第四十一話 王妃の主権宣言
ヴァレリア王女の編入から一ヶ月が過ぎた。
ファルネーゼの潤沢な資金による引き抜き工作が失敗に終わって以来、彼女は一切の接触を断ち、不気味なほどの沈黙を保っていた。
だが、嵐の前の静けさは、最悪のタイミングで破られることになる。
秋晴れの午後。
学園内で最も美しいとされる大温室にて、ファルネーゼ国主催の『両国親善茶会』が執り行われていた。
次期国王であるクロード殿下を主賓に迎え、高位貴族たちが集う公式な外交の場である。
当然、クロード殿下の婚約者であるお嬢様も、サザランド家を代表して同席している。
だが、温室の空気は、咲き誇る花々とは裏腹に、氷のように冷え切っていた。
「クロード殿下、我が国で採れたこの果実、とても甘くて美味しいですわ。よろしければ、私が剥いて差し上げましょうか?」
「あ、ああ……ありがとう、ヴァレリア殿下。だが僕には侍従がついているから大丈夫だ」
「そう言わず、公式な親善茶会ですもの。両国の絆を深めるため、これくらいの親愛の情は当然の作法でしてよ?」
円卓の中心で、ヴァレリア王女が殿下のすぐ隣に陣取り、誘惑的な笑みを浮かべて距離を詰めていた。
公式行事の主催者という『絶対に無碍には扱えない立場』を悪用し、殿下に密着し、親しげに語りかけているのだ。
円卓の対面に座るお嬢様の顔から、一切の表情が消え失せている。
膝の上で握りしめられた扇子は、今にもへし折れそうなほど軋んでいる。その青い瞳には、殿下に触れようとする泥棒猫への、純度100%の殺意が宿る。
(なるほど。これが『逃げ場のない精神的手段』か)
壁際に控えていた私は、静かに息を吐いた。
公式な外交の場で、お嬢様が嫉妬に狂って他国の王女を罵倒したり、暴れ出したりすればどうなるか。
『未来の王妃としての資質なし』『ファルネーゼ国への重大な侮辱』として、最悪の場合、婚約破棄や政治的失脚に繋がりかねない。
かといって黙って耐え続ければ、お嬢様の精神のキャパシティが先に崩壊する。
退路を断たれた、残酷な公開処刑だった。
お嬢様の限界が近い。
殺気が実体化し、温室の気温が下がったようにすら錯覚する。
その時、ヴァレリア王女が立ち上がり、私の傍らをすれ違いざまに、耳元で囁く。
「あの狂犬、今にも殿下の前で醜態を晒しそうね」
私は表情を変えず、視線だけを彼女に向ける。
「サザランド家の威信はここで終わるわ。でも、貴女が私の手に口付けをして忠誠を誓うなら……私が今すぐ殿下から離れて、あの惨めなお嬢様を救ってあげてもよろしくてよ?」
主人の破滅を人質に取った、悪魔の取引。
これこそが彼女の真の狙い。主人の尊厳を守りたければ、自分自身を差し出せという包囲網だ。
「5秒待ってあげるわ。さあ、選びなさい」
ヴァレリア王女が勝利の笑みを浮かべる。
だが、私の決断は鼻から一ミリも揺らがない。
私は彼女の誘いを無視し、一歩だけ前へ出た。
「ヴァレリア殿下、そしてクロード殿下。現在の状況における、我が主人の『厳重なる抗議の意志』について通達させていただきます」
張り詰めた温室に、私の事務的な声が響き渡った。
「抗議……?」と、ヴァレリア王女が怪訝に眉をひそめる。
「はい。主人は現在、ヴァレリア殿下のクロード殿下に対する『過度な物理的接触』を、極めて重大な『主権侵害と情報漏洩の危機』と見なしております」
円卓の貴族たちが息を呑む。
「次期国王たるクロード殿下は、我が国の最高機密そのもの。公式な場において、他国の王族がみだりに接触を図り、心理的な隙を突こうとする行為は、親善の範疇を超えた『国家の安全保障を揺るがす重大なプロパガンダ』に該当します。未来の国母として、主人は毅然たる『防衛的威嚇』を行っておられるのです」
嫉妬に狂った醜い令嬢の殺気が、見事なまでに『国家の主権と機密を守るための、気高き防諜姿勢(威嚇)』へとすり替えた。
「ベルジュ家としても、サザランド家の見解に同意いたしますわ」
さらに、壁際に控えていたエレノア嬢が、ドレスの下の筋肉を僅かに緊張させて一歩前に出た。
「要人警護の観点から見ても、現在の距離感は異常です。これ以上の不用意な接触が続くのであれば、有事と見なし、私が殿下を安全圏までお運びいたします」
防諜の理屈と、容赦のない物理的牽制。
二つの防壁に挟まれ、ヴァレリア王女の笑みが完全に引きつった。
「……アメリアの言う通りだ、ヴァレリア殿下。親善の席とはいえ、王族としての距離感を誤るべきではなかった。ロザリア、僕の不用意な態勢で君に国家の安全を案じさせてしまった。すまない」
殿下は静かに立ち上がると、ヴァレリア王女から距離を取り、お嬢様の隣の席へと歩み寄った。
「君が僕を守ろうとしてくれたその誇り高い意志、しかと受け取ったよ」
「ク、クロード様……」
お嬢様は扇子を下ろし、極限の緊張から解放されて、その瞳にじんわりと涙を浮かべた。嫉妬の炎は消え去り、そこにはただ愛する人の隣に立てた安堵だけがあった。
ヴァレリア王女はギリッと奥歯を噛み締め、誰にも聞こえない声で「またしても貴女というメイドは!」と忌々しそうに私を睨みつけた。
私は涼しい顔でカーテシーを返してみせる。
◇
茶会が終わり、日が傾き始めた廊下。
後片付けの指示を出していた私の元へ、グレン様が歩み寄ってきた。
「……見事な逆転劇だった。ヴァレリア殿下の『公式行事という名の密室』を利用した人質作戦。一歩間違えれば、ロザリア嬢は完全に潰されていたぞ」
「お疲れ様です、グレン様。他国の圧力程度で、我が主人は潰れたりいたしません。それに、私は私自身の『老後』を守っただけですから」
私が淡々と答えると、グレン様は苦笑し、そっと私の隣に並ぶ。
「君のその徹底した防衛能力にはいつも感服する。だが、ヴァレリア王女はこれで完全に君を『最優先で排除・あるいは獲得すべき最大の障壁』と認識したはずだ。次はもっと直接的な手段に出るかもしれない」
「望むところです。不当な圧力には特別防衛費の増額をもって応対いたしますので。その際は、王宮からの予算捻出、期待してますよ?」
私が少しだけ口角を上げて挑発すると、グレン様は片眼鏡の奥の瞳を細め、静かな大人の熱を帯びた声で返す。
「ああ、君を守るためなら王室の裏金でも私の個人資産でも溶かしてやろう」
夕日が差し込む廊下。
強大な他国からの精神的包囲網を退けた私たちは、来るべき次なる防衛戦へ向けて、決して切れることのないパートナーシップを強固なものに結び直した。




