ニートが不本意に親を殺す話 前編16177文字
私は、両親をころした。
父は、一突きで・・・
母を包丁で滅多刺し・・・
だが、他のこのとは、何一つ覚えていない。
どうして殺したのか?
ただ言えるのは殺したときの恐怖の感覚だけは覚えている
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私は、ベットの上で目を覚ました。
夢を見た。とても怖い夢だ、だが、それが何なのか、全く思い出せない。
時計の針は、4月27日、朝の9:00少し前
そろそ、会社に行くころのころの時間である。
といっても私が会社に行くのではなく、父親が会社に行く時間である。
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私は、出勤の準備中に何気なくカレンダーを見た。
来月は、息子の誕生日だ。
今年で、24歳になる。
私は、ふと、自分が24歳のころと、あいつが、24歳のころを比較した。
私が24歳のころは。、もう結婚もしていて、あいつが生まれた年であり、
人生が最も充実していた時期だ。
だけどあいつは、高校を1年でやめてしまって。
それから、ずっと家に引きこもるようになってしまった・。
このまま、あいつは、どうなってしまうのだろうか?
私は、これまでも息子のことを心配してきたが、今日は
いつもより、強く不安を感じずにはいられなかった。
私は、どうしたら、あいつを外の世界に出すことが出来るだろうか、
必死で考えた・・・
考えているうちに、私は一つの答にたどりつた。
あいつの性格がわかれば、可能になる気がした。
私は、あいつの小さい頃のことから思い出した。
なぜ、あいつは、あんな風になってしまったのだろうか?
あいつは・・・6歳だった。。
「おとうちゃん。ウンチしたい。。」
感高い声で毎日のように、催促された。
清一は、一人では、便器に座れなかった。
怖がって毎日、わたしに頼んできた。
これが1年近くも続いているのだ。
当時、私はまだ貧乏で、家は、水洗トイレではなく、昔ながらの
ボットン便所であった。
そのボットン便所を現代風の洋式に改良したものが、今住んでるアパート仕様で、
座ってできるボットン便所である。
便器の奥を覗きこむと、暗い井戸のようであり、井戸置くの端には、長年の糞がこびりついていて
気持悪いものであり、落ちたら糞まみれで死んでしまうかもしれない。
そんな便所だったからこそ、あいつの気持はなんとなくわかっていた。
だが、私は、あいつの出助けをするのが、めんどうになり、ペットのように
餌をちらつかせてみた。
あいつは、快く、餌に飛びついた。
清一は便器に一人ですわり、便器から落ちないように、必死で端をつかみ、祈るように、きばっていた。
こうして、トレイデビューは、無事に終わり、
玩具を買い与えることを約束させられた。
次の休日、わたしは、早速、デパートに付き合わされた。
買う予定の、汽車の玩具のある売り場へ行く最中、一人でいそいそと、
かけていった。
私は、あいつの欲しがっていた汽車を探し出しだし、
レジへ持っていき、購入を住ませて、返ろうとした。
だが、あいつの気は、収まらないようだ。
汽車の事など、すっかり忘れて、おねだり三昧である。
私は、なんとかして、注意をそらすべく「サンタさん」を口に出した。
良い子にしてたら、サンタさんが、買ってくれるよと・・・
あいつは、素直に納得して。良い子を振舞った・・・。
所詮は、こどもだから、クリスマスが来る前に忘れるだろう。
それを妻に話したら、、、
「それ全部買いましょう」
私は、驚愕した。全部買うと、3万は、いくであろう大金だ。
ここの家賃が15000円であることを考えると、大きな出費である。
私は、将来の貯蓄も考えていたから、妻を説得したが
「欲しいものを忘れてるなんて、なおさら良いことよ」
「欲しい玩具をはじめて見る感動とか、あの子にあじわえるのよ」
「こんなチャンス永遠にないと思うわ」
妙になっとくさせられた感もあるが、私は、従うしかなかった。
財布の紐どころか、家計は全て、妻に握られているからだ。
妻の計画どうり、息子は、とても喜だ。今思えば、人生で一番の
笑顔だったと言えるであろう。
来年のクリスマス。
あの子が、欲しいものは、はっきりしていて、ゲームだった。
毎日のように、「早くサンタが来ないか~」と話しかけてくる。、
サンタに欲しいものが伝わるかどうか、不安だったあの子には、
しつこいほどに、まとわりついてきた。
私はゲーム機の名を紙に書いた。「これなら、サンタさんも間違えないよ」
あの子の願い通り、無事、にクリスマスは終わったのであるが、
紙に書いたら願いが適うと、勘違いしたあの子は、
来年のクリスマスに、金銭的に天文学的な、要求をしてきた。
一億分の1程の願いを適えるのが精一杯だった。
落胆したあの子には、サンタは、欲張りな願いはかなえられないことを
教えることで、納得はしてくれたようだが、
そのおかげで、その後のクリスマスは、
一般的水準のモノとなり、あいつもサンタの正体に気づいたようだ。
ただ、あの子にとっては、クリスマスがとても楽しい思出だったのだろう。
サンタの正体がばれた後も、枕元にこっそり置く習慣は
辞めないで欲しいとのことだった・・・
子供が、はまるカードゲーム
当時、はやった玩具だ。
あいつは手に入らないものがあっても、
何十軒も店に電話して、探してたっけ・・・。
あいつの執念には、何度となく付き合わされた。
あいつは、負けず嫌いだ。
自転車漕ぐときも、途中で諦めようとはしなかった。
何度も付き合わされたっけ。
ボードゲームの人生ゲームを家族でやったときも、負けず嫌いを発揮した。
妻は、少し子供ぽいと頃があり、手加減と言うものを知らなかった。
あの子は、ムキになり、何度も戦いを挑んでいた。
人生ゲームは、運の要素が強いゲームである。
そのため、勝敗をコントロールすること自体が難しい。
難しい上に、単純なゲームなので、手加減しようものなら、直ぐに手加減がバレテしまう
手加減して勝つと、あの子は、それに気づいてしまい、
何度もやり直すはめになってしまった。
やっと、あの子は勝つことかできたのだが、
よほど、辛かったのか、嬉しかったのか、
うれしそうに、泣きながら、笑っていた。
とても、世話が焼けた。
しかし、わがままも、今思えば、居心地が良かったのかもしれない。
だから、甘やかしてしまっていた。
でも、大きくなるにしたがって、手がかからなくなっていった、
気付けば私は、あの頃にように、必要とはされていない。
ただ、生活費を与えるだけの存在に成り下がっている。
いや、もしかしたら。もう必要がないのかもしれない。
私が、あいつを養うからこそ、あいつは、いつまでもスネをかじり
楽な世界から、抜け出せないのかもしれない。
何度も働くように催促していたが、催促する程度では優し過ぎた。
あいつが、社会に不安を抱かないように、私があいつに嫌われないように配慮しようとしたからだ。
今では、うざがられるだけで、まともに目もあわせようとはしない。
最近、ほとんど、会話もなく、既に嫌われていると言って良いだろう。
これ以上嫌われても、失うものは何も無いだろう。
私を嫌いになって家を出てくれるのなら、結果として外の世界を知ることになる。
いずれ、一人立ちできたら、
私の気持ちが分かってもらえるかもしれない。
私がした行いも報われるかもしれない。
社会に出るときは、誰もが不安が付きまとって当然なのだから。。
避けることは、不可能なんだ。
根が負けず嫌いの、あいつなら、兆発に上手く乗ってくれるかもしれない。
社会に出ることを不安がってる事をけなせば必ず、
打ち勝とうとする。
人生ゲームみたいに、あきらめずに、自身と戦うはずだ。
よし、叱るぞ!!
私は、強く誓うのであった。
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ドア越しに、強く誓った私がいた。
私は、おもむろにノックをしてみた。。
返事は無い。
いつもなら、寝ている時間なのだろうか。
「清一? 起きてるか?」
返事は無いようだ。
あきらめるか?
いや、だめだ。このまま、あいつは結婚もせずに、一人身で
で、寂しい人生を送っていくことになるに違いない。
もう24歳だ。その頃のオレは既に結婚していた。あいつは遅すぎる。
いつか、私の貯金の底がついてしまっても、今のご時世
無資格、仕事経験も無いあいつを雇う企業あるはずもなく、
ホームレスになって、のたれじぬかも、。
あるいは、わたし達親の介護につかれ自殺・・・
あらゆる、不幸が私の頭をよぎった。
これは、あいつのためだ。
わたしは、自分に言い聞かせた。
私は、恐る恐る、扉を開けて、様子を見た。
布団に顔がかぶさって顔が確認できないが、
どうやら、寝ているようだ。。ぴくりとも動かない。
辺りを見渡すと、部屋は、ゴミが散乱しており
いくつかの、大きなゴミ袋が入口においてある。
湿気のこもった、臭い匂いの空気が漂っていた。
いかにも不衛生で、部屋にいるだけで、病気になってしまいそうだ。
私は意を決して、大声を張り上げた。
「ええ加減せよ!。
毎日毎日、ぐーたらして、、、
このままで良いとおもってんか?
いいかげんに仕事せい!」
大声で言ったつもりだが、反応が無い。
なぜ反応しないのか?
一体、どんな神経しているんだ?
怖がって社会に出られない自分を情けないとは思わないのか?
後ろ向きな自分を変えようとは思わないのか?
お前と同世代の人らは、皆、社会に出て働いてるのだぞ?
、
お前は、おちこぼれか?
「仕事せんのやったら、家を出ていってもらうぞ。」
「それにしても、くさい部屋じゃな?しかも、このゴミの山は?
さっさと起きて捨てて来い・。
どうせ毎日、マスターペーションばかり、やっとるんじゃろ・・・」
私は、そう言い放ち、力いっぱいドア閉めた。・・・
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父、、ついにしかってしまった。
嫌われたが、それでいい。
もし、家出するようなら、外の世界を知る
キッカケになるはず。。。。)
お金の隠し場所くらい、あいつもしっとるし、、、
まけず嫌いのあいつなら、絶対なんとかなる。。。
若いから、捜せばバイト先の1つくらい見つかることだろう。
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私は、仕事の準備を終えて、玄関を出て、階段を降りた。
すれ違いざまに、妻がいる。
私が、今、あの子を叱るしかないのは、妻に原因がある。
私が、あの子を叱ろうとすれば、妻が、止にはいってしまうからだ。
今までも、何度も私の声を妻にさえぎられた。
妻は、極度に、あの子を溺愛しているから、
妻が居ないときを見計らうには、妻がゴミだししてる今しかなかった。
階段を降りきった辺りで、
ガラスの割れる音がした。
あの子の部屋の窓だ。
私は、いそで、部屋に戻った。
愕然とした私
あの子は、鬼のような形相で、物に当り散らしていた。
パソコンで、パソコンを殴り、テレビもほうり投げる。
今まで一度も聞いたことの無い奇声を発しながら・・・
私は、何が何だかわからず。。
放心状態で、眺めるしかなかった。
妻は、私の影に隠れて、何かを私に語りかけていたようだが、
私の耳に一切届かなかった。
私が放心状態のあいだにも、あいつの暴力は止まず
ただ、ただ、激しさを増していくだけだった。
あの子の手は壊れた物の破片で、血の色に染まっていた。
ー妻ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
どうして、こんなことになったの?
私が間違っていたというの?
あの時、死んでも、あの子を守ると神に誓ったのに・・・
あの子は、生まれた時から、病弱だった。
難出産で、母乳を与えることもできず、ずっと保育器の中で育った・
ありがちな話かもしれないが、子育てにはとても苦労を要した。
苦労ながらも,あの子はすくすくと元気に育ち 2歳のある日、
事件は起きた。
私が、庭の草むしりをして。少し目を離したとき・・
あのときの衝撃は意までも忘れられない。、
私が発見したときには、首で一点を支えるように、有刺鉄線の針が突き刺さり、首をつった状態であった。
なんとか、一命を取りとめたが、私は自分の責任を感じられずにはいられなかった。
そもそも有刺鉄線が庭にあること自体も、結果をたどれば私のせい。
この土地に、越してくる羽目になったのも私のせい。
全て私のわがままから、始まっていたこと
あの子が生まれる前、私は、旦那の実家で同居していた。
ありふれた話だが嫁姑との折り合いがつかず、私は、我慢に我慢を重ねて生きてきた。
当時、妻という生き物は、皆、そうやって生きていたから、私もそうしただけだが、
今思うと、実に馬鹿な我慢だったと思う。
どこの世界に、妊婦に重いものを持たせて、会社にいかせようとする姑がいるだろうか?
どこの世界に、法事で、50人も相手の配膳をさせる家があるだろうか?
【結婚すれば人生の一つのゴール】私は、そんな勘違いをした世代だった。、
少しくらい苦労するかと思っていたのだが、
次元が違う苦労までは想定していなかった。
今の時代から、比較したら考えられないことだが。
当時はインターネットも発達していなくて、一般的な常識の範囲内というものから、
逸脱されたものが隠されていた。
特に田舎の男尊女卑思想は根っから染み付いているもので、女に人権は無かった。、
そんな田舎の嫁から逃げるキッカケになったのが、会社の上司との不倫疑惑が持ちあがったことだ。
どこから、そんな噂が流れたかは分からない。
当時私は、美人だったし、コネで入社しているというのもあり、
同僚内で、嫌われていたので、良くない噂が飛び交っていた。
けれど、私はおなかを大きくしている妊婦である。
どこの世界に妊婦と不倫する男がいるだろうか?
私は、家族だけは信用してくれると思ったが、そうではなかった。
姑からは、妻として悪い噂が流れたことが問題だと説教をされた挙句、
旦那と、家柄の社会的貞操が悪いからと、
私に、離婚をすすめ、子供は、後継ぎとして引き取ると言いだした。。
私は、重たいお腹を抱えて家を飛び出した。。
実家に戻ったものの、親には「我侭である」と言われ、説教されるだけで、
言い訳など聞く気はないという感じだ。
わたしには、どこにも居場所はなかった。
私は、考えた。どうしてこんな辛い目に合わなければならないのか?
そもそも、同居などしたくなかった。。。
わたしは新婚生活さらしいものを期待していた。
親の言うがまま、生きてきたけど、この時ほど、全てに絶望し
何もかも恨んだことはない。
私は、狂気に取りつかれ、誰かを殺してやりたい気持になった。
誰でも良かった。
でも、一番先に姑を殺す。
私は、包丁を取りだし、あの忌まわしき家に乗り込もうと決意したこともあった。
この件は、私の異常な挙動を察知してか、実家の姉が、
両家と、旦那に上手く取りまとめてくれたことで、難を逃れた。
旦那は、私の苦しみには、気づいていなかった。
と、言うより、気づかないように、仕組まれていたのだろう。
私自身、旦那に相談したかったが、弱い自分をさらけ出すのと、
親の悪口を言う女をどう思うのか、怖くてできなかった。
私と、旦那は、子供が生まれた後、安いアパートを借りて暮すことを決めて
出産にのぞんだ。
けれど、私は、産後の肥立ちも悪く退院することも出来ず
しばらく、あの子と、一緒にいることができなかった。
また、あの子は、難産で、生後直ぐに病気にかかった。
母乳を飲む、力がなく、虚弱だった。
その間あの子の面倒は、旦那一人では観る事は困難ということで
忌まわしき家が面倒を見ることに・・・
私は、自分が情けなかった。
今度こそ、あの家と縁が切れると、思っていたのに・
今思えば、出産前の過度なストレスが、母子ともに影響を与えたのだとわかるが、
当時は
ストレス=病気
概念は、存在しなくて、
責任のやり場など無かった。
旦那の家族にさえ、感謝の気持があったくらいである。
だから、わたしは、子育てに失敗できなかった。
失敗するなら、また、離れ離れにさせられる。。。そんな脅迫観念があったから
「2歳の時の有刺鉄線の事故」は数針縫う手術で大事にはいたらなかったが、
私は、もっと、努力することを誓った。
けれど、その一回の失敗は、私の神経を過敏にさせた。
24時間、子供を監視していても、どこかに、隙が現れるかもしれない。
そして、あの子が、5歳の頃またしても、事件が起こってしまう。
真夜中7時夕食時。。
私は、なきわめく、あの子を抱いて近所を駈けずり回っていた。
頭から大量の血が出血し、私の手を真っ赤に染める。
パニックになっていた私を、救急車のサイレンの音が、落ちつかせてくれた。
誰が呼んでくれたかわらないが、恐らく近所の人が連絡をしてくれたようだった。
救急車に乗り込むが、
発信しようとしない。
受け入れ先が決まらないのだそうだ。
刻々と時間だけが過ぎていき、、
あの子の泣き叫ぶ声を聞かされていた。
自分への失望感、絶望感、泣き声は、私への拷問みたいなものだった。
この時間が永遠に終わらないかのような、地獄にいる感じだった。
20分ほどで、病院についただろうか・・・、私の精神は崩壊しかけていた。
正直この日は、気が動転してあまり覚えていないのだ。
あの子は泣いていたのか、意識があったのかすら、本当のところ思い出せない・
わたしは、ただただ、祈り続けた、
もう、2度と、絶対に、目を離さない。
事故の原因は、車のエンジン音が聞こえ、父親が帰ってきたと勘違いした息子が、窓辺の網戸によりかかり
頭から落ちてコンクリートに叩きつけられる。というものだった。
出血が多かったものの、何針か縫う手術をして、大事には至らなかった。
あの子は、その後、大きくなっていた。
あの子が高校を辞めたいと言った日のことは忘れられない。
あの子は、トイレで嘔吐して、今にも死にそうな顔で泣きすがり、
、辞めたいと懇願してきた。。
私は、説得を試みようとしたが、あの子は、まともに会話すらできる状態ではなくなっていた。
身体をよくみると、痩せこけていた。
ただならぬ予感を感じた私は、これまでの惨劇が頭をよぎった。
私にとって、この子は生きているだけで十分だった。。。
私は、迷うことなく、この逆境を受け入れた。
やることは、まず、学校に電話することで
何か息子の事情がわかるかもしれない。まず、解決も何もそこからだ。
だが、何一つ原因はわからなかった。
あの子は、おとなしい方であるが、成績も申し分はなく、
友人もいて、普通の生徒であること、
生徒たちに聞いても理由が全くわからないとのこと、、
私は、愕然とした。
要するに、学校に、頼っても何も解決しそうにないということだ。
このまま学校に行かせても何にもならないということだ。
人には任せられない。
私がこの子を守らなければならない。
私はそう誓った。
000000000
だけど、私は間違っていたのだろうか?
あの子の寄行と暴力性を目の当たりにして、また、自分に疑問を感じていた。
しかし、私は、今この現状に対して、身体がとっさに反応していた。
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「畜生!」
「畜生!」
「畜生!」
「畜生!」
「畜生!」
「畜生!」
私は、母の静止を、強引に跳ね除けてしまった。
母は、体勢を崩し、家具の角に頭をぶつけてしまった。
私が、気がついたときには、母は、ぐったりして動かなかった。
こんなこと、したくなかった。
どうしてこんなことになってしまったのか、、
私が、弱い人間だったからだろうか。。
こんな自分は生きていちゃいけない。
そう思った私はとっさに、包丁を取りに向かっていた。
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母は、とても教育熱心な人だった。
ただ、今思えば、少し度が過ぎたと言える。
幼稚園から帰ると、いつも「お勉強」が始まった・
終わるまで遊ぶことは許されない。
勉強ができれば、誉めてくれる。そのことは、とても嬉しかった・
けれど常識の範囲内での束縛とは言えなかった。
問題が解けないとき、母は、とても怖かった。
今じゃとても想像できないことだが、
鬼のような形相で、鉛筆をノートに叩く
恐怖におののき泣く毎日だったが、泣いても終わることの無い勉強の日々だった。
そのころの私は、習い事として水泳もやらされていた。
初めは楽しかったのかもしれないが、水泳教室は、遊ぶところではないのもの。だった。
できなければ、叱られる。できるまで、やらされる。成長しなければ悪い事の様に扱われた。
今思えば、物凄く可愛そうな子である
母のスパルタぶりは、相変わらずで、小学3年まで続いた。
そのころ母は、持病が悪化し、勉強を教えるどころではなくなっていた。
今、現在、母は、毎日泣かした事をとても後悔しているようだけど、
でも、このスパルタのおかげで、成績はずっとトップクラスで、皆にもチヤホヤされた。
だから私自身は、間違っていたとは思ってなかった。
私の心が大きく変化したのは、詳しくは分からない。
元々、性根が学校嫌いから、始まるのかもしれない。
物心ついたときから、幼稚園に行くときも駄々をこねていた。
小学校のときもそうだ。最初は、刺激的だから、続いたのかもしれないが、
1、2年と、立つうちに、少しずつ、ズル休みをしたいと思うようになった。
その気持ちも時間とともに、より強くなっていった。
ある日、嘘をついて休んだのが母にばれて、家の手伝いをやらされた。
そのうち、母に、ズル休みを、疑われるようになり、休むなら、自分で手続するように、
あしらわれたこともあった。
その頃の私はダダのこね方もエスカレートしていて、母も諦めていたのかもしれない。
定期的にズル休みをした。
学校を休んで何をしていたかというと、
テレビでNHKの教育テレビを見ることだった。
他の番組とちがって、独特のものがあって何故か引き付けられた。
病弱だった幼児の時から、1日中みていたし、落ちついた。子守唄のようなものである。
過去の放送もビデオテープに録画して繰り返し何度も見ていた。
学校で嫌なことがあったのか考えてみるけど、無いことのほうが多かった。
1年中イジメっぽいものをされたこともあるけど、
負けず嫌いだったし、イジメ相手もちょっと普通とは違っていていたんだ。、
相手は不良だったけど、一切の暴力はしてこなかった。
相手は体格が小さいから、争いは怖がっていたのかもしれない。
いじめっ子は、靴をかくしたり、椅子、を隠したり、悪口を言いふらしたりしてきた。
クラスで自分一人が目立っていることに、妙に恥ずかしさと、情けなさを感じていた。
プライドが傷ついたというべきなのか。。。
1度、あまりに腹が立って殴ったこともあったが、
これだと、ケンカ両成敗ということで、先生に叱られるだけだった。
先生は、今度、何かされたなら私に言いなさいといった。
いじめっ子は、殴られることを理解したはずなのに、懲りてなかった。
うんざりした。しかも、虐めっ子とは偶然、同じ班になってしまった。
先生の言うことを信じてみた。
毎日、ことあるごとに、先生に報告した。
そのお陰で次第に、いじめが無くなっていった。
そこまでは良かった。
けれど、先生にいじめっ子たちが怒られるのを見ることに、妙な快感を覚えてしまった。
元々素行の悪い、不良な、いじめっ子だから、掃除はしない。授業中うるさい。他の生徒を苛める。
素行の悪さについて、その度に先生に報告した。
けれど、素行の悪さが変ることはなく、終わることない、報告が続いた。
先生は無力だった。
気付くと、チクリ魔というあだ名が、不良たちの間でつけられていた。
今度は、先生がウンザリしたのか、
「貴方は良く気がつく子だから、今度は、あの子達のことは、暖かい目で見守ってくれ」と、・・・
子供だったから、その言葉の全く意味が分からなかった。
いずれにせよ、もう、先生にチクル快感は得られなくなっていたし、嫌がらせを受けるだけだったので、
チクルことも止めた。
学年が変り、先生が変った。
いじめっ子とも、クラスが変った。
僕は、その頃、調子に乗ってしまった。
チクル快感がわすれられずに、だれかれ構わず、素行の悪い人をチクルようになった。
暴力的な不良に、ボコボコされてしまった。
僕はケンカを知らなかった。
その不良は、ケンカ慣れしていて、まずは、左目をつぶしてきた。
何も見えなくなった。、何度も何度も左目のみを殴ってきた。
繰り返される、目だけの、攻撃に、失明の恐怖を覚えた。
もはや、左目の感覚はなかった。痛みも感じなかった・
僕は、恐ろしさに、どうすることもできなかった。
やり返したが、まったく攻撃があたらない。
運良く、クラスの皆が助けに入ることで、灘を逃れたみたいだけど、
気付いた時には、泣いていて、皆の顔を見ないようにした。
男として皆の前で、負けるというのは、とても悔しかった。
男として下だと皆に知らしめているようで、恥ずかしかった。
その時の僕は、とにかく、立ち直れなかった。
それからと言うもの、ごく親しい人間を除いて
人の視線が気になって仕方なくなっていた気がする。
その後、僕は、名門の進学系高校に入学する。
僕は、ここで新たな友達を作ろうと、はりきった。
中学時代は、知り合いがたくさんいたけれど、人の視線が気なる感じで、上手く言葉が
話せなかった。
だから積極的に、話しかけた。
そうして直ぐに友達ができた。うれしかった。
けれど、それは、長続きしなかった。
僕は、ある日、風邪をこじらせ、休んだ。。
3日休んだ結果、その親しくなったであろう友達に、溝を感じた。
その友達には、新しい友達が出来た。
そは良いことであるが、3人で会話すると、僕だけ、全く話題があわなかった。
寂しいと感じるのは普通かもしれないが、僕の感覚では
悔しい、という感覚もあった。
「蔑ろにされている気がした」
人間関係では、良くあることだったから、納得しようと思った・・・
けれど、その友達は、僕と二人で居る時よりも、
その友達同士で居るほうが、明らかに幸せそうに見えたから
一緒にいると、悔しい思いをするだけだから
だから僕は、一から、別の友達を作ろうと思った。。
けれど、僕にはその友達しか、いなかったし、周りを見渡せば、既に、仲良しのグループやカップルができあがっていた。
僕は、その輪に入ることができなかった。
「必要とされていないから、今こうして一人なんだから」
とはいえ、当時の僕は、その様な自覚はなかった。蔑ろにされてるとか、悔しい気持ちも
「寂しい」という思いの方が強くて、隠れて認識できないでいた。
だから、僕は、諦めずに、あがいた。
今日こそ、だれかに、話しかけようと、行動をした。
でも、どうしても、勇気が出せ得ない。会話の一戸が出せない
どうしてこんなに、物事を深く考えてしまうのか、マイナスに考えてしまうのか、自問自答ばかりした。
どうしても、自分から近寄って、心を開くというのは、
プライドが許さない。
まるで、群れを作らないと生きていけない弱い人間である、気がしたのかもしれない。
実際、クラスでも1人で平気そうなやつもいた。
そういう一匹狼は、一人でもなんともないし、きっと自分だって、何ともないはずだ。
とりあえず、出席日数さえ稼いで、いい大学に入って就職さえすればいい。
僕は、そのように考えて日々を過ごすようになっていた。
けれど学校は楽しくない。特に休み時間が辛い、、人の会話の騒音が、雑音として聞こえなかった。
楽しそうなグループの雰囲気をみてしまうと
自分だけが取り残されたような孤独感を得た。
クラスにいると、孤独を感じて、人として情けない自分を感じる。
それが地獄だと当時の僕は認識していた。
弁当は、一人で食で食べる。それが地獄の様に虚しいとは知らなかった。
味も感じる事など、できずに、呑みむのに、苦痛を感じた。
便所弁当という、便所で食ったりすれば良かったのかもしれないが、
その発想は当時の僕には無かった。似た境遇の存在が近くに居なかったから。
教室から出る事自体、負けを認めてる様で、逃げてるようでカッコ悪くて、我慢しかできなかった。
僕は、孤独感を埋めるために、休み時間は、将来へ向けての勉強をすることにした。
その方が、あれこれ考えるより楽だったから・・・
勉強をしたお陰で、学力に余裕ができた。
僕は、ズルして休んでも、成績に影響はないと考え、休みはじめた。
少しくらい、休んで進路に響くことは、ないと、想定したからだ。
僕は、休んで、やりたかった、ゲームで遊んだ。
僕は、その生活が病みつきになった。
僕には、ごく親しい友達が一人いた。
高校が違っていても、一緒に居ることは、多く。
楽しくない学校のストレスを発散するように、よく遊びに行った。
彼と、いつものように、雑談していると、彼女ができたことを報告された。
僕は、驚いた。。彼はもともと、自分の容姿にコンプレックスを持っていて、
とうてい、そんなのとは、縁遠いと思っていたからだ
僕達は、少なくとも世間一般的なオタクみたいなもので、
ゲームばっかりやっていたから、人付き合いとかは、苦手だ。
僕は、どうして彼女ができたのか、聞いてみた・・・
バイト先で知り合ったと言うのだ。
彼女についても驚いたが、バイトも僕にとっては、驚きだった。
バイトは想像もつかない。。
このまま、高校を卒業して大学卒業して、就職というコースを決めていたから、
バイトと言うものに対して、全く考えたことがなかった。
彼は、稼いで、いろいろ買いたいのだといったが、
それ自体も、お小遣い制度のない、僕にとっては、よくわからなかった。
僕は、基本、欲しいものがあれば、親に相談して買ってもらう、というスタイルだった。。
聞けば、接客業をしているらしく、
はきはきと、しゃべることもあるそうだ。
学生なのに、社会と関わっているようで、妙にカッコ良く思えた。
自分より充実しているようで、うらやましい。。
僕だったら、はきはきと、人前で喋るのは、緊張することで、怖いことだった。
それをやってのけている彼について
自分に対して悔しいと感じた。
彼女の話は、聞いてみたが、面白くなかった、。
のろけ話を聞いていて、楽しくないものだと、僕は、初めて知った。
よくよく話を聞いてみると、彼氏以上、恋人未満なんだそう。
良く意味がわからなかったので、深く聞いてみると、
彼女は前に付き合っていた男と、別れたくても、別れる事ができないでいるそうで
彼が、彼女の相談に乗る形で、二人は、好き会う中になったそうだ。
前の男というのが、暴力的な男で、ちゃんと付き合う為には、そいつに交際宣言しなければ、
ならないらしくて、、彼はとても怖がっていた。
僕は、なぜか、ほっとした。
人の不幸は蜜の味ということか。我ながら情けない・・・
彼に、僕の事を少し話した。
僕の学校生活は友達はいないが、その事は話さなかった。
進学系の学校なだけに勉強のスピードが早くて、大変であるということだけ伝えた。
彼は、羨ましがっていた。
進学系の学校なら、不良が居ないので絡まれないこと。成績が良い事をうらやましがられた。
しかし、逆に言えば、成績を取ったら、コンプレックス以外何も残らない。
その後も、ちょくちょく、彼の元に遊びに行こうとしたのだが、
バイトや彼女等で、彼との都合は合わなくなっていた。
その後、学校では、イベントの体育祭をやることになった。
僕は、最初から体育祭には、出席する気はさらさらなかった。
と、いうのも、勉強時間がほとんど削られていて、学校に行く意味がないと思った。
僕は、迷わず休むプランを考えた。
ある程度顔出し、ある程度、手伝うことを考えた。
僕は、与えられた役割の体育祭り準備をしていた。
僕のノルマを達成し、家に帰ろうとしたところ。。
世話好きそうな、おせっかい女に説教された。
彼女は、事情があり、学校を小中学と、いけなかったせいもあり、
学校行事のイベントに力を燃やしていた。
みんなでやれることに対して、とても幸せそうなのである・
しつこい女だった。
僕は、彼女の気持を知りながらも、突っぱねだ。
内心僕にとってはどうでもいいことだ。
友達はいないし、楽しくないし、充実笑顔で幸せそうで妙に腹が立った。
そもそも、僕にとってイベントはろくな思い出がない。
特に体育関連ならなおさら、参加する気などなかった。
小学生の頃のサッカーで、キーパーをやった時のことだ。
絶対に取れると思われる簡単なボール。
ボールは、ゴールには、向かっていない・・・
僕は、そのボールを取ろうとして、失敗した。
ボールの軌道は、極端に変り、オウンゴールとなってしまった。
周りから、やじが、とばされたのは、覚えてるし、
クラスメイトが慰めてくれたの覚えている。
けれども、僕は、失敗から立ち直れない。
あの時と同じである。人前でケンカに負けてしまう絶望。
人としての自身喪失。マイナスの感情が連鎖して沸きあがってる、
どうにもならない。自分自身の能力自体に信用がもてない。
どんな簡単に思えることでも自分の期待度を裏切られる恐怖。
それは、その後の人生でもついて回るのだ。
小学六年の運動会。
大勢で作る、ピラミッド
僕は、大きかったから、土台できまりだった。
案の定、土台は崩れていしまい、骨折者を出した。
土台は、耐えられない痛みだったし。皆も苦しそうであった。
僕一人の失敗かどうかは、確信はないけれど
責任を感じずにはいられない。
なぜなら、僕は失敗するから・・・
中学の運動会
なぜ、学校側は、こんな競技を出し物にしたのはわからない。
人の背中の上を、人に歩かせるという、訳のわからない競技だ。
僕は、偶然にも、親友が上を歩く際のサポート役になった。
補助役みたいなもので,落ちたら何とかして助けないと行けない。
僕は嫌な予感がしていた。
だけど、今回はさほど高くないし、先生も簡単であると、言う。
結果は最悪。親友は骨折した。
予感しておきながら防げないという結末。
親友の彼は、笑顔で許してくれたが、僕の中では、過去の自分に対する失望の連鎖反応が起きた。
だから、僕は、体育系のイベントにはででない。
不幸になる可能性しか見出せない。
僕は、イベントを休んだ。
練習から全て・・・
イベント終了後に、ある女子に、フレンドリーに言われた。
「体育祭どうしたん?やっぱり仮病?けど、こういうイベント休んだりしたら、
クラスで浮いちゃうから気をつけなよ^^」
彼女は、僕のことを心配してくれていたのだろう。
僕には、その言葉は既にクラスで浮いている存在である事を認識するキッカケにしかならない。
孤立してるから、彼女は、僕に気がついた。。
他人からは僕は、孤立していて、情けをかけられる存在。
弱い自分を必死で隠そうとしている自分に、嫌気がさした。。
男としてのプライド、失望の連鎖反応が加速した。
この頃から成績は、少しづつ下がっていった。
成績は上位をキープしていたものの。
勉強が、理解できているという、感覚がなかった。
というより、教科書の意味がわからなかった。
訳がわからなかった。気がついたら勉強に付いて行けなくなっていた。
点は取れるのに、勉強がわからないという矛盾
いろいろ調べると、どうやら、国語と英語がボロボロだったようだ、。
僕にとっては答え合わせが難しい科目だ。
実際、人間の感情を文章から読み取ったりする作業は、
答えは一つでも、書き方によって、幾千通り可能性がある。
例えば、文字数制限がないまま、登場人物の気持を書け
という問いだと。仮に文字数30で書くと、
ひらがな50音の組み合わせだけで・・・
もし、答え合わせをしても文章の意味が全く分からないというのなら、改善するのは、
並大抵ではない。
僕は、中学レベルまで、教科書を落としてみたが、全く、問題の文章が理解できない。
僕はもともと、国語は苦手だったのだが、今まで、それがどの程度苦手だったのか気がつかなかった・・
いつも、漢字や英単語をシンプルに答える問題のみで、点を稼いできただけだった。
僕は、当時、文章の50文字以上で成り立った物語を理解する力が全くなかった。
【登場人物の気持ちになる】、という行為自体を発見できなかったのだ。
僕は、大人になるまで、この理由にさえ、気がつかなかった。
なぜなら、参考書や、実用的意味をなした文章は、理解できたからだ。。
経済学も不自由はなかった。
そうとは知らず。
僕は、まき返しの勉強を続けた。
1日を大半を使っても、全く分からない。成績が伸びない。
僕は、失望の連鎖反応を繰り返し、疲れ果てていくのだった。
誰かに相談すると言うのも、思いつかない。
恥ずかしいことと認識していた。
ホームルームの時間も勉強をしていて、先生に叱られる。
勉強の合間はともかく
休憩時間は、生徒の楽しい笑い声響いてくる。
思えば皆、僕より成績は低い。僕だけが必死こいて頑張っている。
僕から勉強を以外を取ったら、何も残らないから
仕方がない。
頑張るしかない。
頑張れば頑張る程、空しさを実感する。学校に行けば空しいだけ。
僕は、学校を休もうとした。
けれど出席日数が足りなくてっていて、もう休むことは出来なかった。。
ある日、僕は、昔の友達に出会った。。。
その友達は、僕を虐めた、素行のわるい友達の話をしていた。
高校へは行かず、アルバイトを2つ掛け持ちして、すでに、親から自立していて
バイクを買う金を貯めているのだそう。
僕は、、その話をずっと考えていた。
ふと学校を辞めたいという感情がよぎった。
なぜだかわからないが。。その彼が自由に思えたのかもしれない。
けれど、決断はできない。
何より、両親に対して、申し訳無いと思う気持ちと。
今まで勉強で努力して積み上げたものを壊すのは、
どうしてもできなかった。
辞めたい、辞めたくない。
その2つの葛藤に脳内が侵食されて
次第に僕の感情は壊れていき、溢れ出した。。。
恐らく、余計な事を考えすぎて、脳の回転率が落ちで、
あらゆる事が上手くいかなくなった。
当時の自分はそれを自覚でき程、脳の構造には詳しくなかったから
感情を保てない、パニック障害の様になっていた。
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結果的に僕は、学校を辞めた。
理由は、おそらく親も教師も知らない。
自分でさえ上手く説明できないのが、判っていた。
理解できてないから、
やめた事を納得できたワケでないから
とにかく、学校を逃げた事が恥ずかしくて
情けなかった。
親友にも、止めた事を打ち明けられなかった。。
親友は、勉強もバイトもがんばってるし、今の自分を見せるのは恥ずかしい
僕は、人目をさけるように過ごした。
自信を、完全に失っていた。
けれど、退屈はしなかった。
母は、僕を盛大にこき使ったから。
家事を手伝だわされていくうちに、。料理の腕も上達していった。
「いつでもお嫁さんに行けるね」と、母はギャグをかましてくれだ。
僕は、なんとなく、ここでなら生きて良いような気がした
今、思うと
母は少し変な人で。
僕が家事を任せ旅行にしばしば行くことがあった。
旅行から帰ると、土産話を聞かされるのだが、
ある日、前世を思い出したというのだ。
母は、エジプトの時代の女王ファラオの生まれ変わりで、僕が、ツタンカーメン。
なんだそうだ。
また、キリストの生まれ変わりで、一休の生まれ変われリだというのだ。
とんでもなく、おかしな、話だが、母は、真剣そのものであった。
しばらく平穏な日々が続いたある日、一冊の本に出会った。
その本は、社会の矛盾やお金について、の考え方が書いてあった。
父がくれた本だが、
その本には、最も合理的な職業は、
金持ち相手の商売が、葬儀関連か、ピンさロなんだそうだ。
世の中のお金のカラクリがいろんな角度から書かれていた。
父は、ここから、何を読みとって欲しいのかはわからなかった。
けれど、父がとても現実主義者であり
仕事につくなら、夢が無くても、安心できる仕事につけという意味だったのだろうか?
僕は、いろいろ想像した。
どの職業も、楽しそうなものではないが、真剣に考えた。
でもこの本の作者は、そういった職業を、読者に進めながらも、
作家としての仕事に誇りを持っていた。。
作家は誰からも不当な利益はとらないし、誰にも迷惑をかけない。
物書きという職種について、煌びやかに見えた。
作者自身が合理的に金儲けを考えるモデルになっていたから、その本に説得力が生まれていた。
その作者は僕がその本を手に取って直ぐに死んだ。
その作者とは青木雄二の事です。
後編に続く。