第十五話 奇妙な悪友
王立淑女アカデミー、第一馬場。
雲ひとつない青空の下、乗馬服に身を包んだ令嬢たちが、優雅に愛馬の手綱を握っている。
乗馬は貴族の必須教養。
背筋を伸ばし、涼しい顔で馬を操る姿こそが『美』とされる。
だが、その優雅な空間で、一人だけ眉間に深い皺を刻んでいる令嬢がいた。
「動かないわ……」
ロザリアお嬢様である。
彼女が跨っているのは、学園が保有する馬の中でも最も高齢で、温厚な栗毛の老馬だ。
グレン卿との裏取引で、落馬のリスクがなく、かつ絶対に暴走しない馬として割り当てられた安全第一の相棒である。
「アメリア、どうなっているの? 拍車を当てても、私の愛の鞭を振るっても、この子は草を食べるのを止めないのだけれど」
「お嬢様、この老馬は平和主義者なのです。それに本日の課題は『優雅な常歩』です。ギャロップで疾走する必要はありません」
私が馬丁として手綱を引きながら諭すが、お嬢様の不満は収まらない。
それもそのはず、馬場の中央では純白のサラブレッドに跨ったエレノア嬢が、見事な障害飛越を披露していたからだ。
美しく弧を描いて舞う白馬と、涼やかな笑顔のエレノア嬢。
着地と同時に、周囲の令嬢から感嘆の声が上がる。
「素晴らしいです、エレノア様!」
「まるで女神のようですわ!」
その称賛の嵐が、お嬢様の対抗心に火をつけることになる。
「ぐぬぬ……見てらっしゃい! 私だって、サザランド公爵家の娘よ! あの程度の障害、この子と心を通わせれば楽勝よ!」
「お嬢様、無茶です。この馬は障害を見ると『避ける』ように調教されています」
「クロード様が見ているかもしれないもの! そんなの、やってみないと分からないわ!」
お嬢様の手綱さばきが、焦りから乱暴になる。
手綱を強く引きながら、同時に腹を蹴るという矛盾した合図を送ってしまう。
ヒヒンッと温厚な老馬が、不快感に嘶いた。
老馬とはいえ、腐っても元軍馬。
理不尽な命令にはプライドが反応する。
老馬が首を振り、私の手から手綱が離れた瞬間、唐突に走り出した。
「きゃあっ!?」
「お嬢様!」
制御不能。
だが、それは優雅な駆け足ではない。驚いてパニックになった馬の暴走だ。
お嬢様は鞍の上で体勢を崩し、必死にしがみつく。
「止まって! 止まりなさいよ! バカ馬ぁぁぁ!」
叫び声が逆効果となり、老馬はさらに加速する。
さらに最悪なことに、進路上には演技を終えて、軽く流していたエレノア嬢がいた。
「えっ……? ちょっと、ロザリア様!?」
「どいて! 止まれないのよぉぉぉ!」
衝突する。
エレノア嬢の白馬が、迫りくる老馬に驚いて竿立ちになる。
不意を突かれたエレノア嬢の体が、ふわりと宙に投げ出された。
「きゃあぁぁぁっ!」
高さ2メートル強。
地面は整備されているとはいえ、硬い土。
受け身を取れなければ骨折、最悪の場合はいのちに関わる。
――業務発生:対象の救助、及び公爵家の過失相殺。
私は思考するより早く、地面を蹴っていた。
スカートの裾を翻し、素早く落下地点へと滑り込む。
エレノア嬢の体が地面に叩きつけられる寸前、私はその華奢な体を受け止めた。
腕の中には、目をパチクリとさせているエレノア嬢。
「……え? 私、どうなったのかしら……?」
「お怪我はありませんか、エレノア様」
私が涼しい顔で微笑むと、エレノア嬢は蒼白だった顔を一瞬で赤らめ、私を見上げた。
「あ、貴女は……ロザリア様の……」
「主人の管理不足により、危険な目に遭わせてしまい申し訳ございません。治療費と慰謝料については、サザランド家が全額負担いたします」
事務的に告げる私。
その背後で、ドサッという重い音が響いた。
見れば少し離れた草むらに、お嬢様が見事な放物線を描いて落下していた。泥まみれになりながらも、なんとか受け身は取ったようだ。
「痛たたた……」
「ロザリア様!」
エレノア嬢が私の腕から飛び出し、お嬢様の元へ駆け寄る。
当然、怒られるだろう。
私が謝罪の言葉と示談金を用意しようとした時、エレノア嬢はお嬢様の肩を掴んで揺さぶりながら大声を上げる。
「貴女、馬鹿ですの!? あんな老馬で無茶をして! 死ぬところでしたわよ!?」
「……う、うるさいわね! 貴女に怪我はなかったから別に構わないでしょう!?」
お嬢様は泥だらけの顔で、精一杯の虚勢を張って睨み返した。
だが、その言葉とは裏腹に自身の怪我よりも、エレノア嬢を巻き込んだ恐怖に声が震えている。
エレノア嬢はその表情を見て、ふっと力を抜いた。
「……ええ、無傷ですわ。貴女の優秀すぎる従者のおかげでね」
「ふん……アメリアなら当然よ。私の自慢のメイドなんだから」
「よく言いますわ。飼い主の管理もできないくせに」
エレノア嬢は懐からハンカチを取り出し、乱暴にお嬢様の顔の泥を拭った。
「……少しは見直しましたわ。自分の身を投げ出してまで、私に『どけ』と警告したその度胸だけは」
「はあ!? あれは、ただの悲鳴よ!」
「ふふ、そういうことにしておいて差し上げます」
エレノア嬢が笑った。
嘲笑ではない。呆れを含んではいるが、温かみのある苦笑だ。
どうやら、昨日の『毒味』と今日の『激突未遂』を経て、奇妙な悪友のような空気が生まれつつあるらしい。
遠くから、グレン卿が胃を押さえながら走ってくるのが見える。
また始末書が増えた、という顔だ。
私は懐中時計を確認し、静かに息を吐く。
お嬢様の『悪名』が、また一つ『騒動』と共に上書きされた。
だが、エレノア嬢の好感度が上がったのなら、トータルでは黒字と言えるだろう。
私は泥だらけの主人の元へ歩み寄る。
まずはこの泥まみれのドレスのクリーニング代を、来月のお小遣いから天引きする通告をしなければならない。




