第二十五話 二度目のワルツ
夜。学園の大ホールは、シャンデリアの煌めきと、着飾った生徒たちの熱気に満ちていた。
楽団が奏でる優雅な調べ。グラスの触れ合う音。
これぞ貴族の社交界。けれど私にとって、ここは主人の評価を決定づける『最終試験会場』なのだ。
壁際で待機する私の視線の先には、今宵の主役――ロザリアお嬢様が立っている。
黄金の髪を夜会巻きに結い上げ、鮮血のような深紅のドレスを纏ったその姿は、息を呑むほどに美しい。
だが、扇子を構えて佇む彼女の周囲数メートルには、誰も近寄ろうとしなかった。
静かすぎるのだ。
彼女から放たれる、獲物を待つような重いオーラが、周囲の空気を凍らせている。
「緊張しているな」
隣に、給仕に扮したグレン様が音もなく並んだ。
「はい、久々の再会ですから。ですが、今のところは淑女の皮を被れています」
「殿下も覚悟を決めて来られた。もはや信じるしかない……」
重厚な扉が開かれると同時に、儀典長の声が響き渡る。
「アルトリア王国第一王子、クロード・フォン・アルトリア殿下のご入場です!」
静まり返る会場。
現れたのは、白の礼服を着こなしたクロード殿下。
その表情は穏やかだが、視線はどこか強張っており、群衆の中から『深紅のドレス』を探しているのが分かった。
怯えはあるが、逃げるつもりはないという王族としての矜持が見える。
殿下が階段を降り、お嬢様の姿を認めると、ゆっくりと、だが真っ直ぐに歩み寄って来る。
お嬢様も動く。
走るような真似はしない。
マナー講師に叩き込まれた、水面を滑るような歩法で、殿下の正面へと進み出ると、優雅にカーテシーを行った。
「お久しぶりでございます、殿下」
静かな、けれど、ひどく冷たい声。
殿下は小さく息を呑み、柔らかな笑みを浮かべようと努める。
「ロザリア、君も元気そうで何よりだ。今日の君は、まるで燃えるような――」
「よくも、のこのこと顔を出せましたわね」
「え……?」
殿下の賛辞を、お嬢様が氷点下の声で遮った。
扇子がパチリと閉じられる。
「私がこの学園で、どれほど呪詛を……いえ、祈りを捧げていたか。貴方様は王宮で、さぞ他の女狐たちと楽しくお茶会をしていたのでしょうね? その青い瞳、今すぐえぐり出して私の宝石箱にしまって差し上げましょうか? そうすれば、もう誰のことも見なくて済みますわよ」
開口一番の、静かなる傷害予告。
周囲で聞き耳を立てていた令嬢たちが、顔面蒼白になって後ずさる。
殿下の顔からも、スッと血の気が引いていくのが見て取れる。
「え、えぐり出す……!? 誤解だ、ロザリア。僕はただ公務に追われてだな……」
空気が凍りつく。
私は手に持っていたトレイを近くのテーブルに置き、音もなく二人の斜め後ろに進み出る。
「失礼いたします、殿下」
私が完璧なカーテシーをすると、殿下は助け舟を見たように、私に視線を向けた。
「ア、アメリア、彼女は今、僕の目をえぐると言ったような気がするが?」
「少々、主人の言葉選びが詩的すぎたようです。主人は、『殿下の瞳があまりに美しく、宝石のように輝いているため、永遠に自分だけを見つめていてほしいという独占欲に駆られてしまう』という、切実な恋心を表現されたのです」
「な、なるほど……」
「はい、それに『お会いできない時間が長すぎて、不安で心が張り裂けそうです。どうか私だけを見てください』という、乙女の可愛らしい我儘でもございます」
殿下が瞬きをした。
強張っていた肩の力が抜け、小さく息を吐き出す。
殿下はこの私の翻訳を待っていたのだ。
額面通りに受け取れば、猟奇的な言葉も一枚のフィルターを通せば、ただの不器用な愛情表現に変わる。
「そ、そうだな。驚かさないでくれよ、ロザリア。君の愛情表現は、相変わらず情熱的で、少し心臓に悪い」
殿下が苦笑しながら言うと、お嬢様は「なっ……!?」と、顔を真っ赤にして扇子で口元を隠した。
「うるさいわね! 誰がアンタのことなんて……!」
「アメリア、これは?」
「『図星を突かれて恥ずかしいです』です」
「ははは、可愛いところがあるじゃないか」
殿下が愛おしそうに笑う。
お嬢様は「むきーっ!」と睨みつけたが、その瞳に殺意はなく、ただの照れ隠しだと、今の殿下には分かっているようだった。
「手紙を読んでいたよ。君が学園で、僕のために色々と努力してくれていることもね」
「ほ、本当……?」
「ああ、特にあの手作りの『呪いの藁人形』には驚いたが、君が僕の身代わりとして徹夜で作ってくれたと聞いて、胸が熱くなった」
殿下が真摯な目でお嬢様を見つめる。
私が捏造した『解説書』を、殿下はしっかりと読み込み、理解しようと努めてくれていたようだ。
「そ、そう……。それなら肌身離さず持っていなさいよ。もし失くしたら、今度は本物を呪うから」
「気を付けるとしよう。……さて、ロザリア。せっかくの舞踏会だ。また僕と踊ってくれるか?」
ダンスの申し込み。
お嬢様の目が泳いだ。
前回のダンス、互いの足を踏み合う不器用なワルツの記憶が蘇ったのだろう。
「……アンタ、前に私がどれだけ足を踏んだか忘れたの? 今度は足の指が粉砕されても知らないわよ」
「覚悟の上だ。それに、君は『将軍』の突撃にも耐える特訓をしたと聞いている。君の成長したステップを、僕にリードさせてくれないか?」
殿下が優しく微笑みながら、手を差し出した。
お嬢様は唇を強く噛み締め、震える手で、その手を取る。
「後悔しても知らないですわよ。本当に踏み潰してあげるんだから!」
「お手柔らかに頼むよ」
二人がホールの中央へ進み出る。
音楽が始まると、お嬢様が踏み込んだ。
前回のような怯えから来る、ぎこちないステップではない。鋭く、しかし相手の動きをしっかりと見据えたステップ。
殿下がそれを受け止め、優しく回転へとリードする。
今回は、私が間に入る必要はなさそうだ。
不器用な二人の間に、すでに『対話』は成立していた。
「ロザリア、僕の足を踏まないのではないのか?」
「う、うるさい! 今、タイミングを狙ってるのところよ!」
ホールの中央で、軽口が交わされている。
深紅のドレスが円を描き、白い礼服がそれを支える。
端から見れば、息の合った情熱的なワルツ。
お嬢様のヒールは、殿下の靴をミリ単位で避けていた。
「ふぅ……上手くいったな……」
隣で、グレン様が深いため息をついた。
「はい、殿下は主人の『暴言』の裏にある真意を読み取る術を身につけ、主人は殿下を傷つけないように、無意識に手加減を覚えました。奇跡的なバランスです」
「これを愛と呼ぶには、少々カロリーが高すぎる気がするがな。……だが、見ていて悪い気はしない」
私たちは顔を見合わせ、小さく笑った。
曲が終わる。
お嬢様は一度も殿下の足を踏むことなく、最後のポーズを決めた。
会場から割れんばかりの拍手が起こる。
お嬢様は肩で息をしながら、真っ赤な顔で殿下を睨みつけた。
「ふん、今日はこれくらいにしといてあげるわ! 命拾いしたわね!」
「ああ、ありがとう。最高のダンスだったよ、ロザリア」
殿下が自然な動作で、お嬢様の手の甲に口付けを落とす。
お嬢様の顔から、プシューッと湯気が出るのが見える。
そのまま糸が切れたように後ろに倒れかけるお嬢様を、殿下が抱き留めた。
私は懐中時計を確認する。
完璧なタイムスケジュール。そして完璧な成果だ。
私は壁際で密かにグラスを掲げ、心の中で祝杯を上げた。
不器用な二人の恋路は、周囲の胃を削りながらも、確実に前へと進んでいた。




