日にクリストファー様は室内よりは外にいるような気はするのですけど……
ほら、やっぱりそうでしたわ。
中庭の大きな木の幹に体を預けておりました。
あの金色の髪がそよ風に揺れ、長い睫毛の奥にある青い目に引き込まれます。
やっぱりわたくしはクリストファー様を誰にも渡したくありませんわ。
金色の髪は輝きを放ち、青い目はなにもかも見透かし、人を魅了し、冷たく付き離します。
わたくしだけのものにしたいですわ。
「やっと見つけましたわ」
息を乱すわたくしにクリストファー様は顔を上げて下さいました。
「どうしたの?」
側に腰かけるわたくしに変わらず優しい声を掛けて下さいます。
そのお声だけで蕩けてしまいそうですわ。
「……噂を聞きましたの」
不安でした。
「クリストファー様からどうしてもお聞きしたかったのですわ」
お顔を見ることができませんでしたわ。
お聞きしたいのですが……怖いのです。
もちろんわたくしと婚約して下さったと思っております。
信じているのです。
……でも、どうして隣国の姫の名前があがるのでしょうか?
「クリストファー様はご婚約されたのですか? ……わたくしなにも聞いていなくて」
胸が激しく響きます。
答えて欲しい……
なにも言わない欲しい……
こんなに不安になるなんて……
今まで一度もクリストファー様から甘い言葉を貰ったことなんてありません。
「可愛らしい人だと聞いたよ」
クリストファー様に可愛いと囁かれたことはありません。
それは……
「わたくしではないのですね……?」
声が震えます。
懸命に震えを押さえて、どうかこの震えに気が付かないでください。
ああ、聞かなければ良かった……
気がつきたくありませんでした。
愛の言葉をクリストファー様が口にしたことは一度もありませんでしたね。
「わたくしではダメなのですか?」
わたくしを選んではいただけませんか?
わたくしはあなたをこんなにもお慕い申しておりますのに。
「ベアトリス嬢もわかっていたんじゃないのか?」
優しいはずの声が優しく聞こえませんでした。
体の芯が凍っていくような冷たさを感じます。
わたくしが何をわかっていたというのでしょうか。
「ベアトリス嬢はただお父上の言葉に従っていただけだ」
なんと酷いことを仰るのでしょうか。
意図もせず涙が零れます。
心の奥が氷に閉ざされていくようです。
わたくしはクリストファー様のことをずっとお慕いしておりますのに。
それはこれからも変わることはありませんわ。
「なぜ泣いている?」
本当にわからないのでしょうか?
……わからないからこんなにも酷いことを仰るのでしょう。
「わたくしはクリストファー様のことを……」
「ベアトリス嬢は王子様が好きなんだろ?」
……それではわたくしはクリストファー様のことをなにも見ていないということでしょうか?
本当に酷い……
どうしたらわたくしの気持ちをわかってくださるのでしょう。
どんな女に見られようともわたくしは本当に……
クリストファー様に唇を重ねました。
こんなはしたないことも相手がクリストファー様だから出来るのです。
だってわたくしはこんなにもクリストファー様をお慕いしているのですもの。
離れるとクリストファー様のお顔はいつもとなにも変わりがありませんでした。
「侯爵令嬢がこんなことをしては価値がなくなるよ」
それはわたくしを想っても言葉なのでしょうか?
それに侯爵令嬢の価値って……
政略の道具としてしか価値はありませんわ。
わたくし自身の価値とはなんでしょうか?
「クリストファー様にでしたら傷をつけられても大して価値は下がらないと思いますわ」
ニヤリとされました。
そんなお顔をされるのですね。
そんなお顔は見たくありませんでしたわ。
今まで聞こえない振りをしてきた噂の片鱗を見た気が致します。
「そ。じゃあ最後だ。ベアトリス嬢にとっていい思い出になるといいな」
最後だなんて……
初めてなのに最後なんて……本当に酷い方ですわ。
わたくしが今まで信じてこなかったクリストファー様を貶めるような噂も本当のことなのでしょうね。
ずっと、ずっと信じてまいりましたのに。
お側にいるのはこのわたくしと思っておりましたのに。
初めてがこんなにも切ないものになるとは思いませんでした。
ただこれが最初で最後のわたくしの恋となるのでしょう。
――――クリストファー様に近づかなければよかった――――
隣国の姫の名はマチルダです。
婚約破棄もの書きたかったのに婚約出来なかったです。