強敵
地味でつまらないオンナ柏木眞弓の毎日が、ガラリと変わり始める。
「club バタフライ」で出会う、ナンバーワンの碧衣が、眞弓に過大な刺激を与える。
「ね!碧衣ちゃん」
この店における碧衣のポジションを、私に誇らしげに言い放った常連客は、私の反応を見ず直ぐに碧衣に向き直った。
碧衣は、馬鹿にするでもなく恥じらうわけでもなく、くすっと笑った。
碧衣の瞳に吸い込まれそうだった、という表現が適当かわからないが、店内の総ての照明を吸収した二つの瞳が、呆然としている私の目に焦点を合わせてきた。
碧衣は少々時間を止めたのか?店の雑音が一瞬消えたように、私の耳には物音が入らなかった。
目が合ってきっと一秒二秒のはずだが、数分に感じた。
碧衣はニッコリ微笑んだ。
美しい笑顔だと思った。
「碧衣です。よろしくお願いします」
細く可愛らしい声で私にそれだけ言うと、隣の客の方に視線を変え、ゆったりとした動きでグラスを口に運び、グロスの跡を指でソッと拭った。
碧衣に衝撃なのか、碧衣の月収に衝撃なのか、はたまたその二つのマッチングに衝撃なのか、どちらにせよ、碧衣が私と目を合わせたその瞬間は、後々まで脳裏に残る場面となった。
水商売に全く縁の無い私は、ナンバーワンなどと聞いても想像がつかず、ただただ別世界の人にしか見えない。
でも他のホステスに比べたら、碧衣はまだ垢抜けきってない素人っぽさがあるのか、どこか儚げにも映る。
碧衣は、談笑が一息つくと席を移動したが、その去り際を覚えていない。
碧衣が、ショックにボンヤリしている私に作ってくれた水割りは、強いロックやストレートじゃなく、ほどよく甘く感じる程度の仕上がり、絶対に酔うはずはなかった。
その後、私は城田に促され違う席に着き、そこで客にお酒を作るよう頼まれ、カラカラと氷の入ったグラスを見よう見まねで掻き回したが、自分にはまるで水のような薄い水割りしか用意していない。
酔わずに記憶がないなんて、よほど衝撃の余韻が続いていたんだろう、碧衣が何かビームのような物を発して、私の脳に異常を来したのか?
碧衣はその後も、混んで来た店のテーブルを転々としていたが、その度に、先に座っていたホステスと入れ替わっていた。
店はさほど広くないが、中二階というのか、階段を三、四段上がると別フロアがあり、五、六人が座れるほどの半円のソファとテーブルが、二箇所ある。
雰囲気からすると、そこの二つのテーブルはVIP待遇で使っているのかもしれない。
階段の両端にオープンの手すりが付いているが、その手すりは室内にはもったいないほどにゴージャス、親柱は石の彫刻風になっていて、それこそお姫様姿がよく似合いそうな中世時代っぽい造りになっていた。
階段の手前から、上のVIPのフロア全体に、毛足の短い紅いレッドカーペットが敷かれていた。
碧衣は、客が入れ替わるも、そのVIPのフロアの絨毯を長く踏んでいた。
たまにそのフロアから、手を取られ、お姫様よろしく階段を客と共に降り、エントランスまで見送りをしていた。
見上げれば、その場所のシャンデリアは一回り大きく、ナンバーワンが座るにはピッタリな空間に仕上げられていた。
普通に生活していればまず見る事はそうそうないだろう迫力がここにはあった。
こういう異空間でお酒を呑み、現実とかけ離れた時間を過ごす事が、もしかしたら媚薬になるのだろうか。
私は碧衣から目が離せなくなっていた。
「お疲れ様!どうだった?」
体験時間が終わり、着替えが終わってエントランス付近に行くと、城田は私を優しく労った。
「今日は体験だから指名じゃなかったけど、指名されれば増えるからさ」
城田は胸の前で「カネ」のジェスチャーをしながら私にウインクした。
要は歩合給というわけだ。
私の背後には、男女の笑い声や、カチャカチャというグラスの音が聞こえている。
いざ私服に戻ると、自分にこんな商売が勤まるんだろうか、という当然の不安が湧き上がった。
練習でやってみたら、と客に言われお酒を作ったが、手は震えるし、素人の私にタバコに火を点けるタイミングなんてわかるだろうか。
「今いる子達、素人からスタートしてるんだ」
城田は、私が今何を考えているのかがわかる不思議な能力があるのか、心の声に応えた形になり、ビックリして城田を見た。
「ま、色んな事情があって皆んな必死なんだよね。水商売って軽いけど、ここにいる子達は皆んな真面目」
私は城田の言葉を聞いて、男女の欲望が蠢いている背後を振り返った。
真面目…?
お酒を注ぐ者、客の太ももに手を置く者、客に肩を抱かれる者、女優気取りで歩く者、席が無くて別席で呼ばれるのを待つ者…。
こういう店で働いている女達は皆んな、店に来る客を喰い物にしてる、と勝手に思っていた。
もちろん実際のプライベートは知らないが、真面目、と聞いて、少し見方が変わった。
皆んなそれぞれに何か事情があって、水商売しか手段が無いのかもしれない。
あの碧衣だって何かあるかもしれないし、自分だって、オトコに弄ばれた挙句、使い込まれ膨れた借金を返すためにここに来たんじゃないか。
残念だけど、今の生活のままじゃ到底返せっこない金額なんだ。
「友美ちゃんにはお金が必要かどうかわからないけどね!」
城田はまたしても心を読んだかのようにそう言って笑った。
ベッドに寝っ転がり、体験で貰ったお金を、透かしたり裏返したりして眺めた。
どうって事ない使い慣れた紙切れ。
日本中、いや世界どこでも使える「自由券」。
この「自由券」で世界中は紛争しているし、私のような何の取り柄もない人間でさえ、この紙切れで四苦八苦している。
目を瞑ると、一番最初に現れたのは碧衣だった。
大きなシャンデリアに紅い絨毯まで思い浮かんだ。
確かに碧衣は綺麗だったが、私には、飛び抜けてモデルのようには見えなかった。
何か別なところで惹かれるモノがあるんだろうか。
私に無くて碧衣にあるモノ…。
「オンナとしての自信かな」
悩み考えた末、こんな単純な面白味の無い分析結果に着地するしかなかった。
「じゃあ来週から、土日以外は毎日出勤ね!」
別れ際に言った城田の言葉が頭の中でリフレインする。
次回の出勤に持って行く物が書かれた紙を見ながら、自分がナンバーワンになる姿を、少しだけ想像した。
誰よりも美しく、誰よりも輝き、誰よりも指名が多く…。
あのVIP席を、自分の特等席のように陣取る姿を、思い浮かべた。
でもどう頑張っても、今日の碧衣がそこに座っていて私の邪魔をする。
「私は生まれ変わるのよ。ワンランク上のオンナなんだから、堂々とすれば良いじゃない」
イメージしながらも、イメージで足りない部分は、もう一人の強気な自分の声で後押ししてかぶせた。
興奮してなかなか寝付けない。
ここまで来たらもうやるしかないんだ。
私を捨てたオトコが残した数百万円の借金、母に借りた堕胎代…。
プライドがどうだなんて、もう考えていられないんだ。
何かしないと抜け出せない窮地まで、来ているんだ。
私も人並みに結婚したいし、子供も産みたい。
田舎の両親を安心させたい、といつも片隅では思っていた。
都会に出て、右も左もわからない内にオトコに溺れた代償は、もしかしたらかなり大きく道を外していて、もう幸せのレールには乗れなくなってしまっているかもしれない…。
情けない、本当に情けない!
誰にも相談出来ずにこうしてもがいている自分が、馬鹿でどうしようもない人間に思えて悲しいし悔しい。
この先どうなるかなんて、全く考えてなかった。
だからと言って、ふざけてきたわけじゃない、仕事だって一生懸命やって来た。
しかし、何も目標も持たず、ただ時間に合わせて生きてきた自分を、呪いたい気持ちになって、布団をかぶった。
私だって生きてるんだ…幸せになっても良いんだ…。
呪文のように繰り返し、夜の蝶に扮する自分を思い浮かべながら、羊が一匹、のように、知らない間に眠りに堕ちていった。
「柏木さん、おはよ。今日から友美ちゃん、お休みするんだって」
ランチ仲間の山本香里は、着席している私の横で一度立ち止まり、眉間にシワを寄せそう言うと、メガネを直しながらサッと自分の席に向かった。
木下友美がお休み?今日から?
肌はボロボロ、仕事中もミスを連発していた木下友美、とうとう耐えられなくなったか。
元はと言えば、私が彼女の化粧ポーチの中身を滅茶苦茶にし、恐ろしい事件にした事がキッカケだった。
誰がやったか判らない恐怖が、一層彼女を苦しめただろうし、人気者を自負していたからこそ、途端に周りの目が気になり始めたのだ。
お陰で彼と別れてくれて清々したのだが。
元彼の羽柴マサキは、明日は会社に来る。
木下友美から、休職の連絡は入ってるだろうか…別れた相手にわざわざ言わないか。
そんな事を考えながら、いつものように引き出しを開けたら、私の机にメモを入れてきた「高橋」の存在を思い出した。
思わず顔を上げる。
席にいない…何処だ?フロアを見回す。
「嫌だ、探しているわ」
声にならない程度の息が漏れた。
メモの当事者の高橋は、トイレに行ってたのか、歩いて席に戻るところだった。
今風のイケメンでないのが、私の記憶にとどまらなかった理由なのか、昨夜の余韻などが頭を一杯にし、高橋をすっかり忘れていた。
高橋は、席に着くなり私を見た。
はにかんだように見えた。
遠いなりに、目が合っているのはお互いわかった状況だ。
私が先に見ていた、というのが嫌だったが、咄嗟に会釈した。
高橋も軽く会釈を返し、私から視線を外し、すぐさまパソコンに向かった。
誰かに好意を持たれるのは気持ちが良い。
こんな気持ち良さが、オンナを更に磨かせ、美しく魅惑的にしていくのかもしれない。
ランチでは、木下友美の休職の話で持ちきりだった。
興味深かったが、下手に会話に参加もせず、いつものように聞いていた。
聞きながら周りを見たりしたが、以前にも増して、オトコ達の視線を感じるようになって、私には木下友美の話よりも、その感覚の方が断然楽しかった。
午後は、高橋とやたら目が合った。
目が合うと高橋は照れている。
好きでもないのに、もの凄く気持ちが高ぶる。
営業職じゃない高橋ともし恋愛関係になったら、色々と厄介なんじゃないか、とか考えるのは楽しかった。
浮わつきっぱなしのまま、就業を迎えた。
いつものように、生活感があまりない殺風景な部屋も、電気を点ければ、それなりに生気が蘇った。
メイク道具も増え、テーブル周りは女子らしく華やかになっている。
ちょっとしたファッション雑誌も見るようになっていた。
メイクを落とし、今までのような地味な自分に戻る。
「カシッ」
床に座り、冷えた缶ビールのプルタブをグイッと返し、思い切り一口を流し込んだ。
小さなメモを開いた。
高橋からのメッセージと電話番号だ。
生まれて初めて貰ったラブレターだ。
こんな冴えない私を見てくれていた人がいた事が、嬉しかった。
携帯を手に取る。
ビールをもう一口流し込みながら、置き鏡の自分を見た。
こんなオンナのどこが良いんだろう、DV男に金までふんだくられる馬鹿なオンナの…。
高橋の電話番号を一つずつ打ち込む。
「プップップ…」
耳に当てると、接続している信号音が聴こえ、じきに呼び出し音に変わった。
今の内に、とビールを流し込む。
「はい、高橋です」
聞いた事のない声だが、間違いなく経理課のあの高橋に繋がったようだ。
「柏木です。柏木眞弓です」
電話の向こうで高橋は息を呑んだようだ。
「あ、あ、か、柏木さん?」
「はい」
自分で、電話ください、と書いておきながら、いざとなるとやっぱり緊張するもんなんだな、と、自分自身を投影させたりした。
「メモを頂いたので」
「す、済みません、ありがとうございます!」
高橋が、あまりにもしどろもどろすぎて、何だか、リードしてやらなきゃ、みたいな気持ちになった。
「今日、何度も目が合いましたよね、恥ずかしかったです」
アルコールのチカラもあってか、積極的な私が現れた。
「と、突然のメモ、済みません、しかも机に…」
「大丈夫ですよ、間違いじゃなければ」
「か、柏木さんの机だと確認して入れました、我慢出来なくなってしまって…」
もしかしてこのオトコ、カモになる…?
私の中の、悪魔の眞弓が囁いた…。
そろそろ眞弓の変貌も折り返しへとやって来た。
地味で目立たないオンナが、悪魔へと変貌し始める。
マサキとはどうなるのか?
想いを打ち明けて来た高橋とはどうなるのか?