偽いばら姫
回廊を抜けてからは、中庭の夜空にしばし見惚れていました。今夜の満月は虹色の光環が縁取っていて、淡く暖かな彩り。その優しい光は、言葉ではあらわせない悲しみや、感覚のない痛みも溶かしてくれるようで。何もかもとはいかないまでも、大体のことは上手くいっていて悪くない、そんな気さえしたのです。
例えば、気温はこのお気に入りのワンピースでちょうど良い涼しさだし。風も春らしく穏やかで。こんなほんの小さなことなら、数えきれないほどです。
私一人きりなのは、少し寂しいけれど。
柔らかで明るい大気の層が、生垣のサンザシの饐えたような香りも紛らわせてくれる。けれども、その光が中庭の小径を照らすことはないようでした。ここのサンザシは大人数人の高さにもなるものですから、高枝が光を遮っているのでしょう。私は肩に下げた小さな肩掛け鞄と、足元を照らす明かりとを持って、ひっそりとした庭のうねりを歩いて行きました。
時折、長い髪が首筋をひやりと撫でるのを感じて。つかの間の道のりを静々と進んで行きます。たどり着いた先は、そのへその部分。そこには古びた書き物机が置かれています。持っていた二つを机の上に置いて、鞄の中に入っている引き出しの鍵を探しました。首尾よく見つけ出した鍵で中のものを抜き出し、椅子に腰を下ろす。
取り出したのは、羊皮紙の束でした。明かりを手元の近くに寄せ、時間をかけて読み直して行きます。それは、多くを与えられ、多くを失う少女のお話。温めていたお話です。
さらさらと紙を順繰りにめくって、途切れた物語から立ち返って。もう一度束に戻そうとしたとき、一番下の紙に思いがけないものを見つけました。えっと……。これを書いたのは、初めのほう、でしたっけ。うーん……、ここに至るまでの白紙が多すぎるような。なんとも安直で、気の早い言葉。
閑話休題。亜麻の髪を結んで纏め、今度は鞄の中から羽ペンとインクを出して続きを書いていきます。ペン先が小気味良い音を立てるのを聞きながら、拾い上げた言葉たちを紡いでいく。
私は何も難しいことは考えずに、思いつくことをするだけ。名の知れぬこの子の幸せを願いながら。
――洞窟の奥深く。暗がりの中に、誰かが立っていました。黒く大きな瞳が映しているのは、黄金のかけら。その人は手を伸ばし、それを掴もうとする。これこそが、ずっと探していたものなのですから。
あと少しで手が届くというところで、ある違和感を覚えました。ああ、そういえば。はっきりとは思い出せないけれど、同じようなことを以前にもしたことがあったような。きっと、その度に落胆していたはず。
ふと、先の進路を覗いてみました。いつものように、全然何も見えません。
それからもう、黄金はどこにも見当たらなくなっていました。目を伏せ、僅かに息を吐いて。顔を上げたとき、視界の隅に流線形が瞬いたように思いました――
知らない間に、眠ってしまっていたようでした。
気がついたときには、結いた髪が解けていて。夜はすっかり明けようとしていました。希薄ではあっても、一種類だけの足あとは確かに残っていて。呼吸が体を温める、ようやくの人心地で。
目の前には、暗緑の葉と棘のかたち。空から落ちてくる、くすぐるような煌めき。
一際明るい日差しが差し込んだ後、風景が遠のき、すべての音は冷たくなって。
そして、無数の光の蝶が空に上っていくのを見ました。