私は私
誰でもない自分なんだ、と気付き始める。
「やっだぁ!」
机の上に視線を落としていた私は耳がキンとなって息を呑んだ。
今まさに留めようとしていたホチキスの焦点がブレ、声にならない声が漏れそうになった。
「も〜柏木さんじゃない!誰かと思ったわよ!」
カッチンと合わさったホチキスの振動を感じるのと同時にその甲高い声の持ち主の方に勢いよく首を回した。
毎朝私の次に出勤してくる「元ランチ仲間」で社内恋愛中の木下友美だった。
エクステのまつげで一層強調した目をパチパチさせながら立っていた。
「攻めたわね〜」
木下友美は私の髪をつまんだ。
染まり方を客とカウンセリングするための見本、小さく切った毛束をグラデーションに並べたサンプルを見せてもらい、ぷっくり唇の美容師の言う、「これが一番明るい黄色ですよ」を私は選んだのだ。
染めた経験やパーマをかけた事がない黒々した髪には思い切った挑戦をしないと変わらないのだ。
「初めてなのに柏木さん勇気あるわね!」
初めてじゃないんだけどな、と言いたかったがやりとりが長くなると煩わしくなると思い、
「うん」
ジロジロと頭部を眺めている彼女に照れて見せた。
土曜日に染めた髪はシャンプーするごとに傷んできたのか今朝になってまた一段と黄色味が増していた。
「日を空けずに染めると痛みますけど大丈夫ですか?」
ぷっくり唇の美容師が言った通り、少し艶も失われまとまっていないような手触りだった。
美容院で勧めてもらったパサつき防止の美容液を毛先全体に染み込ませた。
髪を染めた時に残る独特のツンとした臭いは三日経ってもまだ気になったが、そんな事より周りの反応がどうなのかを考えると怖くもあり、モヤモヤドキドキしながら出勤した。
誰も私の変身に気づかないかも、という予想は見事に外れ、かなり周りの目に留まっているのをエレベーターに乗る時から感じた。
私は私なんだ!
自己主張するにはこれくらい潔くないとダメなんだと思った。
「柏木さん、今日ランチどお?」
元ランチ仲間の前田さおりは私がトイレに入るなり声を掛けて来た。
濡れた手をハンドタオルで拭きながら鏡越しに微笑んでいる。
どうしたというのだ。
ここ半年、もしくはそれ以上ランチを誘って来る事なんてなかったのに、突然の変わりようだ。
「前みたいに頻繁に電話してる感じがないからどうかなって皆んなと話してたの」
上目使いでゴメンネというような仕草をして言った。
「ありがとう。今日はお弁当あるから明日からよろしくね」
本当だけど本心じゃなかった。
かなり時間が経ちすぎて今更上手く溶け込めるかどうかを考えたらもうどっちでもよかった。
「でも思い切ったわね、柏木さんじゃないみたいよ」
そんなに違うのか。
彼女の横に並び鏡を見てみる。
前田さんと大して変わらないんじゃない?と言おうと息を吸う。
「雰囲気変わって良いわよ〜垢抜けて」
私の発声より先に胸の前で小さく拍手した。
悪気はないのだろうが、ようは、今風になったね、私達に追いついたね、と言いたいのだろう。
「じゃあ明日ランチね」
彼女はハンドタオルをポケットに突っ込みフロアに戻って行った。
鼻からフンと息を出し改めてもう一度鏡を見てみる。
うん、確かに。
洗面所に設置された蛍光灯は顔色を悪く映す。
角度を変えまじまじ見る。
自分自身との付き合いが長いからどうしても客観視が出来ないが、私をよく知らない周りからしたら髪色が極端に変わっただけでも別人みたいになるのだろう。
「つまんなくない」
ふとそんな言葉が出、鏡の中の自分と目が合った。
「つまんなくないぞ」
鏡の中の私が強く言った。
今日が最後になるかもしれないなぁ、と思い出の濃い非常階段ランチに感傷的になりながらトイレの個室に入った。
気にすればするほど体中が敏感になっていった。
いつもは私に見向きもしない男性社員が私を見ている。
中には「良いね」と肩に手を置きにこやかに声を掛けてくる人も現れた。
視線て意外に察知出来るものなんだ、モテる女子は常にこんな感じなのか、などと思いながら、ポコポコ生まれては弾けるシャボン玉のようなくすぐったさを心地良く受け入れていた。
今まで異性を意識した事がなく、自分にもさして興味を持った事もない。
周りが私をどう見てるかなんて考えた事もなく毎日をただルーティンワークでやり過ごして来た。
周りの人には風景に溶け込んだ木みたいな存在だったと思う。
もっといえば、あってもなくても困らない木。
木はまだ葉をつければ光合成をして酸素を作り出し、季節感や素晴らしい景色を与えて人の役に立つが、私なんて何の役にも立てない年中枯れた木のようなもの。
水を与えてもらい栄養豊富な土に植え替えてもらえるような美しい木だったら萌える木になれていたかもしれない。
所詮綺麗でもなく可愛くもなく、ましてや明るくもないのだから誰の目にも留まらずテコ入れされなかったのだろう。
それどころか、水を与えるフリをして近づき、根こそぎもぎ倒してやるぞと恫喝する男にばかり捕まってしまった。
根が土から顔を出していた。
やせ細り枯れきる寸前だった。
もしあのままずっと同じ生活を繰り返していたらどうなっていたんだろう。
また肋骨にヒビが入ったりするような怪我を負わせられただろうか。
…一体 何人の愛情という暴力を受けてきただろう。
もしかしてその手の人に私の名簿が回されてるのではないかとさえ思う。
優しさが強い束縛に変わる。
この変わり時が私にはわからなかった。
そもそも最初の男が私の人格を創り上げてしまったのだ。
気づけば自分の考えを持たなくなりあまり話さなくなり行動範囲も狭くなっていた。
人間として未完成な私をもみくちゃにしたのだ。
二回堕胎した。
二回とも最初の男で経験した。
男は手術代を払わなかったため、実家の母に理由をつけて送金してもらって当てがった。
運良くというのか一度目は長期GWと重なった。
皆んなは旅行で楽しんだだろうが、私は産婦人科のベッドの上だった。
一度目の堕胎は決心がつかずに泣いた。
育てる勇気なんて全然なかったが、自分の中に芽生えた母性が本能的にそうさせた。
当分の間この感情を引きずって暮らしていた。
二度目は涙が出なかった。
男は私が貯めた僅かな貯金で堕ろせと言った。
悲しかったが諦めもついた。
精神的に崩壊していたのかもしれないがそれでも小さな命に大しては残忍残酷で許されるはずはない。
怪我や傷を隠して会社に行くのに必死だった。
同僚達に体の変化がバレないようランチ以外なるべく接触しなかった。
誰にも相談しなかった。
蹴られも踏まれても、叩かれても殴られても男の元に帰っていた。
もう既に自分がなかったのだ。
その男は私の仕事中に他の女性を連れ込み、情事に勤しんでいた。
しまいには振込み用にと分けて引き出しにしまっておいたお金を抜いて出て行った。
でも悔しい憎いより、寂しくてたまらなかった。
傷だらけになった自分を女として見てくれるのは彼しかいないと思い込んでしまっていた。
「私を愛しているから嫉妬に狂うのだ」
どんな仕打ちを受けてもそう行きつくように私は創り上げられてしまっていた。
性格は変わるはずがないと人は言うが、かろうじてもぎ倒されずに済んだ私は「釘事件」から何かが変わり始めていた。
社服で出勤していたのを私服通勤に変えた。
慌てて彼の待つ部屋に帰るには着替える時間さえ惜しいと思っていた。
そんな生活からしたらかなりの進歩だった。
しかし相変わらず休日は何もなく、通勤の私服を買うためにデパートやショッピングセンターをブラブラした。
歩きながらビルのガラスに映る自分の姿を見てちょっと気取ってみたりした。
黄色い髪はまるで前からそうだったようにしっくりきていた。
眉毛も髪色に合わせ黄色味があるアイブロウを買った。
ドラッグストアで「見本品」のシールが貼ってあるサンプルを手に取り、備え付けの鏡風の厚紙に向かって右に左と塗ってみた。
これがなかなか似合った。
そもそもドラッグストアの化粧品コーナーでジックリ選ぶ事なんてなかった。
あまり働かない彼を養う形になっていた私の財布事情からして、圧倒的に安い物を、と値段で決めていた。
色々手に取って試している女性達が無言でひしめき合ってアレコレやっているなんて知らなかった私は、美に興味を持つ普通の女性の仲間入りを果たした自分に背筋がピシャリと伸びた。
「ねえねえ今度合コンどお?」
最上階にある社員食堂は今日も賑わっていた。
ただ食べるだけに来ている忙しい営業マンや、ランチタイムにお喋りを満喫しているOLで席は満席状態だった。
5人分の席はいつも確保出来る。
私が加わり5人になったがランチもルーティンの一つにしか過ぎず、周りはほぼ同じ顔ぶれで席はすぐ固定化されていった。
「柏木さんも是非一緒に!」
イケメンの彼を持つ伊東里奈が小鉢の冷奴のしょうがを口に運びながら誘って来た。
「里奈の彼氏がメンツ集めるの?」
縁の細いメガネを指で押し上げながら山本香理は尋ねた。
山本香理はフリーだからわりとコンパには行っていると言っていた。
前田さおりも少し鼻息が荒くなり興味津々に聞いている。
「私はバレたら嫌だもんなぁ」
木下友美はつまんなそうに肘をつき、箸で皿を突いた。
「女子の結束力でバレないようにしよう!」
伊東里奈はパンと軽く木下友美の肩を叩いて笑った。
私には初めての経験。
お酒もさほど強くないし種類も知らないし、合うつまみも全然わからない。
コンパに初心者の私が行っても大丈夫かと考える。
聞くのも無意味か、と思い冷めかけの味噌汁を口に運んだ。
「お店決めなきゃね!」
どうやらこのまま進む方向になったようだ。
少々のサービス残業と食材の調達をしたためいつもより帰りが遅くなり、辺りはすっかり暗くなっていた。
スーパーで買い忘れたビールを買いに入ったコンビニで会計を済ませ自動ドアを出たら、フワッと冷たい空気が顔や首を撫でた。。
コートの襟元をギュッと掴みながら足早にアパートに向かう。
わりと静かな住宅街だ。
帰宅を急ぐ人達が点々と見えた。
外灯に照らされた自分の影を誰かが追い越した。
こんなのはよくある事だった。
「光が強いと影も強いんだよ」
大学時代に尊敬していた先輩が何気に言ったセリフが脳裏に浮かんだ。
背が高く華のある先輩は女子の憧れの的だった。
自分の足から生え伸びている影を見た。
コートの裾が夜風に翻ったりしているのがわかった。
でも私の影はボンヤリしているようにしか見えない。
おかしいな、さっき追い越した人の影はとてもハッキリとした輪郭が見えたのに…。
外灯に照らされているだけの物体に何の意味も持たないはずだが、私の影、という見方をしたら何故か暗闇と同化した道路に魂が吸収されてしまっている気がした。
水も与えてもらえない可哀想な自分か、と影を見ながら歩いた。
肩の古傷がズキンと痛くなった。
と同時に、
久しく何の反応も無かった携帯電話がポケットの中で震えた。
振動がすぐ止まったから多分メールだろう。
それでも誰かから必要とされている感覚が嬉しくて、買い物袋を足元に置いてすぐさま携帯電話を取り出した。
昼に同僚達と交換した無料通話のアプリからメールが一件届いていた。
「柏木さんお疲れ様。今週末に決まりました。宜しくお願いね」
文字の終わりにはビールで乾杯している絵文字が入っていた。
同僚達の顔が浮かんだ。
もっともっと強くなりたい!
周りがビックリするくらい圧倒的な強い光を放ちたい!
心も体も消えそうになりかけていた私に初めて湧き上がった強い感情だった。
私の影が起き上がった気がした。
…続く。
身も心も崩壊寸前だった柏木眞弓。
次からは自我が芽生えます。