漆黒の次の色
足先に溜まったパンストを、まだむくむ前で余裕のあるパンプスの中でもぞもぞしながらドアの鍵を回す。
カチャン。
乾いた空気に軽く響き渡る施錠の音を確かめ、冷たいドアノブをガチャガチャ押し引きして、盗まれる物なんてないけど、などと考え部屋を後にした。
毎朝当たり前の出勤。数分の狂いもなく小さなアパートの階段をカッカと降りた。
すれ違う人はいつも大体同じ。
みんなそれぞれ仕事場や学校に向かうためだけに歩いている。
誰かと会話するでもなく、ただ足早に進む。
今朝は特に冷え込んでいるせいか、誰しも前のめり気味に体を丸め、いつもより縮こまって見える。
ふと自分の右脚に目が行った。
誰もこの傷は知らない。
彼がいなくなって10日。
赤蒼く存在していた爪痕のような模様は、膝丈のタイトスカートに隠れて誰にも見えなかった。
OLなんて退屈なバカみたいな仕事だと彼に鼻で笑われたが、この仕事のおかげで毎日定時に終わる事も出来たのだ。
ふと左ポケットの携帯電話を触ってみる。
毎朝同じ電車に乗り、乗り換え、会社に向かう。
「これ以上乗らないで!」
全力で叫んで押し返したいくらい奥に押し込まれる満員電車の朝もあった。
それでもバイブレーションを感じたら即座にポケットに手を入れ、右へ左へ波打つように揺れる正気のないサラリーマン達に左肘をぶつけながら取り出し、隙があれば返信していた。
「大丈夫か?もう着いたか?痴漢されなかったか?俺の大事な眞弓に手を出したら許さないから」
こんなメールが毎朝のように来ていた。
エレベーターに乗る前に脳に焼き付け、3階の自分の職場フロアに向かう。
運悪く上司がいれば「今書類を捜してます」という姿を見せながら机の一番下の引き出しを開けて手を入れファイルを探るパフォーマンスをしメールの送受信をしていた。
意味のないようなメールも含めて多い時は200通を超えていた。
昼休みになれば電話もあるため、ランチ中ずっと通話している私に同僚も気を遣い、しだいにランチに誘わなくなった。
周りがランチタイムに立つ。
わざと遅れて、ほぼほぼ誰も使用しない非常階段の踊り場で昼食をとるようになっていた。
…これが日課だった。
変わりなくいつものように慌ただしく朝の支度をしている同僚達をチラ見して着席する。
右ももにそっと手を置きスカートの上から傷に触れてみる。
あんなに気味の悪い赤黒い模様を描いていた部分は昨日あたりから皮膚に近い黄色に変わって来て終盤を迎えていた。
何故かもう数日で自分が自分である証が消えてなくなるような気がした。
肩より伸びた髪を明るくしてみた。
生まれて初めて染料で染めた。
「黒髪も流行りですよね」
金髪の若い美容師は足で椅子の高さを調節するためプスプスとリズミカルにペダルを踏みながら大きな鏡越しに私に微笑んだ。
艶のあるグロスをしっかり乗せたぷっくり唇が印象的な女性だった。
トイレや来客用のお茶の準備をする給湯室の鏡に自分を映してみる。
様々な角度から自分の髪色を観察してみる。
右を向き、左を向き、斜めにしたり離れてみたり。
良く言えば自然でナチュラル、悪く言うなら時代遅れともとれる私の手付かずの髪は、誰も気づかないくらいにしか染まっていないみたいだ。
つまらない。
これが本心だった。
とんでもなくイメージチェンジをしたかったわけではないが、私の初体験、誰の目にも留まらないのは惨めな気がした。
「初めてですので満足のいく色に染まらないかもしれません」と言った美容師のぷっくり唇が浮かんだ。
「今日飲みに行こうよぉ」
同僚達が終業間近からキャッキャと話している。
「飲みたかったの〜」
「パスタ食べた〜い」
などとすっかり意気投合してリズミカルに片付けをしている。
私もトントンと音を立てながらファイルを揃えたりして机の上に仕事の残骸がないようにしたが、そんな私の「誘ってアピール」は彼女達の目には入らないようだった。
「それでさぁ〜、あ、柏木さんお疲れ様〜!」
「え〜そうなの〜?嘘〜」
OLの話は上司の批評かプライベートの恋バナなのはどこも同じだ。
廊下から聞こえる同僚達の笑い声。
伊東さん、イケメンの彼とよく喧嘩したと怒ってたけど最近はどうなのかな。
前田さんはお母さんが癌になったと泣いていたけど休まず出勤しているから落ち着いてるのかな。
木下さんは社内恋愛。同じフロアにいる一つ年下の彼と上手く行ってるのかな。
山本さんは…
あれ、私、皆んなの事を何も知らない。いつからだっけ…?
使い慣れたボールペンのキャップを閉め、電話の横のペン立てに差しながらフリーズしてしまった。
ほんの数秒だったと思うが、アレコレ言葉が思い浮かびかなりの時間が経ったように感じた。
上階から降りてきたエレベーターに乗ったんであろう、華やかな笑い声はとっくに消えていた。
まだ終わる事ない残業を余儀なく強いられている男性社員を尻目に、一枚しか持っていないベージュの冬用コートを着た。
軽く会釈をし部屋を出た。
今日は私も飲みたい気分だ。
すぐにお酒に飲まれる彼を気にして、足元がふらつくまで飲んだ事はなかった。
多分強くないだろうが、アルコールの力を借りて酔ってしまいたいと初めて思った。
色々な事に思いを馳せていたのか、気付いたらアパートの最寄り駅まで帰って来てしまっていた。
つくづくつまらない女だなと溜息が出た。
途中のコンビニに入る。
いつもはここで彼のタバコを買って帰っていた。
窓を全開にし空気を入れ換えたり、新しいカーテンに替えたがあのタバコ独特の臭いは部屋に染み付いていようだ。
扉の閉まった冷蔵庫の前でビールを物色した。
出来ればアルコール度数が高い方が酔えると思い、扉を開けて表記を見るために缶をクルクル回した。
味にこだわりがない私は、とりあえず塩気のあるつまみとビール数種類をカゴに入れた。
アパートに帰ると、電気、エアコンを点け、鳴らない電話を充電器に挿し、色気も何にもない上下のグレーのスウェットを着、酔う気満々で床に座った。
普段あまり見る事が無かった自分の顔を見る。
百均で買った小さな置き型ミラーに映る自分は、パッとしない、インパクトも全くない女に見えた。
得意ではないビールだったが、空腹が効いて更に早く回っていった。
久しぶりに一人で飲む。
気楽さも手伝ってかナルシスト気味に何度も髪色を確認してみる。
やっぱりつまらない。
この一言しか出て来ない救いようのない自分の姿。
「この黒髪は幽霊そのもの。地味というか恨めしい顔にも見えてしまうわ。そういえば茶髪の幽霊っていないな…」
アルコールで赤らんだ頬を撫でながら4本目のビールを勢いよく喉に流し込んだ。
お酒を飲むと違う人格になる人がいる、と言うけど、あれは違うわけじゃなく、やっぱりその人なんだと思う。
その人を今一番大きく占めている感情が、ある一定に達すると噴き出すのだと私は思う。
私は泣いた事がない。
でも今は涙が出ている。
今一番私を占めている感情が噴き出したんだ。
本当は寂しくて寂しくてたまらないのだ。
私は何なのか、何のために存在してるのか…。
誰からも見向きもされない可哀想な自分に涙が出て来たのかもしれない。
私は私なんだよ!
つねられた傷跡がスウェットの下で疼いた気がした。
…続く。