美しい仮面の下
まるでこの世に存在していないのでは…と思うほどに目立たなかった柏木眞弓。
こんな自分に好意を寄せる同僚を、都合の良いように利用しようと企て始める。
ヒロヤに掴まれた髪は束で抜けただろう、頭皮がかなりヒリヒリと痛む。
絞められた首も、まだ手の感触が残り、気持ち悪かった。
何も悪い事はしていないんだし、いっそ警察沙汰にしてしまえば…
何度かそう考えたが、勇気が無いのか、何が足りないのか、一度もそれが出来なかった。
このまま目を閉じて寝てしまいたい、消えてしまいたい、という気持ちもあったが、高橋にここの住所を送信した以上、こちらに向かって来る。
何も無かったように整えなければ。
「30分ほどで着きます」
高橋から届いたメールを確認し、起き上がった。
狭く細く、部屋まで数歩で行ける廊下に、バッグの中身が散乱している。
一つ一つ拾い、バッグに入れた。
高橋には関係の無い事だ、知られなくても良い。
姿見を覗き込み、叩かれた頬を見たが、赤くはない。
首も、指や手の痕は無い。
素早く髪を整え、少し部屋を掃除した。
全て見渡せてしまうほどの狭い部屋だ、暖房もすぐ効くだろう。
エアコンのボタンを押した。
最終電車も無い時間だから、高橋はタクシーか車で来るはずだ。
30分程度で来れる距離なら、さほど遠くないのかもしれない。
…今日一日で、羽柴マサキ、ヒロヤ、高橋祐太に会う自分は、一体何を考えているんだろう。
それに、可もなく不可もなく、興味も無い高橋祐太を、部屋に誘う自分…。
お酒の力がそうさせたわけじゃない。
淋しさに押し潰されそうになってるだけだ。
高橋も、よくこんな夜更けに尋ねて来る気になったもんだ。
部屋の隅にある、ベッドの掛け布団を直しながら、時計を見た。
もうすぐ1時だ。
ヒロヤは、あっという間にいなくなったが、衝撃的であり、過去のトラウマのぶり返しのようでもあり、かなり長い時間に感じた。
まだ頬も頭皮もヒリヒリ痛むが、見た目にはなんら変わりない。
私に似ている。
顔色一つ変えずに生きてきた自分に似ている。
こんな時の悲壮感を、高橋に見せたくないのは、私なりのプライドだろう。
「プルルルル」
一瞬ドキリとしたが、高橋からの着信だった。
「柏木さん、着きました。下にいますから出て来てくださいね」
深夜にふさわしい、大人しいトーンだ。
高橋はさすがに部屋まで来れないか。
「良かったら部屋に来ない?」
「…少しドライブしませんか?」
間があったが、高橋なりのダンディズムか、私の提案をひとまず置いた。
気の無いオトコに会うだけなのに、髪や化粧を、再度見直した。
玄関扉の鍵を回し、振り返り、ヘリから下を覗いた。
エンジン音がしている、あの白っぽい車か。
エレベーターが開くと、高橋が車から降りていて、ここですよ、と軽く手を振り合図をした。
「こんばんわ」
高橋はドアを開けるわけでもなく、挨拶だけして、運転席に乗り込んだ。
助手席側に回り、ドアを開け、背もたれに体を預け、座った。
高橋は、シートベルトをしながら、私を見、ハニカミながら、軽く会釈した。
「いつもこんなふうにドライブしてるの?」
シートベルトをカチリとはめ込み、聞いた。
「急に来て済みません。夜遅くのドライブは、たまにするくらいです」
車はまだ新しいにおいがしている。
発進すると、
「来る途中に、夜カフェありました」
車中が暗いせいか、いつもの消極的な高橋ではないような声色に聴こえる。
対向車のヘッドライトに照らされる、高橋の横顔をチラリと見た。
高橋は何も話さない。
右左折のウインカーのカチカチが、やけに大きく聴こえる。
気の利いた音楽ではなく、お笑い芸人の番組か、深夜のラジオ放送の笑い声がたまに聴こえる。
スピードを落とすと、コインパーキングに車を停めた。
「遅いので長居出来ませんけど」
10メートル先に見える、落ち着いたライティングのモダンなカフェバーに向かって歩く。
まだ頭がズキズキする。
酔いが回ってたら麻痺したのに…。
どちらかと言えば、バー。
こんな時間なのに、コーヒーや紅茶を飲んで話している人達がちらほらいる。
家の近所に、こんな洒落た店があるなんて、知らなかった。
高橋は、わざとか、わざとじゃないのか、一段ライティングの暗いテーブルについた。
「私、一杯だけ呑もうかな」
呑んでサッサと寝たい気持ちと、もうどうにでもなれ、みたいな、やけっぱちな気持ちが、入り混じっていた。
「さすがに僕は飲酒になっちゃうんで」
高橋は、そう言うとアイスコーヒーを注文した。
私は赤ワインとチョコレートを頼んだ。
高橋はまだ何も話さないし、何も聞かない。
「どうして来たの?」
痺れを切らし、自分から質問をしてみた。
「うーん。何かあったのかなって思ったので…」
なんだか申し訳なさそうに、肩をすくませ、小さな声で言った。
両手は膝の上か、背中が丸まって見える。
羽柴マサキとはエライ違いだ。
つくづく冴えない男だな…。
アルコール度数の高いワインが回ったのか、普段は出て来る事の少ない、意地の悪い自分が現れ出した。
高橋の顔をまじまじと見ながら、二杯目をオーダーした。
アルコールは理性を失う、とよく聞く。
今まさに、私もそんな状態なのか。
「こいつから幾らのお金が引っ張れるだろう」
木下友美を鬱病にまでした自分、自分の中の、一番醜い自分の声が、頭の中でずっと反響していた…
続く!
同僚の、可愛くてキラキラした木下友美にプライドをズタズタにされた柏木眞弓。
初めて感じたこの感情が、新たな自分を作り上げた。
会社を退社し、鬱病にまでさせる悪魔のような自分。
周りは、そんな恐ろしい自分を飼っている事など誰も知らない。
眞弓はますます、皆さんのなかにもいる「醜い自分」を出し始めます!