第八話 両雄は激突する
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禍々しく燃える炎を背に、紅いコートをまとったニーダルは、白い巨大人形を渾身の力で蹴り飛ばした。
巨大人形に宿る神器の意思が不可視の盾を形作り、阻もうとしたが無駄な抵抗だ。道化師の背で燃える呪詛が、魔術文字と世界樹の力をもろともに焼き払い、第五位級契約神器を両の脚で吹き飛ばした。
発掘兵器は敷き詰められた石畳を砕き、街道をめくり返しながら滑り転がったが、ニーダルに見送る気は毛頭なく、一抱えもあるロケット砲を抱えて照準を向けていた。
「こいつはおまけだ」
ニーダルが肩に乗せた兵器は、気絶させたナラール兵から取り上げた対装甲戦術機用の誘導弾だ。歩道に山と積み上げたそれらを、矢継ぎ早に放って追撃し、轟音が無人の商店街に響き渡る。
「なんだァ、この程度かぁ?」
雪巨人(六六式陸上戦術機)は、千年前の神焉戦争末期に”黒衣の魔女”率いる軍団によって量産され、200体以上が戦場に投入されたと伝えられる契約神器の素体である。
発泡金属と強化セラミックスによる複合装甲を採用、放射性重金属や合金を中心とした同時代の一般的な巨人機に比べて、高い機動性と耐久性を有し、また新兵を補佐する教育型コンピュータや独自の武器システムを搭載した結果、連合軍に対して著しい戦果を上げた名機と伝えられている。
……が、ニーダルの目に映る真っ二つに折れた鉄塊、白い巨人が先の戦闘で振るっていた棍棒は、どこからどう見ても金梃子というか、むしろ血なまぐさいイメージがつきまとうアレだった。
(いや、独自の武器システムっつーか、なんで”バールのようなもの”だよ)
やはり魔女軍でも「総括せよ!」とか「反革命分子を粛清せよ!」とか罵りあいながら、思想改造やらリンチやらに明け暮れていたのだろうか?
だったらイヤだなあとこぼしながら、用済みのロケット砲を放り捨て、無残に破壊された雪巨人を距離をとったまま見据えた。
動き出す。左半身の装甲が剥がれ、骨格にあたる鋼鉄がむき出しになった人形は、破損部分に魔法陣が展開され、まるで血肉を埋めるように、驚異的な速度で修復を始めた。
「フレームに魔術文字を鋳込んでやがるのか!?」
☆
「かっつぁ。派手にやられたな……」
赤く明滅する水の中で、赤枝基一郎はずり落ちた眼鏡をかけ直した。
吹き飛ばされた直後に、バズーカ砲による追撃。まったくもって容赦がない。
(それでも無事なこの機体もたいしたものだ)
おそらく、このコックピットを満たす水のような液体は、操縦者の保護も兼ねているのだろう。
(異世界の技術か)
白銀の巨人相手に正拳突きで踏み込んだ一瞬、おおよその推測だが、時速200kmは出ていた。
そんな陸戦兵器は地球にはない。主力である戦車の役割が盾だということもあるが、装甲と速度が両立できない。
「おい、ユミル。生きてるか? まだ動けるのか?」
「はい、主っ。携帯誘導弾12発の直撃により装甲の三割が破損。現在、修復を試みています。本機の骨格は、どのような刃も貫けないと謳われたガルヴォルン隕鉄を鍛え、魔術文字を鋳込んだものです。この程度の損耗ではびくともしません。ですが」
雪巨人に宿る意思、ユミルは苦渋の声で告げた。
「赤枝基一郎。盟約を破棄してください。今すぐに本機から降りて、逃げ延びてください。おそらく、あの男は追わないでしょう。それが最善の」
「断る」
眼鏡の奥で、赤枝の瞳が獣のように閃く。
マニュピレータを動かし、砕けた道路の石塊や砂利を、迫りくる紅コート野郎に投げつけた。
彼の背で炎がゆらめく。決して小さくない投石物は、焔の翼に触れるや、まるで蒸発するように消えてしまった。
「あの翼だか獣だかわからないのも契約神器なのか!?」
「いえ、呪いです」
ユミルが囁くと、彼女が覚えていたのだろう記憶の一部が、赤枝の脳裏に流れ込んできた。
千年前。とても大きな戦いがあった。
神焉戦争と呼ばれる、文明が崩壊するほどの、世界が終わった戦争。
人類は生き残った。けれど、それは《力》持つ者、契約神器を有する盟約者が、持たぬ者を虐げる地獄の始まりだった。
「システム・レーヴァティンは、世界を救った神器のレプリカであり、神器を持たない者にとっての希望でした」
大陸規模を網羅する魔術機構。
契約神器に選ばれずとも、誰にでも使える、契約神器への対抗手段。
その炎は、モンスターや邪悪な盟約者に苦しむ人々にとって、明けない夜を照らすかがり火となった。
(おい、そいつは危ういだろう)
ユミルが告げずとも、赤枝は結末を予感していた。このやり方はまずいのだ。
「創造主が生きているうちは良かった。彼は、劣化複製といえ、”レヴァティン”を扱う最強の存在だったから。けれど、彼の死後、残されたともし火は、火の海へと変わりました」
当然のことだ。国とすら戦える武器をばら撒けば、そこには乱が生まれる。
紫のネイビーブレザーを羽織った先輩が、部室でコーヒーカップを手に、にやにやと笑っている。
『赤枝基一郎。キミが大好きな無政府主義とは、弱肉強食の地獄に他ならないよ。そして、無政府主義と共産主義は両立しえない。ミハイル・バクーニンの言葉を知っているかい?』
……あの人は、苦手だ。
(最も熱心な革命家に全権力を与えたならば、一年もしないうちに彼はツァーリより酷い君主となっているだろう、か)
アナーキズムに絶大な影響を及ぼしたバクーニンは、19世紀の後半には、スターリンの独裁、ソビエトの末路を予見していた。だが、それでも赤枝は――。
「盟約者ばかりでなく、レヴァティンの使い手同士が殺し合いを始めました。彼亡き後に、止められるものはいなかった。そうしてシステムは狂い果て、戦いの根源を……契約神器の根絶を目指して、使い手を汚染し始めました」
「使い手を、汚染?」
意味がわからない。強さに心を呑まれる、ということだろうか?
「はい。システム・レーヴァティンは、呼び出した者を、使い手を乗っ取ります。最初に、心が壊れて契約神器の破壊のみを優先するようになり、次に肉体が自由にならなくなる。最後には争いを、戦いを呼ぶものスベテを滅ぼすための端末と成り果てて、燃え尽きます」
(この世の日の限りは伴侶のように召使のように奴隷のように、私はお前に仕えよう。しかし、死せる後は、お前が同じように私に仕えるのだ)
赤枝は、部室に転がっていたゲーテ著作のファウストで、メフィスト・フェレスが老いた博士を誘惑するくだりを思い出す。
(レヴァティンと呼ばれるシステムもまた、願いを叶えるのではなく、一切合切を奪ってゆく”愛すべからざる光”というわけか)
「つまりアイツは、乗っ取られたラジコンカーみたいなものなんだな」
「ええ。複雑な行動はとれませんし、燃費も悪い。あらゆるものを焼き尽くす焔は脅威ですが、勝機があるとすれば、そこを利用するしかありません」
赤枝は、雪巨人の上体を起こしながら、巨大な緑や銀の西洋甲冑によって砕かれた町並みを見た。
獣のような機械のような、焔の翼を燃やして突っ込んでくる紅コートを睨み付ける。
どんな理由があって、こんな真似をしでかしたのかは知らない。それでも、傷ついたやつがいた。嬲られながら殺されそうになった親娘がいた。瀕死の重傷を負ったブルースがいる。
この町は、赤枝にとって、身寄りのないひとりぼっちの自分を迎えてくれた故郷みたいなものだった。
「悪いな、おっさん。あんたに俺は殺せない」
逃げない。この巨人から降りない。渡せない。
このテロリストに渡したが最後、もっと多くの血と涙が流される。それを見過ごせるものか。
「武道は修練だ。ノロイだかなんだか知らないが、一朝一夕で力を得たやつに負けるかよ!」
立ち上がりざま、赤枝の駆る雪巨人は後ろ回し蹴りを放った。
幾度かの戦いを経て、確信できた。この世界は、どういった理由か不明だが徒手空拳の格闘技が失われている。ならば!
「同感だぜ。新兵」
紅コート野郎が、口元に笑みを浮かべるのを見た。
もとより五倍以上の体格の差があるのだ。隙の大きい回し蹴りはかすめることもなく、赤枝は間合いの内側に踏み込まれた。
ベテラン気取りは、中空で地面を蹴るように左足を踏み込み、右膝を胸まであげた。そのまま槍を突き出すかのように、膝頭と足首を伸展させていっきに蹴りこんできた。
(こいつはっ、突き蹴り!?)
鋼鉄の肉体が、たかが人間の一蹴りで跳ね飛ばされる。木造ビルに衝突して動きが止まったところに、踏み下ろすような一撃を受けた。
(踏み蹴り…!?)
貫けないと言われた骨格がきしみをあげて、半身を包み込む焔が修復中の装甲を灰燼に帰す。
体格差などものともしない、一方的な戦況だった。
だが、それ以上に赤枝にとって衝撃だったのは、紅コートの男が使う技の型だ。
ソバットやジークンドーにも、赤枝が使う空手にだって似た技はある。動きのアレンジが効きすぎて、この世界に溶け込んでしまってもいる。けれど、基本となる理念、動きを支える中核はそう変わるものではない。
(なんで、なんでだっ? こいつが使っているのは)
肘うち、裏拳、赤枝が焦りのままに放った技は、ことごとく空を切った。
コートの男は接近しながらゆらりと上半身から力を抜き、てのひらを開いて手首を反らせる。やばいと直感するが、こうまで踏み込まれては、反撃も回避もままならない。迅速な突きが雪巨人に突き刺さり、インパクトの瞬間には掌底はスナップの効いた拳へと変わっていた。フレームが震え、装甲が音を立てて破砕する。
「日本拳法!?」
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ニーダル・ゲレーゲンハイトは、困惑していた。
己が用いている武術は、記憶にない体に染み付いた流派と、王国軍の槍術が基本になっている。
失われた記憶はぼうとして見えず、果てを見通すことはできない。
しかし、なんとなくわかっている。
この雪巨人を駆る相手とは、流派でなく、”使い手”という意味で相性が良過ぎるのだ。
まるで重ねた幾星霜の鍛錬が、この一戦、この相手と戦う為にあったかのごとく――。
幾度もシミュレーションを繰り返した。幾度も超えようと対策を練りこんだ。
だから敵の動きは読めている。次は手刀が来るだろう。次は足蹴りが来るだろう。
あとは、かわして踏み込み、攻撃を加えればいい。単純な理屈だ。
だというのに、胸は高鳴っていた。全身が冷や汗をかいていた。
気を抜けば負けるのは自分だと、心ではなく肉体が訴えていた。
「この高揚と、恐怖はなんだ?」
☆
「このようなことは有り得ません」
機体が中破し、アラートを響かせる操縦席で悲鳴を重ねていたのは、赤枝ではなくユミルだった。
レヴァティンに呑まれたものは自我を喪失する。
対抗手段は千年のうちに幾度か試されたが、完全な形でレヴァティンを振るった者で、侵食を免れたものはなかった。
レヴァティンに寄生された宿主は、己の身を省みない。ただ力任せに業火の渦で包み、敵も味方も滅ぼしてゆくだけだ。なのに、あの男は――。
「戦術として組み込んでいる? 最小限の力で、神器の加護だけを破って攻撃を重ねる? しかも徒手空拳で!? こんなイレギュラーなんてあるはずが」
「あるんだろ……」
激突の衝撃で切れた額や腫れ上がった四肢を、コックピットの液体が治療してゆく。赤枝は、こんなときなのに、便利だな、なんて笑ってしまった。
「千年もあれば、月を仰いで焦がれるだけだった人間が、月を踏みしめて、その先まで探査衛星を飛ばすんだ」
赤枝だって知っている。愛と平和は永遠には続かない。世界は人間のエゴすべてを飲み込めず、でも、いつかは乗り越えることだって出来るかもしれない。
「まだだ。まだ負けちゃいない。この国にだって、軍隊や警察はいるんだろう」
時間を稼げ、凌ぎきれ。情けないが、先輩風に言うならば、それが、俺の戦略的な勝利となる。
「アカエダさぁあんっ!?」
だから、馬に乗った少女が徒歩の警察官とともに駈けて来ることは、完全に想像の余地外だった。
「プリシラ。来るなぁあっっ!」
雪巨人の音声素子があげた絶叫は、あまりにも遅すぎた。
紅コートの殺人鬼は、いちべつを加えるや走りよってくる少女達に向けて右手を掲げ、巨大な火球を形作った。
気づいた警察官達が少女を護ろうと魔術で小さな楯をつくるが、狙われたのは彼らだった。放物線を描いて飛ぶ火の玉に飲み込まれ、沈黙した。
青い瞳の栗色髪の少女、プリシラ・エリンは、馬上で呆然と惨劇を見送り、飛来する襲撃者に抱きとめられた。
悪鬼は串のようなものを頭に刺す。それだけで、ぐったりと少女の身体は力を失い、倒れこんだ。
「何をした?」
「眠ってもらった」
「ひとごろし」
赤枝の罵倒に紅コートの殺戮者はひきつるような嘲笑を浮かべた。
「ああ、だからお前も殺してやるよ」
無精ひげの浮いた頬が歪んでいる。なにがオカシイ? なんで笑っている? なんでこんなことが出来る?
『俺はひとを殺さないっ!』
――わかっているだろう?
『小僧。お前は誰も殺さなくていい。だから、ここで、俺に殺されろ』
――俺のせいだ。
「あ、あ。アアアアアアアアアっッッ!!」
感情が爆発する。
怒りが悲しみが憎悪が悔恨が、赤枝基一郎という存在を塗りつぶして溢れ出た。
勝たなければならない。倒さなければならない。守らなければならない。
「『術式―――”愛と平和”―――起動!』」
(主……)
ユミルは胎内でむせびなく、盟約を交わした相手を見つめていた。
罪悪感を覚えずにはいられない。自分が巻き込んだのだ。
この子は優しすぎて、真っ直ぐすぎて、そして、あまりに才能に恵まれすぎた。
契約神器にとって”切り札”とも言える、契約の言葉を用いた全力駆動。
教えてもいないシステムを、爆発的な情動だけで使いこなしている。
碧に輝く魔術文字の奔流が、白い機体から膨れ上がり、球を描くように広がってゆく。
ユミルがもつ特性は演算力だ。それを生かし、地脈を通じて、周囲の世界を支配下において、赤枝基一郎は突進した。
「ああああああああアアアアっッッ!!」
打ち捨てられた黄金の鋼刃、白銀の巨人のオプションの操縦権を奪い、前後左右から撃ちはなつ。
けれど、当たらない。
巨大な四つの刃の破片は、紅いコートの背からはためく禍々しい焔の翼によって溶かしつくされ、雫となって散り消える。
残されたものは、かつて人々が溢れ、今や無残に破壊された無人の商店街だけ。
――病身舞を踊りながら暴れ回る緑の西洋甲冑。
―――瀕死のブルースに黄金の大剣を投げつけた白銀甲冑。
――――そして、紅いコートを着た長髪のクソヤロウ。
(お前たちにどんな事情があろうが、どんな勝手をしようが)
それが、今日、この町で暮らす者達に、あの警官たちに、ブルースに、プリシラに、何の関係があった!?
赤枝はユミルと共に観測し演算する。
魔術文字で埋め尽くした球状の空間内。
あらゆる原子の、粒子の、微細な動きを逃さずに!
血のように染まった操縦席の水と、ひびの入った赤枝の眼鏡の硝子が、刹那にして那由多の分岐を映し出す。
残る八つの黄金刃を楔のように打ち込み、当たらぬ前蹴りや裏拳を繰り返し、紅コートの選択を消してゆく。
たとえ億兆の可能性が届かずとも、分岐樹の果て、ただひとつの未来を掴み取る。
突き立てられ、溶け消える黄金刃の狭間、飛び込んでくる紅コートの蹴りに合わせるように――!
「悪いな。その確定した未来を滅ぼそう」
完全なタイミング。不可避の未来。現在が過去に変わる瞬間。
交差法を重ねた右脚の上、腹部装甲を貫通し、もっとも分厚い操縦席周囲の骨格が呪詛の翼によって半壊した。
「……あの反則野郎」
操縦座は、大きな穴が開き、満たされた液体がゴオゴオと音を立てて地面に流れ落ちていた。
伏した白い巨人が、腹部から血の色の液体を流す様は、まるで討ち死にした兵士のようだ。
赤枝は痛む全身をなだめながら、ふらふらと危うい足取りで立ち上がった。
ふと部室で茶の肴に聞いた、紫崎先輩の雑談を思い出す。
量子力学の不確定性原理といったか。ラプラスの悪魔を殺す刃。
宇宙は素粒子の誕生消滅で絶えずゆらいでいる。ミクロの世界では、観測という行為事体が、自然の法則に影響を与えるため、結果が不確定となってしまう。
紅チートヤロウは、あのわけのわからぬ翼で、観測された「確定された未来」を「観測という行為」にこじつけて覆したらしい。
「主、落ち着いてください」
床に残った水たまりに警官達の姿が映る。火傷を負ったようだが息はまだある。かすかに動いてもいる。
「よかった」
「主。いえ、赤枝基一郎。本機体は大破しました。これ以上の戦闘の続行は不可能です。お逃げください」
「ユミル。俺を主と呼んでくれるなら頼みがある」
「聞けません」
「なら戦友として頼む。ブルースと警官達を安全な場所まで連れていってくれ」
「主は……」
赤枝を胎内に取り込んだユミルにはわかる。分泌される脳内物質、叩きつけるような鼓動、かすかに痙攣する手足。
怯えていた。震えていた。怖がっていた。それでも、何でもないような顔で、こういうのだ。
「俺はあいつをぶちのめす」
ユミルは、遠い過去を思い出す。
1000年の昔、忘れたことなど一度もない、最初の盟約者。
似ていた。面影ではなく、心根が。
「赤枝基一郎。貴方は私の主です。貴方の命に従います」
「OK。じゃあ、ちょいと殴ってくる」
コックピットの裂け目から、石畳のめくれた大地に降り立ち、赤枝は濡れた眼鏡を拭った。
紅コートの男は、首のもげた白銀巨人の残骸によりかかり、律儀に待っていた。
ユミルは、公園に横たわるブルースと、火傷を負った警官たちを無人の操縦座に回収し、最後に倒れた少女の遺体を確認しようと振り返った。
「……!? これも因縁なのでしょうか」
そして、彼女が自ら認めた主の命を、頼みに応えるために、戦場から離脱した。
☆
戦友が去る音を、赤枝基一郎は砂利を踏みながら聞いた。
振り返らない。悔いもない。やれること、選べること、為すべきことはやり尽くした。
だから、ここからは喧嘩だ。
プリシラを殺したこのクソッタレを、せめて一発でも殴りつけなければ、死ぬに死ねない。
「小僧。俺が憎いか、こいつらが」
親指で首のない巨人を指す男に、赤枝は頷いた。
「そうだろうな。
小僧の怒りはただしいよ。小僧の嘆きもただしいよ。正義の味方の英雄サマ。
でも、な。こいつらにとってはこれが正義なのさ。
王国人を害することが、痛めつけることが、攫うことが、盗むことが、殺すことが!
それを邪魔する小僧は、こいつらにとって邪悪だろう?」
いまさら何を言っているのか、このおっさんは。
「そして、この俺にもある。正義と呼ぶにはおこがましいが、似たものが」
その為に、あの白い人形が必要だと、紅コートの説教強盗は告げた。
「だからよ、愛と平和を尊ぶ正義の味方さん、俺の正義を通させてくれよ。だって、てめえは正義の味方を演りたいんだろう?」
赤枝は、黒い長髪と黒い瞳の男を正面から見据えた。
この男は、俺を見下ろしている。諌めている。
大人が子供をたしなめるように、遊びで正義の味方ぶるのはやめておけ、と。
けれど、裏を返すならば――。
ただ奪われ続けろと言っている。
理不尽を受け入れろと、踏みしだかれること、傷つけられ血を流してゆく人を見捨てろと言っている。
戦いが狂気を呼ぶのだから、狂気によって暴きたてられる無力な現実を容認しろと!
「俺は贋物の黄金でいい」
信じた共産主義とは、そもそも狭窄なものだ。
正義を名乗り、あらゆる価値観や宗教を廃し、同胞の血すら流し続けた黄金の価値観。
「おっさんの言うことは正しいんだろうさ」
所詮世界は弱肉強食。正義と正義が潰しあっている。
中には、子供を拉致し、親御を殺させることで洗脳し、強制的に少年兵に仕立てあげ、あるいは少女に性的搾取を強制することを正義の御旗に掲げるものもいるだろう。
主要民族以外を農奴として使役し、強制結婚や民族浄化を進めることで、繁栄を謳歌する国もあるだろう。
反対者の意見にではなく、その頭蓋骨に攻撃を加え、1000万人以上を粛清して"彼らを無かったことにする”正義もあるだろう。
「だが、そんな正しさはくそくらえ。俺は正義なんてどうでもいい。ただ、目の前で泣くやつがいるのが、流される血が許せないだけだっ!」
真の黄金は、皆を照らす光は、高城や紫崎先輩が持ってゆけ。ただ、俺はちっぽけな光でも、俺の手で守れる誰かを、大切なあいつらを取りこぼしたくないだけだ。
「おっさん。俺があんたに渡せるものはただひとつ。この鉄拳だ」
殴りかかる。
しかし、けん制と呼ぶには重過ぎる蹴りが二打三打と打ちのめし、赤枝が間合いに入ることを許さない。
敵のベースは日本拳法。
倒れてはならない。倒れれば追撃をくらう。
心は悲鳴をあげている。
なんで無手格闘のない異世界で、日本拳法の使い手と殴りあわなくちゃいけない?
それもあいつに似た、あいつが10年分は洗練されたかのような使い手と。
(こんな戦いは馬鹿げてる)
10mの巨人と殴りあえる怪物だぞ? 尻をまくれ。逃げのびろ。どうせ傷つくのは他人だろうが。
(黙れよ! 俺の心!!)
ここで尻尾を巻いたが最後、ムラサキ先輩は残念だと天を仰ぐだろう。コノエはそれみたことかと腕を組むだろう。そして、タカシロは悲しそうに受け入れるだろう。
俺は共産主義者だ。あいつのいう男がどうたらなんて価値観に興味はない。
けど、あいつ以外に膝を折ることは、あいつの信頼を裏切ることだけは耐えられない。
「ヒーローは不屈ですってかぁ? コゾー!」
「俺は信じてる。俺がタカシロを信じるように、あいつが今この時も俺を信じていることを」
男が笑った。
嗤えばいいと赤枝は思う。
けれど、赤枝は知らない。
男が笑みを浮かべたのは、眼前の少年が決して諦めないと信じていたから。
「おっさん、あんたの名前は?」
「ニーダル・ゲレーゲンハイト」
「そうか。ほっとしたよ」
タカシロユウキでないのなら、俺が負けるはずがない。
「赤枝基一郎。あんたをぶちのめすガキの名前だ」
不断の改善をもって保守と為すがタカシロ。
創り変えるのがムラサキ。
切り開こうとするのがコノエ。
革命を志すのがアカエダだ。
諦めて、ただ破壊だけを望む程度の男に負けられない。
「俺をコゾーと呼んだな。諦めた大人がガキの前に立つんじゃない!」
腫れあがった左腕で、牽制を試みた裏拳は、あっさりとかわされた。
男はかわしながら上半身から力を抜いて、てのひらを開いて手首を反らせた。
直後、波動突きと呼ばれる一撃が、槍が如く赤枝の胸を貫き、意識のほとんどを刈り取られた。
だが、意識が飛ぼうと、心は折れない、体は砕けない。
ならば、勝てる。
10年、ただひたすらに修練を続けたひとつの型。
山桜の花弁が川の流れに落ちるように、あるべきものがあるべき場所に収まるだけだ。
正拳中段突き。
その一撃が、その拳が、赤枝基一郎を証明する。
決して揺るがなかった強敵が、膝をついてぐらりと倒れる。
「見たかよ。タカシロ」
意識を手放す瞬間、赤枝は幻のように、懐かしい友達の満足そうな笑顔を見た気がした。