第三十一話 翡翠の湖畔
王都の喧騒を離れ、馬車に揺られること半日。
私たちは、王家が所有する避暑地『翡翠の湖畔』の離宮へと到着した。
深い森に囲まれた湖は、翡翠のように透き通った緑色に輝いている。
王宮の激務から解放されたクロード殿下の静養を名目に、高位貴族たちが集う、優雅なバカンスの場だ。
けれど、離宮のプライベートビーチに設けられた天蓋付きのテントの下は、真夏の日差しよりも熱く、異様な緊張感に包まれていた。
「お嬢様、その姿で遊泳されるおつもりですか?」
着替えを終えたお嬢様は、私の前で堂々と胸を張っている。
深紅のセパレートタイプの水着。そこまでは良い。デザインも洗練されて、お嬢様の美しい白い肌によく映えている。
問題は、その水着に巻き付くように施された、細くも頑丈そうな『銀の鎖』の装飾と、首元で怪しく光る『南京錠』だった。
「当たり前でしょう。水着なんていう無防備な格好で、他の羽虫(男)どもに、わたくしの肌を安売りするわけにはいかないわ。この物理的な封印(南京錠)を解錠できるのは、世界でクロード様ただ一人よ!」
「万が一水中で溺れた際、救助の妨げになります」
「本望よ! クロード様に人工呼吸してもらうための、命を懸けた罠なんだから!」
お嬢様が、ふんっと鼻を鳴らす。
相変わらず愛情の方向性が『絶対的な束縛』と『苛烈な自己犠牲』に向かっている。
彼女は大真面目だが、このままではただの危険人物だ。
そこへ、砂浜を踏みしめてエレノア嬢が現れた。
「ごきげんよう、ロザリア様。随分と装飾過多で、水の抵抗を受けそうな水着ですわね」
彼女は装飾を排した、漆黒の競泳水着だ。
美しく引き締まった腹筋や大腿筋が強調されている。
「水上において重視すべきは、己の肉体という推進力のみ。そのような鎖をジャラジャラさせていては、有事の際に敵艦へ追いつけませんわよ?」
「泳ぐ気なんてないわ。わたくしはビーチチェアで、クロード様と優雅に愛を語り合うの! アンタこそ色気も何もないわね。水中工作員でも目指してるの?」
「『機能美』と言ってくださる? これぞ至高の海戦仕様ですわ!」
束縛の鎖(お嬢様)と、海戦仕様(エレノア嬢)。
方向性の違う二人の極論が睨み合っていると、遠くから声が聞こえた。
「二人とも、待たせたね」
クロード殿下だ。爽やかな白のシャツを羽織り、軽やかな水着姿で現れた殿下は、まさに絵本から抜け出たような『夏の貴公子』だ。
その後ろには、大きなパラソルやクーラーボックスを抱えた、兵站部隊と化したグレン様。
殿下は二人の令嬢を見て明るい笑みを浮かべたが、お嬢様の『南京錠』と『鎖』に気付いた瞬間、その笑顔がピクリと引きつった。
「ロ、ロザリア、その水着は? また随分と斬新な……鎖が巻き付いているように見えるが……?」
「似合ってるでしょ? クロード様のために、特注で打たせたのよ!」
お嬢様が頬を染めてすり寄る。
殿下は、南京錠の放つ異様な姿に後ずさろうとしたが、王族の矜持でなんとか踏みとどまる。
だが、助けを求めるように日陰に控える私を見た。
出番だ。私は日傘を畳み、静かに殿下の前へと進み出る。
「失礼いたします、殿下。主人の水着に込められた、高度な『情報防衛の誓い』について補足させていただきます」
私の淀みない声に、殿下が縋るような目を向けた。
「この鎖と南京錠は、『我がサザランド家の機密(心身)は、いかなる他国の諜報や甘言にも屈しない』という、強固な防諜体制の表れにございます。未来の王妃として、己の解錠権限は王室(殿下)のみに帰属するという、絶対的な不可侵条約の宣言なのです」
猟奇的なヤンデレ装備が、見事なまでに『王室への絶対忠誠と、完璧な情報漏洩対策』へとすり替えられた。
殿下がハッと息を呑む。
怯えが消え、その瞳に「未来の王妃としての並々ならぬ覚悟」への深い感動の色が広がったようだ。
「そうか……。僕や王室の権威を守るため、そこまでの誓いを立ててくれていたんだな」
殿下は優しく微笑み、お嬢様の鎖にそっと触れる。
「ありがとう、ロザリア。君のその鉄壁の忠誠、しかと受け取ったよ。……だが、水辺では少し重そうだ。溺れないように気をつけてくれ」
「ふん! こんなのちっとも重くないわ! 貴方への愛の重さに比べたら、金属の鎖なんて羽毛みたいなものなんだから!」
お嬢様は照れ隠しで顔を背けたが、耳まで真っ赤に染まっている。
殿下はクスリと笑い、穏やかな空気が流れた。
「殿下! 私と共に、まずは湖畔を遠泳で10キロほど往復いたしませんか!?」
その空気を壊したのは、当然ながらエレノア嬢だった。
「えっ……? 10キロ? それは、少し激しすぎないか……?」
「水上での基礎機動力の向上は急務ですわ! 有事の際、殿下が自力で離脱できる脚力を育てねばなりません! さあ、ご一緒に!」
エレノア嬢が強引に殿下の腕を引き、湖へと連れ去っていく。
お嬢様が「ちょっと! 私のクロード様に何してるのよ!」と鎖をジャラジャラ鳴らしながら追いかけていく。
あっという間に、テントの下には私とグレン様だけが残された。
「……見事な手際だ。君のフォローがなければ、殿下はあの南京錠の重圧に耐えきれず、外交問題に発展していたかもしれない」
グレン様が重いクーラーボックスをドサリと置き、深くため息をついた。
彼もまた、涼しげなリネンのシャツ姿だが、目頭を揉む仕草には、いつもの深い疲労感が漂っている。
「お疲れ様です、グレン様。冷たいレモネードを用意しています」
「助かる。……しかし、君は水着にはならないのか?」
グラスを受け取りながら、グレン様が私の服装を見て尋ねた。
私は、特注の『撥水加工済み・露出度ゼロの夏用メイド服』を着用している。
「私は業務中です。それに、太陽光は肌の大敵です。将来のシミやシワの治療費は、老後資金の無駄遣いに繋がります」
「……徹底しているな。だが、君らしい」
グレン様が喉を鳴らしてグラスを空にする。
そしてテーブルに手をつき、不意に距離を詰めてきた。
「だが、少し残念でもある。君のオフの姿も見てみたかったからな」
低く、少しだけ熱を帯びた声。
テントの陰、誰の目もない空間。
彼の手が、私の手首にそっと触れる。
「……特別手当を積まれても、水着にはなりませんよ。私の肌の露出は、王宮の予算審議よりも高くつきますので」
「金の問題ではないと言っているだろう。私はただ、この美しい湖畔で、君ともっと『普通の会話』がしたいだけだ。有能なメイドと補佐官としてではなく」
グレン様の片眼鏡の奥の瞳が、私を真っ直ぐに捉える。
いつも胃痛に悩むビジネスパートナーが見せた、一人の男としての静かなアプローチ。
私は小さく息を吐き、少しだけ早鐘を打ち始めた胸の鼓動を隠すように、不敵に微笑んでみせた。
「有能な補佐官殿は、休暇中も強欲ですね。業務外の拘束であれば、残業代の割増請求をさせていただきますが」
「望むところだ。私のポケットマネーを全て注ぎ込んででも、君のその防衛線を突破してみせよう」
彼は私の手首をそっと手放し、挑発に応じるように優しく微笑んだ。
避暑地でのバカンスは、始まったばかり。
お嬢様の鎖(愛)と、エレノア嬢の筋肉(忠誠)、そしてグレン様との微かな熱を帯びた、がめつい交渉戦。
私の安らかな老後への道は、この夏も、一筋縄ではいかない波乱に満ちていた。




