第十三話 愛アレルギー
早朝のバルコニー。
いつもの定例会議の時間だ。
だが、今朝のグレン様の顔色は、ここ数日で最も悪い。
「もう帰りたい……」
開口一番、王国の重要人物の息子とは思えない弱音を吐いた。
片眼鏡がずれている。
どうやら徹夜明けらしい。
「お疲れのようですね。昨夜のお嬢様の『交換日記』の検閲業務が原因ですか?」
「それもあるが、午後の授業のことを考えると、胃が裏返りそうだ」
本日のメインイベント『ダンス』の授業だ。
私は手すりに身を乗り出し、小声で囁く。
「手はず通り、お願いできますね?」
「……本気か? 私がロザリア嬢のパートナーを務めるなど自殺行為だぞ」
「他に選択肢はありません。お嬢様は『殿下以外の男性に触れられたら、その腕をへし折る』と公言しています。腕を折られても公務に支障が出ないのは、この学園では貴方様だけです」
グレン様が頭を抱えた。
私は懐から一枚の請求書を取り出す。
「これは『特別危険手当』の見積書です。ダンス中に発生した打撲、骨折、精神的苦痛に対する慰謝料を含んでおります」
「……君は本当にブレないな」
「私の老後の安泰のためですので」
グレン様は諦めたように笑い、懐からサインペンを取り出し、請求書にサラサラと署名する。
「承認する。その代わり、私の足が動かなくなったら、君が責任を持って王宮まで運んでくれ」
「善処します。その時は台車でお運びします」
商談成立。
私たちは無言で頷き合い、それぞれの戦場へと戻った。
◇
午後。ダンスホールは優雅なワルツの調べに包まれていた。
シャンデリアの下、色とりどりのドレスを着た令嬢たちが、外部から招かれた若手の騎士たちとペアを組んで踊っている。
だが、フロアの隅だけが空気が淀んでいた。
「嫌よ! 近寄らないで! この発情したチンパンジー!」
お嬢様が、パートナー役の騎士見習いの青年を扇子で威嚇している。
青年は困惑し、助けを求めるように周囲を見回す。
講師のマダム・ヴァルスが、眉間に皺を寄せて歩み寄ってきた。
「ロザリア様、何事ですか!? パートナーへの礼儀を欠くなど言語道断ですよ!」
「この男が私の腰に手を回そうとしたのよ! セクハラよ! 死刑にしてちょうだい!」
「ダンスなのだから当たり前でしょう!」
マダムの怒号が響く。
退学のサイレンが、またも聞こえる。
私はすかさず滑り込む。
「失礼いたします、マダム。少々誤解があるようです」
「……誤解? どう聞いても暴言でしょう!」
「いいえ、主人は『殿下への操を立てるあまり、異性との接触に過敏になっており、殿下以外の男性に触れられると蕁麻疹が出る体質なのです』と申しております」
「……そ、そのような体質があるのですか?」
「はい。『愛アレルギー』の一種です」
私が真顔で言い切ると、マダムは「まあ、なんと不憫な……」と毒気を抜かれた。
けれど問題は解決していない。
「しかしながら、ペアを組まなければ採点ができません」
その時、扉が開かれ、コツ、コツと硬質な足音が響いた。
「私が相手を務めよう」
現れたのは、燕尾服を完璧に着こなしたグレン様だ。
その凛々しい姿に、令嬢たちが「きゃあ!」「グレン様よ!」と色めき立つ。
だが、彼が向かったのは、フロアの隅で威嚇している、お嬢様の元だった。
「ロザリア嬢、殿下の代理として、私が相手を務める。これなら文句はないだろう?」
「ク、クロード様の代理?」
「ああ、殿下から『君のダンスの腕前を見てきてほしい』と頼まれている」
「本当!? クロード様が見ているのね!?」
お嬢様の瞳が輝く。
やはり、ちょろい。
お嬢様は「仕方ないわね、練習台にしてあげるわ!」とグレン様に手を差し出す。
音楽が始まり、優雅な曲調に合わせて二人が動き出す……はずだった。
「痛っ!?」
「あら、ごめんなさい。足があったから踏んでしまったわ」
「……わざとだろう? リードが強すぎる。私が回すんだ、君が私を振り回してどうする」
「うるさいわね! 主導権は私が握るのよ!」
優雅なワルツに合わせて、鈍い音が響く。
お嬢様のステップは、ダンスというより『格闘技の足技』に近い。
グレン様の顔色がみるみる青ざめていく。
このままでは、私の『慰謝料請求』が現実のものとなり、彼が再起不能になってしまう。
見かねたエレノア嬢が、扇子で口元を隠して嘲笑する。
「あらあら、あれがダンスですって? サザランド家には『優雅さ』という言葉が存在しないのかしら」
周囲からクスクスと笑い声が漏れる。
お嬢様の顔が真っ赤になり、恥ずかしさと怒りで涙目になってきた。
このままでは暴発する。
私はグレン様と視線を交わす。
彼は痛みに耐えながら、わずかに頷く。
『手本を見せろ』という合図だ。
「失礼いたします」
私はお嬢様の元へ歩み寄り、一礼する。
「お嬢様、少々休憩を。靴紐が緩んでおります」
「えっ? あ、そうね……」
お嬢様をベンチに座らせると、私はグレン様に向き直る。
「グレン様、主人がイメージを掴みかねているようです。不肖、私が練習台になりますので、模範演技をお願いできますか?」
「むしろ助かる。私の足指が粉砕される前でよかった」
グレン様が私の手を取る。
身長差は頭一つ分。
彼の手は大きく、そして温かかった。
けれど、そこに甘い雰囲気はない。あるのは、『業務遂行』への意志のみ。
曲が変わる。少しテンポの速い曲だ。
「行くぞ、アメリア」
「はい、グレン様。最短ルートで」
私たちは滑るように踊り出した。
無駄な動作を極限まで削ぎ落とし、互いの呼吸を完璧に合わせたステップ。
私が右に回れば、彼はその軌道を予測してスペースを空ける。
彼が手を引けば、私は滑らかに追従する。
「角度、30度修正」
「了解」
「次のターン、速度上げます」
「問題なし」
小声で業務連絡を交わしながら、私たちはフロアを制圧していく。
周囲の喧騒が消えた。
令嬢たちが、騎士たちが、そしてマダム・ヴァルスまでもが、ポカンと口を開けて見とれている。
メイドと補佐官。
身分違いのペアだが、その技術と統率力は、この場にいる誰よりも洗練されていた。
なぜなら、私たちは毎日『お嬢様の暴走』という不測の事態に対処し続けているからだ。
予定調和のダンスなど、朝の体操より簡単だ。
曲が終わる。
最後のポーズを決めると同時に、静寂が破られた。
「ブラボー!」と、マダム・ヴァルスが拍手喝采を送る。
つられて生徒たちからも割れんばかりの拍手が湧き起こった。
「す、すごいわ……!」
「あんな完璧なステップ、初めて見たわよ!」
エレノア嬢さえも言葉を失い、扇子を落としている。
私たちは呼吸一つ乱さず、互いに一礼して離れた。
「さすがだな、アメリア。君と組むと仕事が早い」
「グレン様こそ、的確なリードでした」
私たちは満足げに頷き合う。
視線を感じて振り返ると、お嬢様が鬼の形相で震えていた。
「ア、アメリア……」
「いかがでしたか、お嬢様? これが殿下を支えるパートナーとしての理想の動きです」
私がフォローを入れると、お嬢様の表情が一変した。
「わ、分かったわ! つまり相手の動きを先読みして、隙を見せずに制圧すればいいのね!」
「制圧ではありませんが、まあ、おおむねそうです」
「そうと分かれば、グレン、再戦よ! 今度こそ完璧に踊ってやるわ!」
お嬢様が気合を入れて飛び出してくる。
グレン様が「ひぃっ」と小さな悲鳴を上げた。
「待て、ロザリア嬢! 私の足はまだ回復してな……ぎゃあぁぁぁ!」
再び響く、鈍い音と悲鳴。
お嬢様は私の動きを真似ようとして、なぜか『高速タックル』のようなステップを習得してしまったようだ。
私は壁際で紅茶を一口啜り、懐中時計を見る。
授業終了まで、あと15分。
グレン様の足が持つか、お嬢様が退場になるか。
(特別手当3割増しで請求書を書き直しておきましょう)
私は痛みに顔を歪めるグレン様に、心の中で合掌した。
これが、私たちの『ビジネス・パートナーシップ』の形なのだ。




