第五話 政界の怪物
嵐というのは、得てして晴天の日にやってくるものだ。
舞踏会から一夜明けた、午前9時。
私はサザランド公爵邸の執務室で、優雅にモーニングティーを淹れていた。
窓の外は快晴。小鳥がさえずり、庭師が鼻歌交じりに剪定している。
平和だ、あまりにも平和すぎて、逆に「タダほど怖いものはない」という言葉が脳裏をよぎり、胃がキリキリする。
「見なさい、アメリア! 昨日のドレス、ハンガーにかけておいたらシワが伸びたわよ! これも私の愛の力に違いないわ!」
ロザリアお嬢様が、満面の笑みで部屋に飛び込んできた。
昨夜の暴言連発の失態など、記憶の彼方に消し飛んだようだ。
このポジティブさは才能と言ってもいいだろう。
「お嬢様、それは愛の力ではなく最高級シルクの復元力であり、金貨10枚分の仕事をしてくれただけです。それより、本日の予定ですが……」
私が手帳を開こうとした、その時。
屋敷の玄関ホールから、ただならぬ騒ぎが聞こえてきた。
複数の足音。硬質な革靴が床を叩く音。そして、空気を切り裂くような冷徹な声。
「どけ、取次ぎなど無用だ」
部屋の外から聞こえた冷徹な声。
私は瞬時に手帳を閉じ、お嬢様の前に立つ。
バンッ! 執務室の扉が乱暴に開かれた。
制止も礼節も踏み越えて部屋へ踏み入ってきたのは、王国の宰相、ヴァイデル・フォン・グラウフェルド公爵。
肩まで伸びる白髪をオールバックになでつけ、左眼の片眼鏡の奥から、蛇のような眼光を放つ、『鉄血の古狸』の異名を持つ政界の怪物だ。
宰相の背後には、昨夜のダンスパートナーであるクロード殿下が、なんとも気まずそうな顔で立っていた。
さらに殿下の斜め後ろに控える影が一人。
宰相と同じプラチナブロンドに、右目に掛けた銀縁の片眼鏡。そのレンズの奥では、理知的な銀の瞳が鋭く光っている。
手には分厚いバインダーと万年筆。
仕立ての良いコートを着こなしているが、目元の濃いクマからは隠しきれない『残業』と『胃痛』のオーラが漂っている。
(同類だ……)
私の勘がそう告げている。
彼は王子の事務補佐官にして、宰相の息子である、グレン・フォン・グラウフェルド卿。
この国で最も優秀で、最も不運な中間管理職の青年だ。
「げっ……古狸!?」
「お嬢様、心の声が漏れています。今は『ごきげんよう、閣下』に変換してください」
私は小声で注意しつつ、優雅にカーテシーを行う。
だが、宰相は私を一瞥もせず、杖で床をドンと突いた。
「単刀直入に言おう。王子に対する、貴家の令嬢の度重なる暴言。これ以上、看過するわけにはいかん」
宰相の言葉と共に、室内の温度が氷点下まで下がる。
グレン卿は無表情のまま、手元のバインダーに何かをさらさらと書き込んでいる。
おそらくこの場の発言記録だろう。
プロの仕事だ。
お嬢様はソファの上で、借りてきた猫……いや、蛇に睨まれたカエルのように縮こまっていた。
昨夜の『王子狩り』の成功で浮かれていたのも束の間。翌朝、突然ボスが攻め込んできたのだ。
驚くのも無理はない。
「誤解だわ! わたくしはただ、殿下と親睦を深めようとしていただけよ!」
「親睦だと? 報告によると『ツラをへし折る』だの『豚の餌にしてやろう』だの、市井のゴロツキでも言わぬような言葉を投げつけたそうではないか?」
宰相が一歩踏み出す。
そのプレッシャーに、お嬢様のメンタルが限界を迎える。
「うるさいわね! シワシワのドライフルーツ野郎がっ! 偉そうに説教しないでくださる!? 酸素の無駄遣いよ! さっさと土に還りなさい!」
――プツンと、何かが切れる音がした。
クロード殿下が「あっ」と声を上げ、宰相の護衛たちが一斉に剣の柄に手をかける。
完全にアウトだ。
これは不敬罪どころか、国家反逆罪で断罪されても文句は言えない。
『緊急業務発生:全面戦争の回避、及び宰相との良好関係の修復』。
私は静かに、しかし迅速に、お嬢様と宰相の間に割って入る。
ここからは一度のミスも許されない『翻訳』という名の綱渡りだ。
「閣下、大変な誤解がございます」
「メイド風情が口を挟むな! 今の言葉のどこに誤解があるというのだ! 『土に還れ』と言ったのだぞ!?」
「主人は、こう申されました。『閣下の顔に刻まれた深いシワは、長年国家に尽くされてきた年輪のように尊く、まるで熟成された果実のような芳醇な知性を感じさせます。貴方様のような偉人が同じ空気を吸っていると思うだけで、大地への感謝が溢れてきます』、と」
私が翻訳した瞬間、グレン卿の手がピタリと止まった。
眼鏡の奥の瞳が、鋭く私を射抜く。
それはゴミを見る目ではない。
ダイヤの原石……いや、使える人材を見つけた時の、人事担当者の目。
もしくは、もっと別の……?
シンと静まり返る室内。
宰相の片眼鏡がキラリと光る。
その瞳は困惑などしていない。
私の嘘を完全に見透かしているのだ。
「ほう……『ドライフルーツ』と『土に還れ』を、『熟成』と『大地への感謝』と解釈するか。いい度胸だ、メイド。我を愚弄しているのか?」
宰相の声が低く響いた。
普通なら誰もが逃げ出すほどの殺気だが、私は表情一つ変えずに言い切る。
「いいえ、主人は表現が少々詩的なものでして、凡人には理解し難い高度なメタファー、つまり比喩表現を好むのです。天才とは得てして孤独なものですから」
「……口が減らん娘だ」
宰相は「ふん」と鼻を鳴らすと、冷ややかな目で私とお嬢様を見下ろした。
「百歩譲って、我への暴言は比喩としよう。だが、『跪け』とも言ったそうではないか! これも『愛の告白』だとでも言うつもりか?」
「はい、正確には『貴方様の愛に溺れて跪きになりそうです』という求愛です」
「戯言を! そのような詭弁など、政治の場では通用せんぞ! 証拠を出せ! その減らず口が真実の愛だという物的証拠を!」
宰相が再び吠えた。
待ってました、その言葉と言わんばかりに、私は懐から一冊の分厚いファイルを取り出す。
表紙には『重要機密書類』と書かれているが、中身は、お嬢様の部屋のゴミ箱から回収した『ポエム・コレクション』である。




