第三十話 避暑地の攻防戦
王都でのお忍びデートから数日が経過した。
あの日以来、私の体内時計、あるいは冷静な論理回路に、微かなバグが生じている。
早朝のバルコニー。
私が窓を開けると、すでにグレン様が手すりに寄りかかり、湯気の立つマグカップを手に待っていた。
「……おはよう、アメリア」
「おはようございます、グレン様」
挨拶を交わす。
いつも通りの光景。
けれど、路地裏でのあの密着――彼の腕の強さや、至近距離で見つめられた熱を帯びた瞳を思い出すと、心臓が不規則なリズムを刻む。
私はこれを『有酸素運動の不足による一時的な動悸』と定義づけることにした。
「アメリア、あの時のことだが……」
グレン様が、少し視線を逸らしながら口を開いた。
「その、路地裏で君を驚かせてしまったかもしれない。だが、私の言葉に嘘はない。……君にはいずれ、きちんとした形で応えてほしいと思っている」
「え……?」
私は手元の書類バインダーを胸に抱き寄せ、小さく息を吐いた。
「……承知しております。ですが、今は期末試験と夏季休暇のスケジュール調整が最優先です。私の個人的な『査定』は、すべての業務が完了した後に」
「……君らしいな。だが待つのは嫌いではない」
グレン様が、柔らかく微笑んだ。
胃痛に悩まされる補佐官の顔ではない。
その大人の余裕に、私は逃げるように自室へと戻った。
危ない、時給の交渉すら忘れるところだった。
◇
その日の午後。
お嬢様の自室では、奇妙な光景が広がっていた。
「アメリア、今日のドレスには、これが一番似合うわよね?」
お嬢様が鏡の前で、うっとりと自分の髪を撫でている。
彼女の美しい金髪には、大粒のダイヤモンドでも、希少なサファイアでもなく、市場で銀貨数枚で買える『赤い硝子玉の髪飾り』が挿されていた。
お忍びデートで、クロード殿下から贈られた品だ。
「はい、とてもよくお似合いですが、お嬢様。そろそろ外して磨き直してはいかがです? 三日間、入浴時も睡眠時も着用されたままですが」
「何、言ってるのよ! 外すわけないでしょ! クロード様の指先が触れたのよ!? これはもう、わたくしの体の一部。わたくしが死んだ時は、この硝子玉と一緒に骨壺に入れてちょうだい」
「遺言として承りました」
お嬢様の愛は相変わらず重いが、殿下からのささやかな贈り物により、驚くほど機嫌が良い。
このまま平和な夏を迎えられるかもしれない――そう思った矢先だった。
「ごきげんよう、ロザリア様! 私のお師匠様!」
優雅なノックと共に、エレノア嬢が入室してきた。
彼女の燃えるような赤髪が、部屋の空気をパッと明るくする。
エレノア嬢は手土産のプロテインバーをテーブルに置くと、真剣な顔で私を見る。
「アメリア、貴女、最近顔色が優れませんわよ。心拍数も乱れているように見えます。さては、あのブラック補佐官に過酷な労働を強いられていますのね!?」
「え?」
私は一瞬、言葉に詰まった。
心拍数が乱れているのは過労ではなく、別の要因なのだが、そのことを説明するわけにはいかない。
「ご心配には及びません。少々、夏の暑さに体が慣れていないだけです」
「それは大変だわ!? 夏バテは筋肉の大敵よ! こうなったら、今年の夏季休暇は、我がベルジュ家の領地にある『筋肉保養所』で、私と一緒に合宿をいたしまわよ!」
「ちょっと待ちなさいよ、赤毛の脳筋女!」
お嬢様が、鏡の前から振り返った。
その瞳に、いつもの絶対的な支配者の光が宿る。
「アメリアの夏休みは、わたくしが決めるのよ! 今年の夏は、サザランド家のプライベートビーチにクロード様を招待して、永遠に終わらない軟禁……ではなく、『愛のバカンス』を実行するんだから!」
「軟禁ですって!? 殿下をそのような不健康な目にあわせるわけにはいきませんわ! 太陽の下で、共に汗を流してスクワットをするべきですの!」
二人の火花が散る。
『愛の軟禁』か『筋肉合宿』か。
どちらに転んでも、私の平穏な夏休みは消滅する。
そこへ、開いたままの扉から、静かな声が降ってきた。
「……両方却下だ。殿下の夏季スケジュールは、すでに王宮で決定している」
片眼鏡を光らせたグレン様だ。
手には、王家の紋章が入った封筒が握られている。
「殿下は今年の夏、王家所有の『翡翠の湖畔』にある離宮で、静養と勉学に励まれることになっている」
「「なんですって!?」」
お嬢様とエレノア嬢が同時に声を上げた。
「わたくしの愛のバカンスは!?」
「私の合同トレーニングは!?」
「王家の決定だ。覆ることはない。だが……」
グレン様はわざとらしく言葉を区切り、私の方をチラリと見た。
「殿下から『学友たちと共に過ごしたい』という強いご要望があってな。サザランド公爵令嬢、及びベルジュ侯爵令嬢を、特別に離宮へ招待するとのことだ」
その言葉に、お嬢様の顔がパァッと輝いた。
「クロード様からのお誘い!? ふふん、分かってるじゃない! どうせ、わたくしに会えなくて寂しくなったのね! 仕方ないわ、行ってあげるわ!」
「離宮でのトレーニング! 最高ですわ! 殿下にも大胸筋の素晴らしさを説く絶好の機会ですわね!」
二人の令嬢が歓喜に沸く。
私は静かにグレン様に歩み寄り、小声で尋ねる。
「殿下のご要望というのは建前ですね? お二人が別々に殿下を拉致しようとするのを防ぐための、グレン様の先回りの策ですか?」
「半分正解だ。彼女たちを野放しにするより、目の届く離宮に隔離した方が安全だからな。それに……」
グレン様が、声を一段低くした。
「君とも、少しは静かな場所で過ごせるかと思ってな」
「……職権濫用ですね」
「私の特権だ」
グレン様が微かに笑う。
私はため息をつきながらも、その『職権濫用』が少し嬉しく感じてしまう自分に気付いていた。
「離宮での警備とメイド業務、特別レートでのご請求となりますが、よろしいですね?」
「ああ、私の全財産を君に投資しよう」
甘い言葉を、ビジネスのオブラートに包んで交わす。
これが私たちなりの、不器用な距離の詰め方だった。
「アメリア! 早速、パッキングよ! クロード様を魅了する、とびきり情熱的な水着を用意なさい!」
お嬢様の号令が響く。
どうやら今年の夏は、翡翠の湖畔を舞台に、これまで以上に熱く、そして波乱に満ちたものになりそうだ。
私は日焼け止めと、胃薬の在庫を計算し始めた。
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