第二十九話 お忍びデート
オークションから数日後の晴れた週末。
クロード殿下が金貨三千枚で落札した『優雅なティータイムの権利』は、意外な形で実行されることになった。
「学園のサロンでは人目が多すぎるからね。たまには王都の街を二人で歩いてみないか?」
コトの発端は、殿下の粋な提案だった。
急遽『お忍びでの市街地デート』が決行されることになったのだ。
もちろん、次期国王と公爵令嬢が護衛なしで歩くわけにはいかない。
だが、仰々しい騎士団を引き連れては、お忍びの意味がないため、最小限の護衛として、私とグレン様が変装して尾行することになった。
◇
王都の中心部、賑やかな大通り。
少し離れた場所から、私たちはターゲットの二人を監視していた。
「そのお姿は新鮮ですね、グレン様」
「そういう君こそ、いつもメイド服しか見ていないからな」
私は目立たないようにと、簡素な麻のワンピースにストールを羽織った街娘の装い。
一方のグレン様は、王宮の仕立ての良いスーツではなく、着崩したシャツに革のベスト。
市井の青年のような格好だ。
銀縁の片眼鏡も外し、前髪を下ろしているせいか、いつもの『胃痛持ちの補佐官』とは違う、年相応の精悍な男だ。
「しかし殿下も思い切ったことをされたものだ。ロザリア嬢を市街地に連れ出すなど、爆弾を抱えて人混みを歩くようなものだぞ」
「ご安心ください。出発前に『殿下の前で一度でも暴れりようなことがあれば、今後一ヶ月間の就寝前の読み聞かせ(殿下の観察日記)を打ち切る』と誓約書を書かせてありますから」
私が淡々と答えると、グレン様は小さく息を吐き、視線を前方に向けた。
数メートル先を歩く二人は、魔法で髪の色を変え、平民のカップルを装っている。
だが、隠しきれない気品と美貌のせいで、すれ違う人々が思わず振り返っていた。
殿下は慣れない石畳を歩くお嬢様を気遣い、そっと手を差し出す。
「ロザリア、歩きにくくないか? よければ、手を」
「なっ……!? べ、別に、これくらい平気よ! 誰がアンタの手なんか……!」
お嬢様は顔を真っ赤にして顔を背けた。
いつもの『暴言』が出そうになるが、私の誓約書が効いたのか、必死に抑え込んだ。
お嬢様はギュッとドレスの裾を握りしめ、数秒の葛藤の後、恐る恐る殿下の袖口を指先でちょんと摘んだ。
「……そ、袖くらいなら、掴んであげてもいいわよ。アンタが迷子になったら困るのは、わたくしだから!」
「そうだな、君が一緒なら安心だ」
殿下は優しく微笑み、お嬢様の歩幅に合わせてゆっくりと歩き出す。
お嬢様の袖を摘む手が、少しだけ震えている。
過激な愛の言葉がなくとも、お嬢様が『普通の恋する乙女』の顔をしている。
「なんだ、彼女もやればできるじゃないか」
隣でグレン様が、少しだけ安堵したように呟いた。
私も同感だった。今日の私の仕事は、ただ見守ることだけで済みそうだ。
二人は大通りの露店を見ながら歩く。
銀細工のアクセサリー屋の前で、殿下が足を止める。
「ロザリア、これを見てごらん。君の瞳によく似た色の髪飾りだ」
「は、はあっ!? こ、こんな安物を、わたくしが身につけるわけ――」
お嬢様が言いかけて、ハッとして口をつぐむ。
殿下は気にした様子もなく、赤い硝子玉の髪飾りを手に取った。
「確かに、公爵家の宝飾品には遠く及ばないな。だが、今日の記念に、僕から贈らせてくれないか?」
「え……?」
お嬢様は言葉を失っている。
いつもなら「わたくしの命を削ってでも最高級の宝石を献上しなさい!」と吠えるところだが、今の彼女は、その安っぽい硝子玉を、世界で一番尊いものを見るような目で見つめている。
「……しょ、しょうがないわね。アンタがどうしてもって言うなら、貰ってあげるわ。その代わり、一生外さないんだからね!」
「一生は少し重いが、君が喜んでくれるなら嬉しいよ」
殿下がそっと、お嬢様の髪にその飾りを挿す。
見つめ合う二人。
周囲の喧騒が遠のくような、甘い空気が流れる。
完璧なデートだ。
私は小さく頷き、記録用の手帳に『進捗良好』と書き込もうとした、その時だった。
「ど、どけ! どいてくれえぇぇぇっ!」
前方から荷馬車が制御を失い、猛スピードで大通りを突っ走ってくる。
馬が何かに驚き、暴走しているようだ。
行き交う人々が、悲鳴を上げて左右に逃げ惑う。
殿下とお嬢様は、いち早く異常に気付き、路地の側面に身を避けた。
二人は問題ない。
問題は、少し後方を歩いていた私たちだ。
逃げ惑う人波が、波のように押し寄せてくる。
「くっ、アメリア!」
誰かに強くぶつかり、私の体勢が崩れた。
転倒すれば、この人混みの中では踏み潰される。
覚悟を決めて身を固くした瞬間、強い力で腕を引かれた。
「危ない!」
グレン様だった。
彼は私を抱き寄せるようにして人波を掻き分け、大通りから細い路地裏へと滑り込む。
ドン! と、背中が冷たいレンガの壁に当たる。
私を庇うように、グレン様が両腕を壁につき、私をその身体で覆い隠していた。
いわゆる、至近距離での『壁ドン』……いや、ハグに近い密着状態だ。
暴走する馬車が通り過ぎ、大通りの喧騒が嘘のように、路地裏は静まり返る。
「すまない、怪我はないか? アメリア」
頭上から、少し掠れた声が降ってくる。
顔を上げると、グレン様の顔がすぐ目の前にあった。
普段の整った髪が乱れ、その瞳が心配そうに私を覗き込む。
彼の胸から伝わる速い心音が、布越しに伝わる。
「問題ありません。お助けいただき、ありがとうございます」
私は平静を装って答えた。
だが、自分でも驚くほど、声が微かに震えていた。
近い、彼の体温と微かに香るオーデコロンの匂いが、思考を麻痺させる。
グレン様も、私との距離の近さに気付いたらしい。
けれど、彼はすぐには離れなかった。
それどころか、壁についていた片手をゆっくりと下ろし、私の肩にそっと触れる。
「君が無事でよかった」
「グレン様……?」
「普段は完璧な君だが、こういう時くらいは、私に頼ってくれてもいいんだぞ」
その瞳は、いつもの『有能なビジネスパートナー』に向けるものではない。
一人の女性を慈しむような、ひどく甘く、熱を帯びた眼差しだ。
私の心臓が、トクンと大きく跳ねた。
いつもなら特別手当や見積もりの話で躱すところだが、今はなぜか気の利いた言葉が一つも出てこない。
私たちは路地裏の薄暗がりの中で、互いの呼吸が聞こえるほどの距離で見つめ合っていた。
「アメリア! グレン! どこにいるのよ!?」
大通りの方から、お嬢様の声が響いた。
何かの魔法が解けたように現実に引き戻される。
グレン様はハッと我に返り、パッと身体を離した。
彼もまた、耳の裏まで赤くなっていた。
「……失礼した。ロザリア嬢たちが探している。行くぞ」
「は、はい。すぐに行きましょう」
私は乱れた前髪を直し、逃げるように路地裏を出る。
大通りに戻ると、殿下とお嬢様が無事な姿で立っていた。
お嬢様の髪には、先ほどの硝子玉の髪飾りがキラキラと光っている。
「もう、どこに行ってたのよ! まったく護衛のくせに、わたくしより先に死んだら許さないんだからね!」
「申し訳ございません。少々、人波に呑まれかけまして」
私はいつもの冷静なメイドの顔を取り繕い、深く一礼する。
お忍びデートは、その後も無事に、そして穏やかに終わった。
お嬢様と殿下の距離は、言葉のすれ違いを超えて、確かに縮まっている。
けれど、それと同時に、私とグレン様の間にも、これまでの『ビジネス』という境界線を越える、名前のない感情が芽生え始めていた。
私の平穏な老後計画に、新たな、そして甘い誤算が生じつつあることを、私は認めたくなかった。




