第三十九話 嵐の編入生
秋風が冷たさを増し始めた朝。
王立淑女アカデミーの堅牢な鉄門が、重々しい音を立てた。
石畳を踏み鳴らして入ってきたのは、隣国ファルネーゼの王室紋章を掲げた豪奢な馬車。
教室に集められた令嬢たちは、何事かと張り詰めた緊張感の中で息を潜めていた。
教壇には、厳しい指導で知られる教師、マダム・ベアトリス。
隣には王室補佐室の代表として、特例措置の監督に派遣されたグレン様が、静かに事態を見守っていた。
「皆様、静粛に。本日は王宮からの特例措置により、隣国ファルネーゼから短期留学生をお迎えすることになりました」
マダム・ベアトリスが厳格な声で告げ、教室の扉へと視線を向ける。
「では、お入りください。ヴァレリア殿下」
重厚な木製の扉が、ゆっくりと開かれた。
教室へと足を踏み入れたのは、真紅のドレスに身を包んだ、ファルネーゼ第一王女・ヴァレリア殿下だった。
「皆様、ごきげんよう。本日からこの学舎で共に学ぶことになりました、ヴァレリア・フォン・ファルネーゼですわ」
その姿を見た瞬間、最前列の席に座っていたロザリアお嬢様が、扇子を取り落としそうになるほど目を見開いた。
「な、なななんで、アンタがここにいるのよ!? 学園祭が終わったら、とっくにファルネーゼへ帰ったはずじゃ……!?」
「まあ。未来の王妃ともあろう方が、随分とはしたない声を出して」
動揺を隠せないお嬢様に対し、ヴァレリア王女は余裕の笑みを浮かべて歩み寄る。
「特例の留学手続きくらい、我が国の力をもってすれば造作もないことですわ。……でも安心なさい。今日の私は、貴女の婚約者には興味がありませんの」
「え……?」
「私がこの退屈な要塞にわざわざ足を運んだのは、ただ一つの『至宝』を手に入れるためよ」
ヴァレリア王女は、お嬢様の机の横をすり抜け、後ろに控える私の前で立ち止まると、魅惑的な熱を帯びた瞳で私を見つめた。
「アメリア、貴女のその類まれなる知略と言葉の刃。我が国が誇る最高位の外交官として迎え入れたいのです。報酬はサザランド家の十倍。いえ、貴女が望むなら、我が国の一領地を与えてもよろしくてよ?」
教室がどよめきに包まれた。
一介のメイドに対し、他国の王女が領地を対価にして引き抜きを宣言したのだ。これは単なる勧誘ではなく、ファルネーゼ国という国家権力そのものを使った、強引な略奪宣言に他ならない。
「泥棒猫が……」
地を這うような低い声が響く。
先ほどまで狼狽えていたロザリアお嬢様だ。
その青い瞳からは動揺が消え去り、クロード殿下に向けられるものとは質の違う殺意が宿っている。
「わたくしの半身を金で買えると思っているの? その薄汚い手をアメリアに伸ばすというなら、貴女の国の国境線ごと、わたくしがこの手で灰燼に帰してあげるわ!」
「ベルジュ家の次期当主としても、その軟弱な交渉には異議を唱えますわ!」
お嬢様の宣戦布告に重なるようにして、静寂を破って立ち上がったのはエレノア嬢だ。
彼女も冷徹な眼差しで、ヴァレリア王女を真っ直ぐに見据えた。
「アメリアの類まれなるポテンシャルは、金貨や領地といった柔らかな土台では決して支えきれません。我がベルジュの過酷な環境と鋼の規律があってこそ、彼女は完成するのです。もし、彼女を力ずくで奪うというのなら、私が単騎でファルネーゼの軍勢を粉砕し、アメリアを奪還いたしますわ!」
一個人の引き抜き騒動が、瞬く間に『隣国への焦土作戦(経済制裁)』と『軍部トップの令嬢による単騎殲滅宣言(物理)』の引き金へとすり替わった。
周囲の令嬢たちが青ざめ、教壇の横に立つグレン様も、国際問題への発展を危惧して顔を強張らせている。
私は静かに息を吸い込み、一歩だけ前へ出る。
「ヴァレリア殿下、現在交わされた極めて高度な『二国間貿易、及び安全保障に関する基本方針』について確認させていただきます」
静まり返った教室に、私の事務的な声が響き渡る。
「まず、ヴァレリア殿下からのご提案。これは我が国の優秀な人材に対する『正式な技術提供の要請』であり、ファルネーゼ国が我が国との友好的な連携を望んでいる証左と受け取ります」
私はヴァレリア王女に向けてカーテシーを行った後、すぐにお嬢様とエレノア嬢の方へと向き直る。
「対して、主人の返答。これは我が国が誇る高度な人的資源の流出を固く禁じる『厳格なる輸出規制の宣言』にございます。さらに『灰燼に帰す』という表現は、国家の根幹を切り売りしないという強固な経済防衛の意志を示されたものです」
私は一度言葉を切り、涼やかな声で再び続ける。
「そして、エレノア様の宣言。これはサザランド家とベルジュ家による『強固な軍事同盟と共同防衛網の構築』を意味しております。我が国の要人に対する不当な干渉には、国内の武断派が徹底した防衛権の行使をもって応じるという、極めて現実的な抑止力の提示にございます」
一触即発の開戦宣言が、『人材流出を巡る経済外交と、盤石な軍事同盟のアピール』へと変換する。
張り詰めていた空気が、ふっと緩む。
グレン様が小さく安堵の息を吐き、周囲の令嬢たちも「経済の盾と、武力の剣とは……!」「我が国の強固な連携、見事な外交戦略ですわ!」と感銘の声を漏らす。
ヴァレリア王女は目を細め、やがて楽しげにクスクスと笑い始めた。
「……素晴らしいわ。本当に、見事な防衛という名の翻訳ね。公爵家の令嬢たちが束になって貴女を守ろうとするとは。これほどの宝、ますます諦めきれなくなりましたわ」
「お褒めにあずかり光栄です。ですが、私の市場価値は金貨や領地では測れませんので」
「ええ、知っているわ。だからこそ、じっくりと時間をかけて陥落させて差し上げます。覚悟しておきなさいな、アメリア」
ヴァレリア王女は優雅に踵を返し、自らに用意された空席へと向かっていった。
◇
放課後。
誰もいなくなった教室の片隅で、私は密かにグレン様と合流していた。
「……見事な外交手腕だったな。君がいなければ、今頃ファルネーゼとの間に国境警備隊が配備されていたぞ」
「お嬢様とエレノア様の私への執着は苛烈ですから。それにしても、他国の王女を本当に編入させるとは、王宮はなぜ受理をしたのですか?」
私が尋ねると、グレン様は深く、疲労の滲むため息を吐いた。
「ファルネーゼの潤沢な資金と、強大な軍事力を背景にした外交的圧力だ。当然、クロード殿下は『ロザリアの安全が脅かされる』と猛反対し、執務室の机を叩き割る勢いで激怒しておられたが……国王陛下が両国の関係悪化を避けるための苦肉の策として、特例を飲まざるを得なかったんだ」
「なるほど。殿下とグレン様の胃痛が目に浮かぶようです」
「ああ、彼女は本気だ。ファルネーゼの国力を使い、あらゆる策で君を籠絡しにくるだろう。君の言う通り、危険手当の引き上げが必要だな」
「王宮の予算審議、期待しています」
私が淡々と告げると、グレン様は机一つ分の距離を詰め、低い声で囁いた。
「予算だけではない。……彼女から君を守るための、私個人の『防衛計画』も急がねばならないようだな。君の心を他国に奪われる前に」
「それは頼もしいですね。有能な補佐官殿のお手並み、拝見させていただきます」
静かな教室の中、夕日が差し込む窓際で、私たちは視線を交わし、ビジネスパートナーとしての信頼と、互いを手放さないための確かな熱を確かめ合った。
要塞に降り立った、強大で美しい嵐。
私の平穏な老後計画を脅かす新たな戦いの火蓋が、今、静かに切って落とされた。




