第二十七話 二年目の春
桜が散り、王立淑女アカデミーに新緑の季節が訪れた。
お嬢様も無事に進級し、晴れて2年生だ。
新入生たちが入学してきたことで、お嬢様は先輩としての威厳を示すことに余念がない。
「いいこと? 廊下ですれ違う時は、わたくしの影を踏まないよう三歩下がって歩くのがマナーよ」
新入生たちが青ざめる中、私はすかさず背後に控え、小声で補足する。
「『皆様の歩む道に、わたくしの影が落ちて暗くならないよう配慮しておりますの』という、先輩からの温かい気遣いです」
新入生たちが「なんて慈悲深い方なのでしょう……!」と感動して頭を下げる。
相変わらずの日常が続きそうだ。
だが、変化がないわけではない。
今や、私のビジネスパートナーであるグレン様が、新年度早々、妙に焦りを見せていたのだ。
◇
放課後。
私は王宮から学園内に移設された、グレン様の執務室で書類の仕分け作業をしていた。
彼は殿下の補佐官として、学園行事の裏方や、新入生の実家である各貴族派閥との調整など、実質的な学園の管理業務を担っている。
本来なら私の管轄外なのだが、胃を痛めた彼から泣きつかれ、特別時給と引き換えに仕方なく副業として手伝っているのだ。
もちろん、お嬢様には内緒である。
「……見事だ、アメリア。君の処理速度は王宮の書記官の3倍は早い」
「お褒めにあずかり光栄です。それで、時給のベースアップの件ですが」
「そのことだ」
グレン様がペンを置き、両手を机の上で組んだ。
片眼鏡の奥の瞳が、いつになく真剣な光を帯びている。
「アメリア、今年度は王室補佐室として、君に『優先的な業務提携』を要請したい」
「優先ですか? 私はすでに、お嬢様の専属メイドです」
「ああ、分かっている。だが、1年の時に君が暗躍……いや、有能すぎたせいで、君の価値に気付き始めた貴族たちがいる。君の空き時間を他家の雑務に奪われる前に、私の補佐として最優先で動いてほしい。君がいないと、私の胃と、学園の平和が保たないんだ……」
なるほど、私の市場価値が上がりすぎた弊害か。
グレン様は一枚の羊皮紙を滑らせてきた。
「報酬は今の1.5倍出す。金だけじゃない。私は、君という得難い人材を誰にも渡したくないんだ。もっと私の近くで支えてくれないか?」
グレン様が身を乗り出し、書類に添えられた私の手に、そっと自分の手を重ねてきた。
温かい手だ。
けれど、これは単なるビジネスの勧誘だろう。
その時、コン、コンと静かなノックの音が、密室の空気を断ち切った。
「チッ……入れ」
グレン様が舌打ちを堪えながら応じると、扉がゆっくりと開く。
立っていたのは、一切の隙がない姿勢のエレノア嬢だ。
「失礼いたします。やはり、こちらでしたのね」
彼女は音もなく入室すると、私の手に重ねられたグレン様の手を、冷ややかな目で見下ろした。
「補佐官殿、アメリアの筋肉が緊張しておりますわ。不必要な接触はお控えになってくださる?」
「……エレノア嬢、今は重要な商談中だ」
「商談? いいえ、私には権力に物を言わせた、悪質な囲い込みに見えましてよ?」
エレノア嬢の声は静かだが、その言葉には怒りが隠されている。
彼女は私の肩にそっと手を置いた。
「アメリア、もし彼が不当な要求を押し付けるなら、私がベルジュ家の全権をもって貴女を保護しますわ。彼がどれほどの権力を提示しようと、私が必ず貴女の健やかな日常と筋肉を守ってみせますわ! そして、我が家の最新鋭のトレーニング施設で共に汗を流しましょう!」
見当違いの庇護欲を燃やしたエレノア嬢が、私を庇うように立った。
グレン様も椅子から立ち上がり、エレノア嬢を真っ向から見据える。
「彼女の知力と交渉術は、国家運営に必要なものだ。筋肉の増強に費やすなど、国家の損失でしかない」
「知力は健全なる肉体にこそ宿りますの。胃薬を手放せない貴方に、アメリアの未来を預けることこそ損失ですわ!」
静かな部屋で、二人の視線が火花を散らす。
物理的な暴力はないが、言葉による高度な殴り合いが展開されている。
なお、当事者である私の意思確認は省略されている。
私が密かにため息をついたその時、開いたままの扉の隙間から、凍りつくような冷気が流れ込んできた。
「どいつもこいつも、わたくしのメイドを前に随分と強気な商談をしてるじゃない!」
「あっ……」と、グレン様が息を呑んだ。
扇子をゆっくりと弄りながら、ロザリアお嬢様が姿を現した。
その瞳は、絶対的な所有者の冷酷な眼差しだった。
「アメリアが迎えに来ないから、嫌な予感がしたのよ。正解だったみたいね……」
お嬢様は歩み寄り、エレノア嬢の手を私の肩から払いのけた。
そして、私と二人の間に立ち塞がる。
「いいこと、よく聞きなさい! アメリアはわたくしのものよ! わたくしの髪を梳かし、わたくしの手紙を検閲し、わたくしの愛をクロード様に届ける、私の『半身』よ!」
お嬢様が扇子で、グレン様とエレノア嬢を交互に指差す。
「王室の権力だろうと、ベルジュ家の武力だろうと、アメリアは譲らないわ。もし引き抜こうとするなら、サザランド家の全権限をもって、貴方たちの日常を粉砕してやるわ!」
本気の脅迫だった。
執務室の空気が、これ以上ないほど重く張り詰める。
三人の視線が交錯し、一触即発の事態。
私の市場価値が高まるのは嬉しいが、これでは私の老後が来る前に、彼らが共倒れになりかねない。
私は小さく息を吐き、静かに、けれど冷徹な声で宣言する。
「皆様、私の所有権と運用方法について、これ以上の無益な口論は時間の浪費です」
私の有無を言わせぬ声に、三人の動きがピタリと止まる。
「まず、グレン様。優先提携はお断りします。私はサザランド家のメイドであり、他家の雑務を優先する義理はありません。ただし、提示された『報酬1.5倍』の契約更新だけはありがたく受理いたします。今後も私の空き時間の範囲内で、極めて事務的に処理させていただきます」
「……アメリア」
グレン様の表情が、絶望から微かな安堵へと変わる。
独占はできなくとも、細い糸は繋いでおく。
これが、ビジネスだ。
「次に、エレノア様。ご提案は感謝いたしますが、私の筋肉は実務レベルですでに完成されております。それよりも、目の前にいる重度の運動不足に陥った国家の中枢であられせられる、グレン様の肉体改善を、我がサザランド家からベルジュ家へ外注したいのですが、いかがです?」
「……彼を? なるほど、脆弱な土台を叩き直すという、高難度のプロジェクトですわね」
エレノア嬢が、ハッとした顔でグレン様を見る。
「確かに、鍛え甲斐がありそうですわ……」
エレノア嬢が素材を見定めた瞳でうっとりしている。
「なっ……!?」と、グレン様が顔を引きつらせた。
「最後に、お嬢様」
「な、何よ? わたくしは絶対にアンタを渡さないわよ」
「存じております。私は、お嬢様の専属メイドです」
毎朝ゴミ箱から拾い上げる、あの泣きながらガッツポーズをするうさぎのポエム。不器用で真っ直ぐな主人の姿を知っているからこそ、私はこの専属メイドを辞められないのだ。
……とはいえ、ポエムだけでは引き下がれないものもある。
「他所からこれほどの好条件が提示された以上、私の『市場価値』は現在高騰しております。他家からの引き抜きを防ぎたいのであれば、サザランド家も相応の『専属拘束料』、つまりベースアップをご用意いただくのが資本主義の原則かと」
お嬢様が、ハッと息を呑んだ。
「くっ……!? 鬼神! 魔王! アメリア! 分かったわよ! お父様に言って給料を倍にしてあげるわ! これなら文句ないでしょ!」
「交渉成立です。引き続き、命に代えてもお嬢様をお守りいたします」
私は即座に完璧なカーテシーをして微笑んだ。
密かな主従の愛を胸に秘めつつも、力や感情に頼らず、利益と論理で場を制圧する。
これが私の稼ぎ方……ではなく、戦い方だ。
「さて、本日の業務はここまでとさせていただきます」
私が淡々と宣言すると、三人は圧倒された様子で、うなだれるように頷いた。
◇
帰り道。
廊下を歩く私の隣に、グレン様が並んだ。
「……鮮やかな手際だったな。君は本当に、私の手の届かないところへ行ってしまいそうだ」
グレン様が自嘲気味に笑う。
その横顔は、いつもの胃痛に悩む補佐官ではなく、一人の大人の男だった。
「残業代の見積もり次第です」
「君のその拝金主義には、時々救われるよ」
2年生の春。
私の周囲は相変わらず騒がしく、そして少しだけ熱を帯びている。
水面下の静かな攻防戦は、まだまだ終わらないようだ。




