第四十四話 年越しの鐘
王立淑女アカデミーの年末。
吐く息も白くなる大晦日の夜、敷地内にある大聖堂の前には、新年の鐘を聞こうと令嬢たちが集まっていた。
その少し離れた木陰で、お嬢様はそわそわと王宮へ続く道を気にかけている。
「アメリア、本当にクロード様は来てくださるのよね……?」
「はい、まもなく到着されます。お嬢様、どうかお心を落ち着けて、お待ちください」
私は手元の懐中時計を見ながら、静かに頷いた。
先日のクリスマスで、今月の『接触枠』は使い切っていたが、グレン様と交渉し、十二月三十一日から一月一日の年を跨ぐ面会許可を取り付けることができた。
「よかった……。新年をクロード様と共に迎えられるなんて」
お嬢様が、寒さで赤くなった頬を綻ばせる。
だが、その穏やかな待ち合わせの場に、真紅のコートを着たヴァレリア王女が現れた。
「ごきげんよう、ロザリア。貴女も殿下をお待ちなの?」
「……何の用かしら? 貴女には関係のないことですわ」
「いいえ、ファルネーゼでは、新年の瞬間に親愛の情を込めて『口付け』を交わすのが伝統の作法なの。この寒空の下、私がクロード殿下にその素敵な異文化交流を教えて差し上げようと思って」
ヴァレリア王女が、蠱惑的な笑みを浮かべて挑発してくる。
お嬢様の顔からスッと笑みが消え、青い瞳に冷たい光が宿った。
その時、雪を踏む音と共に、クロード殿下がグレン様を伴って現れた。
「ロザリア、待たせてしまったな。夜の冷え込みは厳しいが風邪はひいてないか?」
白い息を吐きながら優しく微笑む殿下に、お嬢様が嬉しそうに「クロード様……」と口を開いた、その時。
「クロード殿下! 新年まであと少しですわ! さあ、我が国の素晴らしい伝統の挨拶を……!」
二人だけの空気を強引に壊すように、ヴァレリア王女が横から割って入った。
彼女が甘い声を出し、殿下へ唇を寄せようと距離を詰める。
その瞬間、お嬢様が疾風の如く、二人の間に滑り込んだ。
バサリと広げた扇子をヴァレリア王女の鼻先に突きつけ、完全に遮断した。
「……泥棒猫、気安く距離を縮めないで頂けるかしら。わたくしのクロード様に、貴女の軽薄な吐息がかかるのも不愉快よ」
私兵の展開も、大袈裟な怒鳴り声もない。
ただ一人の女性として、愛する人を他の女に触れさせないとする、静かな拒絶。
「ちょっと邪魔しないでくださる? 私はただ、挨拶を――」
「ベルジュ家としても、その不用意な接触は推奨できませんわ」
言い募ろうとするヴァレリア王女の言葉を遮るように、木陰に控えていたエレノア嬢が、静かな足取りで進み出た。
「この寒空の下、無防備に顔を近づけるなど風邪の元です。国家元首の体調管理の観点からも、適切な距離を保つべきですわ!」
軍隊の展開などではない。ただの親友としての、少し理屈っぽい牽制。
ヴァレリア王女が「なんなのよ、もう……」と不満げに顔をしかめる。
殿下が二人の令嬢の気迫に少し戸惑ったように目を瞬かせた。
私は静かに歩み寄り、殿下の前で一礼する。
「失礼いたします、クロード殿下。主人は『新年の神聖な挨拶を、軽薄な振る舞いで穢すべきではない』と申しています。未来の王太子妃として、王室の威厳と伝統を重んじるがゆえの、少しばかり厳格な姿勢でございます」
ただの嫉妬が『王室の威厳を守るための気高き貞淑さ』へとすり替える。
殿下は小さく息を吐き、納得したように優しく微笑んだ。
「そうか、僕の立場を重んじて厳格に振る舞ってくれていたんだな。ありがとう、ロザリア。君のその誇り高い心遣い、とても嬉しいよ」
「と、当然よ! アンタの威厳は、わたくしが守るんだから!」
お嬢様は照れ隠しのように目を逸らしながらも、嬉しそうに頬を染めた。
空気を読んだヴァレリア王女は、小さくため息をつくと、諦めたようにその場を離れていった。
遠くで、新年を告げる大聖堂の鐘が、静かに鳴り始める。
鐘の音が響く中、殿下とお嬢様は二人きりで言葉を交わしている。
私は少し離れた場所で、その穏やかな光景を見守っていた。
そこへ、温かい湯気を立てる二つの紙コップを持ち、グレン様が歩み寄ってくる。
「……見事な手際だったな。ただの嫉妬が、王室の威厳を守る貞淑な振る舞いに変わるとは」
「明けましておめでとうございます、グレン様。新年早々、殿下を困らせるわけにはいきませんから」
私が渡されたホットティーを受け取りながら答えると、グレン様は微かに苦笑し、コップを軽く当ててきた。
「君のその強引なスケジュール調整には、王宮の担当者も苦笑いしていたぞ。……だが、おかげで良い年明けになった」
「それは何よりです。本年も、特別手当の迅速な決済に期待してます」
私が口角を上げ、紅茶を一口含むと、グレン様は一歩だけ距離を詰め、その片眼鏡の奥の瞳で私を静かに見つめた。
「ああ、予算の決済は任せてくれ。……だが、私からの『来年度の契約』の話もさせてくれないか、アメリア」
「……新年度の契約更新でしょうか?」
グレン様はフッと笑うと、周囲の死角になる位置で、私の空いた左手を、そっと自分のコートのポケットへと引き入れた。
「君のスケジュールは、本年も私が『独占契約』したい。君の老後資金の目標額も、私と一緒に貯めれば倍の速度になる。……今年も私の隣にいてくれないか?」
業務と金貨の皮を被った、彼なりの不器用で誠実な告白。
ポケットの中で絡められた大きな手から伝わる大人の熱に、私の胸の奥が、新年早々から高鳴り始める。
「……困った方です。年明け早々、有能なメイドを独占しようなんて」
「どんな好条件でも提示しよう。私の生涯賃金を懸けてもいい」
「……では、本年も末永いビジネスパートナーとして、よろしくお願いいたします」
私は彼の手をそっと握り返し、冷たい夜風を避けるように、少しだけ視線を伏せて微笑んだ。
新年の鐘の下で、幸せそうに見つめ合う主君たち。
そして、暗がりで密かに手を取り合う、がめつくも不器用な裏方二人。
王立淑女アカデミーの新年は、静かで、甘く、確かな温もりを帯びて幕を開けた。




