第三十三話 最終日の避暑地
翡翠の湖畔での滞在も最終日を迎えた。
明日には王都へ戻り、秋の気配が近付く学園での日々が再開する。
その締めくくりとして、殿下の提案により、私たちは翡翠の湖で『ボート釣り』を楽しむことになった。
穏やかな湖面。
二隻の木造ボートが浮かんでいる。
一隻には、殿下とお嬢様、そして監視役の私。
もう一隻には、少し離れた場所で釣り糸を垂らすグレン様と、なぜか釣竿を持たず、船首で腕立て伏せをしているエレノア嬢が乗っている。
「さあ、クロード様。見てなさい。わたくしがこの湖に潜むヌシを釣り上げ、その心臓を貴方様に捧げてみせるわ!」
お嬢様が構えているのは、優雅な遊戯用の釣竿ではない。
黒光りする太いカーボン製の竿に、ワイヤーのような釣り糸。そして針の先に付いているのは、毒々しいまでに赤い謎の肉塊の特製ルアーだ。
「ロ、ロザリア、その餌は、また随分と生々しいな。それに心臓を捧げるというのは、少し儀式的すぎる気が……」
殿下が赤い肉塊を見て、引きつった顔を浮かべる。
無理もない、お嬢様の愛は対象が魚であっても容赦がない。
愛する婚約者に捧げる獲物は、最大かつ最強でなければならないという、ハンターの思考に陥っている。
私はすかさず、揺れるボートの上で完璧なカーテシーをして口を開く。
「失礼いたします、殿下。主人の言葉は文字通りの生贄を意味するものではございません」
「では、あの赤い肉塊と心臓というのは……?」
「赤い餌は『情熱と豊穣』の象徴です。そしてヌシを釣り上げるという宣言は、やがて王となる殿下のため、王国の巨大な敵……つまり、いかなる困難をも自らの手で釣り上げ、平定してみせるという、未来の王妃としての力強い誓いでございます」
私はルアーを指し示し、涼やかに言い切る。
「『貴方様の治世に、わたくしが最高の収穫という名の勝利をもたらしますわ』という、愛と忠誠の証です」
「そういうことか!」
殿下の目が、カッと大きく見開かれる。
猟奇的な生贄の儀式を『未来の国家繁栄の誓い』へとすり替えた。
「ロザリアは僕のために自ら困難に立ち向かってくれるというんだな」
殿下は深く感動した様子で、お嬢様を見つめた。
「ありがとう。君のその頼もしい愛、僕も全力で応えよう。一緒に釣ろうではないか」
「べ、別にアンタの手を煩わせるつもりはないわよ! でも、どうしても一緒に竿を握りたいっていうなら、許してあげなくもないわ……!」
お嬢様は顔を真っ赤にして顔を背けつつ、釣竿の持ち手のを空けると、殿下が優しくその手を重ねる。
ボートは二人の甘い世界となった。
私の本日の業務は、これでほぼ終了である。
視線を隣のボートに移すと、エレノア嬢が船の上で立ち上がっていた。
「グレン様! 魚との対話に道具など不要ですわ! 私は自らの手で獲物を仕留めてみせます!」
「……エレノア嬢、立つとボートが揺れる。それに素手で魚を捕る令嬢などいないぞ……」
グレン様が額を押さえている。
エレノア嬢は「これぞ野生のサバイバルトレーニングですわ!」と叫びながら、湖面に鋭い視線を送っていた。
◇
夕刻。
釣りという名の愛の共同作業と筋肉の狂宴を終えた私たちは、荷物を馬車に積み込んでいた。
お嬢様と殿下は小さな魚を二匹釣り上げ、それを『愛の結晶』として宝箱にしまおうとするのを止めるのに少し骨が折れたが、無事に帰路につけそうだ。
私が荷台のチェックをしていると、背後にグレン様が立った。
「……嵐のような避暑地だった」
「お疲れ様です。胃薬の追加分は、後日サザランド家へ請求しておきます」
「ああ、頼む。だが、悪くない夏だった」
グレン様は片眼鏡を直し、夕日に染まる翡翠の湖を見つめた。
その横顔は、都会の喧騒から離れ、少しだけ穏やかな色を帯びている。
「学園に戻れば、すぐに『学園祭』の準備が始まる。各領地からの来賓対応や、生徒たちの出し物の監査……また胃に穴の開く日々だ」
「お嬢様はすでに、『クロード様を称えるための等身大黄金像』を展示する計画を立てています。監査、よろしくお願いいたします」
「……却下だ。今すぐその計画書を燃やしてくれ」
グレン様が深くため息をつき、私に向き直る。
「だが……学園祭の忙しさを乗り切れば、後夜祭がある」
「後夜祭ですか?」
「ああ、その日は君のスケジュールを、私に『独占契約』させてくれないか?」
夕暮れの薄暗がりの中。
馬車の荷台の確認をしていた私の手に、グレン様の手がスッと重ねられた。
「……見積もり次第、と言いたいところですが」
私は彼の体温を感じながら、視線を湖へと向けたまま、淡々と口角を上げた。
「完全なプライベートの拘束となれば、特別手当をいただきますよ? 王室の機密費に穴が開くほどかもしれませんが、よろしいですか?」
「もちろんだ。決裁のハンコはすでに押してある」
グレン様が、不敵な笑みを浮かべて私の手を軽く握りしめた。
私はその手を振り払うことはしなかった。
「アメリア、何してるのよ!」
馬車の中から、お嬢様の元気で狂気的な声が響く。
「……はい、ただいま参ります」
私はグレン様に一礼し、微かに熱を残した手を引いて、馬車へと乗り込んだ。
波乱含みの学園祭と、彼と約束した後夜祭。
私の安らかな老後計画はまだまだ遠そうだが……今年の秋は、悪くない季節になりそうだ。




