新生 柏木眞弓へ
自由になると色々なモノが見えて来ます。
主人公 柏木眞弓は今までの自分とサヨナラしたくて試行錯誤しながら生きています。
泥臭い人間の欲望も湧かせながら新たな自分に変身して行きます。
何かを手放すと別の「何か」が手に入ると言うのか。
目の前にY字路が現れ、人生の分岐点に立たされているような気がしてならない。
ただ、どちらが幸せだとか不幸とか書いてある看板らしき物はどこにも見当たらない。
この視線の先に幸せがあるのだろうか。
そこから目が逸らせなかった。
彼の落としたボールペンを握り、消えていったエレベーターを見てそんな事を思っていた。
彼の横顔を見た瞬間、瞳孔が開いたみたいに瞬きが出来なかったのは何故だろう。
眩しそうに私を見たと思うのは単なる私の都合のいい勘違いなのか?
「雰囲気かわりましたね」は、ぶつかった事を誤魔化すために搔き集めた苦し紛れのリップサービスだろうか。
エレベーターに消えた後もこうしてるのはその言葉の意味を確かめたいのかもしれない。
いや、もう一度言ってもらいのだ。
覚悟した上でちゃんと聴きたい。
調子の良い言葉で私を好き勝手自由に操ってきた男達とは違うと確認したい。
何故なら、営業成績もさることながら顔やルックスだってまあまあ良いオトコなのだ。
背も高く清潔感もあって華もある。
さすがの人間不信の私でさえ気になるような相手が、慌ててぶつかって私物を落として去るというドラマチックな場面を引っ提げてやってきたのだ。
しかも向こうから絶妙なタイミングで。
今これを渡しに行くべきか明日渡すべきか。
名前入りでブランドならばかなり大事な物のはずだ。
それに、今探してるかもしれない。
今渡せば、帰社後の仕事の大詰めで素っ気なくされるかもしれない。
明日渡せば、何故昨日持って来なかったのかと不審に思うかもしれない。
今自分は嫌なオンナと思われたくないからアレコレ考えているのだ。
もっと言えば印象的に渡したいのだ。
やはり明日にしよう、今日は社内の代替のボールペンで何とかなる。
どうにかこうにかその場を離れ歩く自分の頬に、夕闇のヒンヤリした空気が触れる。
まだ顔の火照りが引かない。
彼の余韻に浸り心が踊っている。
無重力とはこんな感覚なのか?体全体がフワフワしている。
ぶつかった事を無かった事にしてしまうほど彼の眼差しは私に強いショックを与えた。
きっとその瞬間に心を射抜かれたのだ。
きっとこれが恋なのか、呼吸も苦しい気がする。
初めての恋心にフワフワ浮いている自分をかみしめる。
右へ左へフラフラ、歩く足元もおぼつかない。
…思えば生活はいつもオトコ中心で、周りが私と距離を置くほどある意味私が夢中になっていた。
執拗な着信もメールも私にはたまらなく嬉しかった。
私を必要としてくれているのだと疑わなかった。
物を投げつけたり手をあげるのは子供のような愛情表現なんだ自分は母親のように受け止めようと自分を納得させるのは簡単だった。
仕事中に別のオンナを連れ込まれたり、クレジットカードを使われたり、挙げ句の果てにキャッシングをされていても、全て愛情の裏返しだと信じ込んでいた。
部屋でそのオンナと鉢合わせしても全て許したのだ。
…とんでもない馬鹿オンナ。
私は数年間も馬鹿なオンナだったのだ。
体にも心にも傷を負ってボロボロな自分に目を瞑って、それを見ないように生きていたどうしようもないオンナだ。
謝る事をその場凌ぎの術だとも気付かない馬鹿でチープなオンナの結末はいつも同じ。
都合のいいオンナなのだ。
気が付けば同僚達が流行りの言葉やファッションやメイクで着飾っていた。
置いてきぼりをくらった自分が悪いのに嫉妬した。
彼女達の巻き髪に凄い違和感を感じた。
今なら解るが、それは憧れではなく強い嫉妬心だった。
もしかしたらその感情が冷酷でサディスティックな一面を引き出したのかもしれない。
咄嗟とはいえ他人に持ち物に手を出すなんて考えられない。
メチャクチャにしてやりたい、しかもそれで傷ついてほしい。
もしかしたら自分が味わってきた屈辱をいつか誰かにぶつけてやりたいとどこかで思っていたのかもしれない。
しかも誰でも良かったわけじゃない。
苦労知らずで明るくて可愛いオンナにぶつけたかったのだ。
数年で私は捻くれてしまっていた。
そんな自分の心の闇があの日に突如現れたのだ。
私の数年間を軽い出来事にした木下友美はあの日に条件が揃ったのだ。
絶好の獲物になったのだ。
無計画とはいえ私の仕返しはかなり効いた。
有頂天だった彼女があれ以来病んで老けこんでしまったのを見て、自分の存在は誰かを変えられるとハッキリ感じた。
言い方を変えれば自分の存在を認識できたのだ。
あんな方法ではあったが私にとっては身震いするような興奮した一瞬が手に入ったのだ。
周りから見えない空気のような存在に扱われるのはもう堪えられないと思っていた私にはたまらない事件になった。
気付けば狭い狭い世界にポツリと生きていた。
死んでるみたいに生きていたのだ。
誰からも大事にされない自分はもう嫌だと思っていた。
もうそんな生き方はしたくない、絶対に周りを見返して幸せになってやる…。
今までの自分とバイバイしたい。
誰かの目に留まる自分になりたかった。
だからこそ大胆に変身しなければならなかったのだ。
いつの間にかポッと点いた小さな火がメラメラと燃えだしていた。
彼を自分のモノにしたい。
熱くなる頭の中にこの文字がハッキリ浮かび上がった。
思えば思うほど、恋心を抱いているからか木下友美に対する当てつけなのかわからなくなるほど気持ちは複雑にドロドロと渦巻く。
胸に手を当ててみる。
一度おさまったドキドキが高まってきているのを感じた。
どうにかして彼を落としてみせる。
私はもう今までとは違うんだ。
ワンランク上のオンナと言われたんだ。
地味で暗いオンナだったなんてもう誰も思わない新しい自分なんだ。
電車の窓に映る自分の口元がまるで誰かを小馬鹿にするように片方だけ吊り上がった気がした。
車窓の向こうの街灯はまるで新たな私を応援しているかのように赤や青や黄色に激しくチカチカして見えた。
閑散としていた部屋に戻り着替え、計画を練ろうとビールに手をかけた。
喉を通るビールも板についてきている。
当たり前のように気持ち良く流れていく。
「フーッ」
気合いを入れるように強目の息を吐く。
私の事は知っているのだから一応はスタートラインには立っている。
テーブルの上にボールペンを置き眺めてみる。
「Masaki.H」の刻印が目に入る。
ボールペンの奥の置き鏡に、オンナの私か悪魔の私か区別がつかない自分が見える。
「マサキ…」
こんな私に振り向いてくれるだろうかとオンナの私は言う。
大丈夫よ当たり前じゃないアナタは素敵な女性よ社内中で評判じゃないと悪魔の私が言う。
鏡の中の自分と睨めっこになった。
ビールを口に運んだと同時に床づたいに振動を感じた。
バッグの中の携帯電話の振動だ。
ゴクリとビールを飲み込んでもまだ振動は止まらない。
着信だ、体を倒し手を伸ばしてバッグを引き寄せた。
「城田 スカウト」の文字が目に入った。
回り始めた酔いが一気に吹っ飛ぶ。
「はい」
精一杯落ち着いているフリをして声を出した。
「おねえさん?元気してます?城田ですけどわかりますか?」
電話の向こうの城田は私に敬意を払うような優しい言い方で話し始めた。
「出てくれて嬉しい。おねえさんからお電話が無いから気になっちゃって」
先々週になるだろうか、城田が現れてから自分がオンナである事を自覚したのだ。
城田の揺れる前髪と赤いマフラーを思い出した。
「体験、考えてくれてる?おねえさんなら稼げると思うんだけどな」
始まった。
確認してやろうと考えていた事を聞く良いチャンスが来た。
「そこの店のナンバーワンは幾ら稼いでるの?」
私には到底想像もつかない世界、興味が無いわけでもなかった。
「ウチの店のナンバーワン?うーん、月120かな」
「120⁈ 120万⁈」
思わず声が大きくなってしまった。
「うん、しかも毎日出てないしね。おねえさんなら週4で同じ位いくんじゃないかな?と踏んでるんだけど」
私の想像を遥かに超える金額に違いなかった。
その半分でもオトコが作った借金もすぐ返せると思った。
「詳しい事は体験に来た時に教えるから是非来てみてよ、会社帰りで良いからさ」
肩で携帯電話を挟み、城田からもらった名刺を探した。
財布の中のお札入れの中に入れていた。
「名刺に住所も電話番号も書いてあるでしょ?突然来ても大丈夫だけど僕がいた方が良いから日にち決めてみてよ」
城田は私をドンドン私を誘惑する。
でも嫌な気分じゃなかった。
「明日はどうなの?」
明日はY字路をハッキリ進む日になる。
城田の釣り糸は勢い良く巻き上げられた…
…まだまだ続きます。
新たな自分を見出し始めた柏木眞弓。
まだまだ変貌して行きます。
マサキとはどうなるのか、
初体験の夜の世界はどうなるのか…
次話もどうぞお楽しみに。