第十八話 愛の賛歌
翌朝。
定例のバルコニー会議。
グレン様は、昨日の『毒チョコ事件』のダメージが残っているのか、顔色が蒼白になっていた。
「……お、おはよう、アメリア」
「おはようございます、グレン様。本日は一層、顔色が悪いですね。まるで三途の川から生還した亡者のようです」
「誰のせいだ。昨夜は悪夢を見た。紫色のスライムに追いかけ回され、捕食される夢だ」
深刻なトラウマになっている。
私は同情しつつ、懐から小さな小瓶を取り出す。
「お見舞い申し上げます。本日の商品は『最高級の耳栓』です」
「……なぜ、耳栓なのだ?」
「今日の午後は『音楽』の授業です。お嬢様は『愛のセレナーデ』を歌うと張り切っておられます」
「言い値で買わせてもらおう」
グレン様が即座に財布を取り出した。
賢明な判断だ。お嬢様の声量は、時に物理攻撃力を持つ。
私は金貨を受け取り、耳栓を手渡した。
「装着をお忘れなく。鼓膜が破れても、労災はおりませんので」
◇
午後。音楽室。
グランドピアノが置かれた優雅な教室に、令嬢たちが集まっている。
本日の課題は『独唱』。
テーマは『愛の賛歌』。
講師のマダム・カノンは、元王宮歌手という経歴を持つ、芸術に厳しい女性だ。
彼女はうっとりと目を閉じ、指揮棒を振る。
「さあ、皆様。喉ではなく心で歌うのです。愛の喜び、切なさ、そして情熱を旋律に乗せて届けなさい」
最初に指名されたのは、やはり優等生のエレノア嬢。
彼女はピアノの前に立つと、清らかなソプラノボイスで歌い上げる。
「『ああ、愛しき人よ〜♪ 貴方は私の太陽〜♪ ――」
完璧だ、音程もリズムも教科書通り。
まるで小鳥のさえずりのような歌声に、マダムも満足げに頷いた。
「ブラボー! 清涼感あふれる美しい高音でした。心が洗われるようです。90点!」
「ありがとうございますわ!」
エレノア嬢が優雅にカーテシーを行い、チラリと私を見る。
そして、なぜか小さくガッツポーズをした。
どうやら「腹筋を使って発声したわ!」というアピールらしい。
方向性は間違えているが、結果が出ているなら良しとしよう。
「次、ロザリア・フォン・サザランド様」
「はい!」
お嬢様が元気よく立ち上がる。
その瞬間、教室の空気が変わった。
お嬢様はゆっくりとピアノの前に立ち、大きく息を吸い込む。
「聴いてください。私の魂の叫び。タイトルは『地獄の底まで逃さない・愛のレクイエム』よ!」
「……タイトルが不穏ですが、まあ、始めなさい」
マダムが許可を出した瞬間。
お嬢様が口を開いた。
結論、歌ではない。
野生の獣か、あるいは断末魔の叫びの咆哮。
ピアノの伴奏など無視した呪いのシャウトが、音楽室を揺らした。
「目玉をくり抜いて、私のホルマリン漬けにしてやるぅぅぅ!」
ビリビリと窓ガラスにヒビが入る。
シャンデリアが激しく揺れ、マダム・カノンが白目を剥いて指揮棒を落とした。
令嬢たちが耳を塞いで悲鳴を上げるが、それすらも「愛の咆哮」にかき消される。
教室の後方で、グレン様が耳栓の上から、さらに手で耳を塞ぎ、苦痛に顔を歪めた。
防御貫通攻撃だが、お嬢様は陶酔しきっている。
耳鳴りだけが残る世界。
お嬢様は肩で息をしながら、満足げに振り返った。
「ふぅ……全力を出し切ったわ」
「ロ、ロザリア様、これは音楽への冒涜です! 騒音……いや、破壊音波とも言えます! 0点です!」
お嬢様が眉を吊り上げる。
「なんですって!? 私の魂の叫びが騒音と言うの!? アンタの耳が腐ってるだけなんじゃないの!?」
またも退学フラグが立った。
私はすかさず、マダムの前に進み出る。
「お待ちください、マダム。これは『歌』ではありません」
「歌ではない……? では、今のは何なのですか!」
「これは古代の儀式、『共鳴』と謳われるものです」
私は真顔で言い切る。
「主人は愛する殿下への想いが強すぎるあまり、言語という枠を超越し、魂の振動を直接空気にぶつけたのです。つまり、生命の根源的なエネルギーの放出。現代音楽における『前衛芸術』の極致でございます」
「ぜ、前衛芸術……? しかし、ガラスが割れましたが……」
「それこそが証拠です。物理的な破壊をもたらすほどのエネルギー。これほど力強い愛の波動を、かつて聴いたことがございますか? 凡庸な歌声では、グラス一つ揺らせません」
私は割れた窓ガラスを指差し、熱弁を振るう。
「マダム・カノン様、貴女様ならお分かりのはず。音楽とは時に破壊であり、再生であると! 主人は既存の音楽という概念を破壊し、新たな地平を切り拓いたのです!」
無理がある。
自分でも何を言っているのか、よく分からない。
けれど、マダムは芸術家特有の『それっぽい言葉』に弱かった。
「破壊と再生……。既存の枠組みを超えるエネルギー……。そう言われてみれば、私の魂も揺さぶられたような……?」
揺さぶられたのは鼓膜だけだが、ここで意外な援護射撃が入った。
「素晴らしいわ!」
声を上げたのは、エレノア嬢だった。
彼女は頬を紅潮させ、興奮気味にお嬢様を見つめる。
「今の叫び……私の腹筋のインナーマッスルにまで響きましたわ! これぞ、音圧! 軟弱な歌声にはない、圧倒的なパワーを感じましたわ!」
エレノア嬢の中では、『パワー=正義』の方程式が成立しているらしい。
筋肉信仰、恐るべし。
「そ、そう……? エレノア様がそう仰るなら……」
マダム・カノンが絆される。
生徒たちも「インナーマッスルに効くの?」「ダイエットになるかも」と、謎の納得をし始めた。
「評価は独創性と音圧を考慮して、Bプラスとします。ただし、次回からは屋外でやってください。校舎が崩壊します」
◇
放課後。
私は保健室のベッドでぐったりしているグレン様の元を訪れた。
彼は耳栓を外しても、まだ耳鳴りが止まないらしい。
「……アメリア。君の主人は兵器か?」
「いいえ、歌姫です。ただし物理的な力を伴いますが」
「あれが噂に聞く歌姫? しかし、ガラスが割れたぞ。修理費はどうするんだ?」
「お嬢様の『お小遣い』から天引きしておきます。それより、次は美術の授業ですので、彫刻刀を使います」
「防刃ベストを用意しておこう」
「それが賢明です」
グレン様が遠い目をした。
その横顔には、歴戦の兵士のような哀愁が漂っている。
私は窓の外を見る。
中庭では、お嬢様が「もっと大きな声を出せば、王都のクロード様まで届くかしら!」と発声練習をしようとし、エレノア嬢が「腹式呼吸が基本ですわ! まずはスクワットから!」と指導している姿が見えた。
方向性は依然と間違えているが、仲良きことは美しきかなである。
私はそっと耳栓をして、午後のティータイムへと向かった。
平和な時間は、長くは続かないのだから。




