第三十二話 逃げ場のない湖上で
翡翠の湖畔に、夜の帳が下りた。
昼間の厳しい日差しは鳴りを潜め、静寂に包まれた森の奥で、湖面が月明かりを反射して美しくきらめいている。
夕食を終えた離宮は、穏やかな空気に満ちているが、サザランド家の辞書に『穏やか』という文字はない。
「さあ、クロード、この小舟に乗りなさい」
夜の桟橋。
お嬢様は、夜空に溶け込むような深い藍色のドレスを纏い、木造の美しい小舟を指差していた。
月光に照らされた金色の髪が、神秘的なまでに美しい。
だが、その手には、あるはずのオールが握られていない。それどころか、お嬢様は自らオールを桟橋の遠くへ蹴り飛ばしていた。
「ロザリア、オールがないようだが……どうやって漕ぐんだ?」
「漕ぐ必要なんてないわ。波の赴くままに流されるのよ。……そして、誰も迎えに来られない湖の真ん中で、二人きりの帝国を築くの。もし嵐が来て舟が沈めば、湖の底で永遠に一つになれるわ!」
ひどく重い心中の提案だった。
逃げ場のない湖上での密室劇。
愛する人と二人きりになれるのならば、世界が終わっても構わないという、お嬢様特有の『致死量の愛情』だ。
涼しい夜風の中、殿下の額に一筋の汗が流れた。
「し、沈むのは困るな。僕たちはまだ結婚式も挙げていないじゃないか……?」
殿下が引きつった笑みを浮かべ、桟橋のたもとに控える私へと視線を送る。
今夜も、私の出番だ。
私は静かに歩み寄り、一礼する。
「失礼いたします、殿下」
私は、お嬢様が蹴り飛ばしたオールを一瞥し、涼やかな声で告げる。
「主人の言葉は、決して破滅を望むものではございません。オールを手放したことには深い意味がございます」
「深い意味……?」
「はい、舟のオールは『人生の舵』の象徴。それを捨てるということは、『これからのわたくしの人生の行き先は、全て貴方様に委ねますわ』という、究極の信頼の証なのです」
殿下の目が、わずかに見開かれた。
私はさらに言葉を重ねる。
「『貴方様となら地獄の底だろうと湖の底だろうと、喜んでついていきますわ』という、貞淑なる花嫁の覚悟でございます」
「僕に全てを委ねるか……」
殿下は小さく呟いた。
『心中未遂』を『究極の信頼』へとすり替える、我ながら見事な論理展開。
殿下の瞳から恐怖の色が消え、王子としての強い責任感と深い感動が宿った。
「そうか。ロザリア、君のその重い覚悟、僕がしっかりと受け止めよう」
殿下は小舟に乗るお嬢様に向かって、力強く手を差し伸べた。
「君を沈ませやしない。僕が必ず君を守り抜くよ」
「な、ななな何よ! 急に男らしい顔しちゃって……!」
お嬢様は顔を真っ赤にして顔を背けたが、その手はしっかりと殿下の手を握り返していた。
殿下が小舟に乗り込む。
二人の乗った舟が、静かに波に揺られ、岸からゆっくりと離れていく。
「お待ちになって、殿下! ロザリア様!」
良い雰囲気になったところで、背後の茂みから勢いよく飛び出してきたのは、エレノア嬢だった。
彼女は、なぜか水着姿の上にマントを羽織っている。
「オールがないなど危険極まりありませんわ! 私が泳いで舟を牽引いたします! 私の『バタフライ』なら、モーターボート並みの推進力をお約束しますわよ!」
せっかくの幻想的な月夜の舟遊びが、筋肉による耐久レースに変わってしまう。
私は、スッとエレノア嬢の前に立ち塞がり、肩に手を置いた。
「お待ちください、エレノア様。殿下たちの舟を牽引する必要はありません」
「で、でも、アメリア。このままでは漂流してしまうわ!」
「ご安心を。安全対策はすでに済んでおります」
私は手元にある、巻き取り式の特殊な釣り竿を見せた。
そこから伸びる極細、かつ強靭なミスリル製のワイヤーが、小舟の船尾に結びつけている。
「これは見えない命綱です。一定の距離まで流されたら、私がこの釣り竿で岸まで巻き上げます。美しさを損なわず、命を守る。これがプロの仕事です」
「さすが、アメリアね! 見事なリスクマネジメントだわ! では、私は万が一の外敵襲来に備えて、湖畔を走り込みながら周辺警備にあたるわ!」
エレノア嬢は深く感動した様子で頷き、マントを翻し、夜の森へと駆け出していった。
外敵とは彼女の筋肉の使い道を『警備』に誘導することで、二人の時間を守ることに成功した。
◇
静寂が戻った桟橋。
私は釣り竿の取手を握りながら、湖面を漂う小舟を見守っていた。
遠く離れた舟の上では、お嬢様が殿下の肩に頭を預け、静かに語り合っているシルエットが見える。
あそこまで離れれば、暴言も甘い囁きにしか聞こえない。
「……完璧な采配だな。さすがだ」
背後から、静かな声がした。
振り返ると、白シャツに身を包んだグレン様が、二つのティーカップを載せたトレイを持って立っていた。
温かいカモミールティーの香りが漂う。
「お疲れ様です、グレン様。胃薬ではなく、お茶ですか?」
「今日は胃が痛む要素がないからな。君の翻訳も、エレノア嬢の撃退も、全て完璧に回っている。私はただ、君にお茶を淹れるだけで済んだ」
私は釣り竿を固定し、カップを受け取る。
「ありがとうございます」
「……昼間の約束、覚えているか?」
グレン様の声が、一段と低くなった。
湖面を吹く風は涼しいはずなのに、なぜか頬が熱くなる。
『無償で時間を作る』という、私自身の口から出た言葉。
「忘れてはいません。現在、私の業務は『小舟の監視』のみ。並行して会話に応じることは可能です」
私がビジネスライクな口調で照れ隠しをすると、グレン様は小さく笑った。
「はは、そうか。では、少しだけ私のわがまま(業務外の相談)を聞いてくれないか?」
彼はマグカップを桟橋の縁に置くと、私の隣に静かに腰を下ろした。
肩と肩が触れ合いそうな距離。
月明かりの下、彼の手がゆっくりと伸びてきて、膝の上に置いた私の左手を、そっと包み込んだ。
「グレン様……」
「アメリア、君はいつもロザリア嬢や殿下のために、完璧なリスク管理と先回りをして国を回しているが……君自身の『老後計画』に、共同スポンサーを迎える気はないか?」
彼の大きな手が、私の冷えた指先を温めるように、優しく、けれど逃がさないように握りしめる。
「君の自由や手綱を奪う気はない。ただ、君が抱える過酷な業務の『絶対的な連帯保証人』になりたいんだ。……その、だから、私の隣で、生涯のパートナー契約を結んでほしい」
王宮のトップエリートとしての打算は一切ない。
一人の男性としての、静かで、極めて実務的で、誠実な告白だった。
心臓が早鐘のように打ち始める。
計算も、論理的な言い訳も、今の私には一つも浮かばない。
「私は可愛げのない女です。金貨の計算ばかりして、老後のことしか考えていません。投資先としては極めてハイリスクですよ?」
「知っている。だからこそ、君という最高の優良物件に、私の生涯賃金を全額投資したいんだ。金貨の計算なら、優秀な官僚である私が、ダブルチェックをしよう。目標額への到達も、二人なら倍の早さになるはずだ」
グレン様が、少しだけ悪戯っぽく微笑む。
「老後資金の計算が倍の早さで終わる」――そのあまりにも魅力的な殺し文句に、私は降伏を悟った。
「本当に、国家公務員というのは交渉がお上手ですね。……その提案、一度持ち帰って検討させていただきます」
私が顔を背けたまま答えると、グレン様は「検討、か。君らしいな」と心底嬉しそうに囁き、「ぜひ前向きに考えてくれ」と、私の手をさらに強く握り直した。
湖面では、月明かりに照らされた小舟が、静かに波に揺られている。
お嬢様と殿下の重苦しくも純粋な恋。
そして、損得勘定ばかりしていた私の小さな契約(恋)の始まり。
翡翠の湖畔の夜は、どこまでも優しく、そして甘く更けていった。




