02-4
巨大な一つ目の狼は、じりじりと、だけど確実に、私たちとの間合いを詰め始めた。
その口からは、赤い血と混じったどろりとした唾液も滴っている。
……まさか、私たちを襲って食べるつもり?
胸に抱き寄せた弟たちを見る。2人共、ガタガタ震えて私にしがみついている。
「……」
この子たちを襲わせるわけにはいかない。
……私が守らなきゃ。ここには、この子たちを守れるのは私しかいないんだから。
震えている場合じゃない!
「スヴェン、ミリィ。私が囮になるから、その隙に逃げなさい」
2人はビクッとして、ゆっくりと顔を上げて私と目を合わせた。私は、精一杯の笑顔を弟たちに見せて、「私は、大丈夫だから」と呟く。
2人の身体をそっと引き剥がし、私の背後に回らせる。ちょっと遠回りになるけど、後ろの通りからでも逃げられるはずだ。運が良ければ、警官に見つけてもらえるかもしれない。
「さぁ、行って」
「でも……」
「早く。……走って!」
眼前のファミリアを刺激しないように、声を抑えて叫ぶ。
「姉ちゃん……」
「早くっ!」
2人は私から手を離し、駆け出した。それにすぐさま反応したファミリアは、大きく唸り、吠える。
「……」
辺りを見回す。丸腰じゃ戦えない。何か、何か武器になりそうな物は……。
「!」
左前方の壁に、鉄の棒が立て掛けられているのを見つけた。……ほかに武器になりそうな物は無さそうだ。あれで、やるしかない!
……だけど、どうやって取るんだ? 鉄の棒があるのは、ファミリアのほぼ真横だ。私がここから一歩でも動けば、こいつはきっと襲い掛かってくる。
……いや、動かなくても結果は同じだ。このまま動かなくても、私は襲われる。
だったら、覚悟を決めるしかない!
「……わ、わあああぁぁぁぁっ!」
とりあえず大声を出して見たものの、ファミリアはちっとも驚かない。それどころか、挑発されたとでも思ったのか、口を大きく開けて吠えた後、こちらに突撃してきた。
「――ひっ」
飛び掛かってきたファミリアを直前で躱し、駆ける。そして鉄の棒を手に取り、身を翻して構える。
「――あっ!」
しかし、ファミリアは路地を真っ直ぐ駆けていく。
しまった! あいつ、最初からスヴェンたちを狙ってたのか!
「まっ、待てっ!」
慌てて後を追うけど、見た目通り動きは狼で、当然足も速い。あんなのに追いつけるわけがない。
「スヴェン! ミリィ!」
通りを、手を繋いで走っている2人の姿が見える。そして、みるみる2人との距離を縮めていくファミリアの姿も。
「やめてっ! やめてぇぇぇぇっ!」
全力で走っているつもりだ。だけど、なんだか重たい足枷でも付けられているかのように、自分の身体が前に進んでいないように感じる。
このままじゃ……!
その時、ファミリアが通り過ぎようとしていた路地から人影が現れ、
「――えっ?」
ファミリアに体当たりを食らわせた。
「お父さん!」
路地から飛び出してきたのは、父だった。
私の声に、スヴェンとミリィは足を止めて振り返り、父は2人を呼び寄せた。
父は、すぐにスヴェンたちを自分の後ろへ隠し、起き上がったファミリアと対峙する。
さっきのは不意打ちだったからどうにかなったけど、父は武器を持ってない。丸腰、しかも片腕だけで戦うなんて、あまりにも無茶だ。
「お父さん!」
持っている鉄の棒を父に渡そうとして駆け出す。
「馬鹿! 来るな!」
父がそう叫ぶと同時に、ファミリアは私の方に顔を向ける。私は思わず足を止めるけど、一度定められた狙いは簡単には外れない。
唸り声を轟かせ、私に襲い掛かるファミリア。私の名を呼ぶ父の声が、意識の隅に響いた。
――殺される!
迫り来る口腔。鋭い牙が生え並ぶその巨大な口は、私の頭をいとも簡単に噛みちぎることだろう。
……嫌だ。
私の身体は、固まって動かない。脳からの命令を、強烈な恐怖の壁が遮断しているように。
……嫌だ。
まばたきすらもできず、私は立ち尽くす。
――死にたくない!
私は、まだ何もしてない!
こんなところで……
「死んで、たまるかぁぁぁっ!」
その後のことは、よく覚えていない。身体が勝手に動いて、持っていた鉄の棒をファミリアに向けて突き出し、そして、それで――
「――はっ!」
急激に意識が戻り、身体が痙攣する。
ぶわっと覆い被さるように、全身に強烈な疲労感が広がり、汗が噴き出した。
「…………え?」
そして、目の前に横たわっているものを見て、驚愕する。
そこには、あの狼型のファミリアが横臥していた。
どろりとした血溜まりの上で、口の中から頭の後ろへ鉄の棒が貫通した姿で。
そいつはもう、ピクリとも動かなかった。