第五十一話 結婚式
ヴィクトリア大皇太后陛下との晩餐会を乗り越え、婚姻の承認を得た翌朝。
王宮に与えられたお嬢様の仮の私室。
私は、お嬢様の書き物机の横にあるゴミ箱から一枚の羊皮紙を拾い上げ、丁寧に広げた。
『怖い……お祖母様、すごく怖かった。
また「狂っている」って、呆れられたのかな?
でも、殿下を守りたかった。本当は「ずっと傍にいて」って泣きつきたかった。
他の誰かじゃダメなの。
クロード様、貴方じゃなきゃ絶対にダメなの。
頑張ったわ、ロザリア。よく耐えたわ、ロザリア。
私はサザランド家の娘なんだから、最後まで胸を張るのよ!
(以下、うさぎが泣きながら、立派な盾を構えてガッツポーズしているイラスト)』
インクが滲んでいる。
昨夜の極度の緊張と恐怖を思い出して泣いたのだろう。けれど、添えられたうさぎのイラストは、アカデミー入学前の頃と比べ、見違えるほど力強い線で描かれていた。
「お嬢様も成長されましたね……」
私は思わず口元をほころばせ、その紙を綺麗に畳んで、懐の『厳重保管ファイル(鍵付き)』にしまった。
これで何十冊目になるだろうか。
外面は冷酷な権力者として恐れられているが、内面は誰よりもクロード殿下を愛する臆病な少女。
極度の緊張が限界を超えると「罵詈雑言」が飛び出す致命的なバグは治るどころか悪化している。
けれど、それでも彼女は、愛する人のために世界と戦う逞しさを身につけたのだ。
◇
それから数ヶ月後。
王都の中心にそびえ立つ、荘厳な大聖堂の控室。
「アメリア……息が、息が苦しいわ……」
「お嬢様、コルセットは規定の緩さです。極度の緊張で呼吸が浅くなっているだけです」
純白のウェディングドレスに身を包んだお嬢様は、顔を真っ青にさせ、ガタガタと扇子を震わせている。
「ロザリアお嬢様、落ち着いてくださいです!」
サザランド本邸から応援に駆けつけたエルシーさんが、お嬢様のベールを整えながら懸命に声をかけた。
「あのポンコツトランクを抱えて、家出を繰り返していたのに……こんなに立派になられて……うぅっ」
「……ちょっと、エルシー。泣かないでよ。わたくしまで泣きそうになるじゃない」
感極まって鼻をすするエルシーさんの姿に、お嬢様も目を潤ませて微笑んだ。
控えめなノックの音が響く。
「見事な純白のドレスですわね、ロザリア様。外界の不純な干渉を一切弾き返す、完璧な『心理的装甲』に見えますわ」
「……エレノア」
「感傷は後です。そのベールで視界を絞り、殿下だけを見つめなさい。貴女が玉座の横に立つという事実だけで、他国に対する最大の牽制になるのですから」
「……ふふっ、そうね。私がクロード様の『絶対的な盾』になるのよ。怯えている場合じゃなかったわね」
エレノア嬢なりの不器用なエールを受け、お嬢様の瞳に、いつもの冷徹で誇り高い光が戻った。
「さあ、お嬢様。時間が参りました」
「ええ、行くわよ。アメリア、エルシー。今日この日、泥棒猫どもに次期国王の隣に立つのが誰か、その目に焼き付けてやるわ!」
私が控室の扉を開くと、眩い光と共に、大聖堂の荘厳な鐘の音が響き渡る。
パイプオルガンの調べに乗せて、長い真紅の絨毯をゆっくりと歩む。
左右を埋め尽くす各国の賓客や貴族たちが、息を呑んで見つめる。
他国の令嬢たちの嫉妬すら寄り付かない、圧倒的な『次期王妃』の威厳。
その絨毯の先。
祭壇の上では、正装に身を包んだクロード殿下が、優しく、頼もしい微笑みを浮かべて待っている。
殿下がお嬢様の手を取り、二人は大司教の前に並び立った。
「――健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
「はい、誓います」
殿下が力強く答え、お嬢様もまた、少し震える声で「誓います」と応えた。
「では、誓いの口付けを」
大司教の言葉に、殿下がお嬢様に向き直り、純白のベールを静かにめくり上げる。
「ロザリア、君を一生愛し抜くよ」
「クロード様……」
静寂の中、二人の唇が重なる。
大聖堂を埋め尽くす参列者たちから、万雷の拍手と祝福の歓声が沸き起こった。
誰もが、慈愛に満ちた未来の国王夫妻の誕生を確信した。
――だが、唇を離した直後だった。
極度の緊張と歓喜がキャパシティを超え、結婚式という一大イベントでも、お嬢様の防衛本能が作動した。
「な、ななな何を都合よく愛を囁いているのよぉぉぉっ!?」
「……ロ、ロザリア、結婚式にまで……?」
「こんな何千人もいる前で口付けするなんて聞いてないわ! アンタのその無防備な顔を泥棒猫どもに見られたじゃない! ああ、もう! 今すぐここにいる全員の視力を奪って、大聖堂ごと地下シェルターに完全隔離してやるわ! この無自覚な顔面凶器が!」
祝福の空気が一転する。
青ざめる各国の賓客たち。
私は静かに歩み寄り、祭壇の下から列席者全体へ向けて深く一礼しようとした、その時だ。
「ありがとう、アメリア」
殿下が私に優しく微笑みかけ、そしてお嬢様へと向き直った。
「僕に『翻訳』させてくれ」
「……え?」
「ロザリアが本当に言いたいのは、こういうことだろう? 『世界中の誰にも見せたくないくらい、僕のことが愛おしくてたまらない』と」
「ッ……!?」
「最高の愛の誓いをありがとう。僕も愛しているよ、ロザリア」
「な、なななんでアンタまで都合よく意訳するスキルを身につけてるのよぉぉぉっ!」
もはや私が口を挟む必要はなかったようだ。
歴史に残る結婚式は、殿下の完璧な翻訳と共に、幕を下ろしたのである。




