虚勢
「ザバッ」
ちかちかする視界の中で、ほてった体を重そうに持ち上げ、国府田は水風呂へと向かう。
瞼を開き、天を見上げる。いつからあるのだろう、時の蓄積を感じさせる天井と、暖色灯に照らされた湯煙を眺めながら、彼は「物思いにふける」。国府田は二十歳だ。若く、「多感な」彼は、シャワーしかない学生寮から歩いて10分の、この竹の湯で、「人生」について悩み、「思考の整理」をする。
毎週水曜日、貴重な500円を握りしめて向かう竹の湯は、彼にとってのオアシスだ。
だが…
(またガンさんか…)
国府田には一つ嫌なことがあった。入浴中の彼をじっと見つめる高齢男性のことである。国府田は、いつも自分をガン見してくるその爺さんを、「ガンさん」と呼んでいた。彼はガンさんを避けて風呂の曜日を変えることも試みたが、ガンさんはどうやら毎日19時に竹の湯に行くのを日課としており、5限の講義後にしか風呂に入れない国府田はガンさんを避けることができないのだった。
いつものごとくじっと自分を見てくるガンさんの視線を感じながらも水風呂を楽しんでいると、
「お前はいつもこう、辛気臭い顔して悩んでいるな!」
向かいの湯船から大声が届く。
「!?!?」
何ということか、遂に、遂にガンさんは国府田に話しかけてきたのである。
予想外の出来事に黙り込んでしまった国府田を気にも留めず、ガンさんは続ける。「ほれ、一つ話を聞いてやろうじゃないか、え?話してみい。」
当惑の表情を浮かべながらも、周りの目が恥ずかしいので、国府田はいそいそと、ガンさんのいる湯舟へと向かう。
(なんなんだこのジジイは。)
やはり国府田は現代っ子。公共空間である銭湯で赤の他人が自分を凝視するだけでは飽き足らず、ついに話しかけてきたという、非常識極まりないこの事実に、国府田は苛立ちを覚えずにはいられなかった。
しかし、同時に、誰かにその内を打ち明けたいという衝動に、常に駆られながらも、体面を繕うために、女子やサークル仲間には曝すことができない不安定な若者の心は、銭湯の顔見知り以外の何者でもない老人に自らをぶちまけることを欲した。
「俺は何の強みもないつまらない人間なんです。バイト先ではつまらないミスばかりして後輩ばかりちやほやされるし、大学では努力すればだれでも取れるような可もなく不可もなくといった成績しか取れないし、サークルでは…そう!サークルでは、俺は頑張ったつもりだったんです。成し遂げたつもりだったんです。だけど…」彼の雑多な思考が一斉に言葉になることを試み、思考が先行し、彼の口から堰を切ったように言葉があふれ出して止まらない。国府田は入学後、成長の機会を得たいと思い、地域課題解決型の、いわゆる「地方創生系」のサークルに入った。「この夏、奈良の田舎で合宿があったんです。俺、高校時代は人前で活動することはほとんどなかったんですけど、合宿では柄にもなくチームのリーダーになって、バンバン発言することができたんですよね。実際、地域の人に『お前は出世する!!』とかって言われたりして…完全に田舎の乗りですけど、とにかく俺にとってはメッチャうれしかったんです。なんか、『自分にはできない、縁がない』と思っていたことでも、やろうと思えばちゃんとできるんだってことがわかったような気がして…だけど、今、別にサークルが楽しいわけでもないんです。活動はマンネリ化するし、先輩の評価ばっかり気にするようになっちゃって、いやになるんです。」
「うまいラーメン屋はな、ラーメンを作ることしか頭にないんだよ。」
ガンさんはにんまりと、まるで「お前の悩みは小さいもんだ。もう俺は答えを持ってるぞ。」とでもいうかのような顔で国府田を見つめてくる。国府田は、その偉そうな笑みに反抗心を抱きつつも、羊が羊飼いに向けるような顔で、ガンさんを見つめた。
「お前は努力していない。お前は行動していない。本当に何者かになりたいと思ってる奴は何者かになろうだなんてこれっぽっちも考えちゃいないんだ。お前がいっつも思っている『このまま腐ってたまるか』っていうのはな、意識しちゃいけない。目の前のことしか考えず、ただただ行動するんだよ。そういうやつが巨星になるんだ。」強気な声で、そう語る偉そうなガンさんの姿は、まるで昔の自分自身に向けて語っているかのようで、少し切なくも感じられた。
(昔、ガンさんも俺と同じように悩んだことがあったのだろうか…)
そう思うと、国府田にとって、非常識な爺さんに過ぎなかったガンさんは、同じ困難に立ち向かう同士のようにも思えてきた。国府田は悩んだ。(確かに俺は、バイトでも勉強でもサークルでも、他人の評価ばかりを気にして内容自体を気にかけることは、少なかったのかもしれない。俺は行動することから逃げていたのか?逃げていつも、ここで思索ごっこをしていたのだろうか?)
竹の湯での国府田は、漠然とした虚栄心と、特にやりたいことはないという無関心の狭間で、いつもいつも堂々巡りになる。やりたいこと/やりたくないこと、やらねばならないこと/やらなくてもよいもの…このような区別は案外重要ではないのかもしれない。このことを知っただけで、国府田は一歩進んだ。「夢中になれ。」ガンさんが伝えたこのメッセージを胸に国府田は体を持ち上げる。
「ザバッ」
体がいつもより、幾分軽いように感じた。




