救われなさの中で光るもの
屋上の手すりから身を乗り出すと、知識の死骸が積み重なっている。私がかつて落ちた場所だ。
前に少女の無くした本を探した時には数千冊もあった。
その時にいくつか本を無許可で拝借した。
私は思った。
——ここに、少女が捨てる本と捨てない本の違いがある。
それを調べれば、少女の中で何が生き残り、何が死んでいったのかが分かる気がした。
少女の沈黙の奥にある何かが、私の呼吸の仕方を書き換えていくようだった。
少女の隣で本を膝の上に並べた。背表紙は汗を吸ってふやけ、紙の端は陽炎みたいに震えている。蝉の音が、頁の白さを焦がしていく。
少女は何も言わない。
ただ、何故か奇妙な感覚に脳が包まれていく気がした。
——読めば読むほど、大切なものが遠ざかっていく本がある。
最初の一冊はそういう匂いがした。文はよく磨かれ、論は整っている。出来事は丁寧に順番を与えられ、因と果が艶やかに結ばれていく。だが、そこには誰の手の汗も付いていない。まるで、見世物小屋の標本棚に並ぶ骨格。形は正しいのに、生きていたときの重さがない。
次の一冊には写真が挿入されていた。群集。目を凝らすと、そこに写っているはずの顔が、どれも薄膜のように透けている。説明文は饒舌だが、口を開いているのは紙だけで、誰もこちらを見返さない。私は頁を押さえる指に力が入り、紙が爪で小さく裂けた。裂け目から、沈黙が覗いた気がした。
さらに別の本。
そこでは世界が、見取り図のように平らにされてゆく。 人の選択は力学に還元され、思考は配置、感情は数の揺れと呼ばれる。なるほど、と頷くたび、頷きのたびに何かが削られていく。頷きの粉塵が、膝の上に積もる。
——受け取るだけの危機。手の汚れない叫び。
ページの上に並ぶこの音調を、私はどこかで知っている。
真実を積み重ねる声は、読者を安全な観客席に固定する。危機は舞台の向こう側で進行し、こちらでは拍手と溜息の練習だけが上達していく。読むほどに身は軽くなるが、軽くなったのは責任で、行き場のない重さは、なぜか本のほうに移される。
私は、少女の作り上げた山に共通している輪郭をなぞる。
——形が先に立ち、触れたものを形に合わせて並べ替える本。
——出来事を読める速度に均すために、余白を削り落とす本。
——誰かの顔を、誰でも飲み込める説明に溶かしてしまう本。
ここには、正しさが過剰で、温度が欠けている。
ここには、私の肺が小さくなる読み方が、きれいに用意されている。
私は、いくつかの行を指で押さえたまま、少女の横顔に気配を送る。
——聞きたい。君の言葉で。
だが少女は、目を閉じる。
私は、少女の沈黙に、自分の舌を縫い付ける。
思考は、灼けた路面に落ちた水のように、かすかな音を残して消える。
ただ、その消え際に刻まれた白い痕だけが、私を歩かせる。
本の内容を思い出すと、体が正義感の名の元に世界を良くしようという命令に駆られる。
赤字を基軸通貨で賄い続ける覇権依存。
その真実は、指先を動かす。
損失は公的、利益は私的という恒常的モラルハザード。
その真実は、背筋を緩めさせる。
緊縮が発展投資を枯らし、貧困を固定化する。
その真実は、喉を乾かす。
制裁の乱用が代替網を育て、制度への信認を蝕む。
その真実は、眼球を逸らさせる。
供給の一極最適化が、危機時に社会を脆弱化する。
その真実は、膝を折らせる。
技術封鎖は短期抑止と引き換えに、長期の敵対を硬化させる。
その真実は、拳を閉じさせる。
株主価値至上が冗長性を削ぎ、公共性を崩す。
その真実は、息を浅くする。
「月々の安さ」信仰が家計の破局を常態化させる。
その真実は、指で画面を撫でさせる。
データ主権の空洞化が意思決定を国外に外注化する。
その真実は、舌を噛ませる。
国際標準化戦の不在が、未来の利潤分配から永久に外す。
その真実は、夢を見させない。
平和を呼び込むために平和を終わらせた真実は人を守り、人を動かす。
ただそこに、自分が居ない気がした。
自分なんてない、とよく耳にする。
けれど、その無さを認めてしまうと、どうしてか、世界の灯火を消す風が流れる気がした。
——形は、世界を救わない。
——でも、形がなければ、私たちは何も見つけられない。
——形が呼吸を奪うとき、それは読むではなく、管理になる。
——形が震えを保つときだけ、言葉は生きる。
少女と話した日のことを思い出す。
少女は言った。「途中で溺れかける時間が必要だ」と。
私はいま、溺れかけている。
説明に体を預ければ岸に上がれることを知っていて、なお水の中に留まる。
——ここでしか、見えないものがある。
それは、目に見えない脈動。
言葉になる前の、肉のうごめき。
歴史に整列する前の、個別の息切れ。
構造に収まる前の、手の震え。
顔が写らない写真に、残るはずだった温度。
私はもう一冊の本の背を割ってひらく。
そこには、誰かが誰かの苦痛を理解可能にした巧妙な段取りがあった。
そして、理解し終えたときだけ鳴る鐘の音が、想像の中で聞こえた。
——鐘の鳴る町で、人は死ぬ準備を始める。
私は本を閉じた。掌に紙の角が食い込み、うっすら血が滲む。
血は説明しやすい色をしているが、痛みは、どの言葉にも似ていない。
私が黙っていると、少女が僅かに身じろぎをした。
言葉は出ない。
少女の沈黙は、拒絶ではなく、呼吸の仕方だ。
沈黙のうしろで、何かが芽吹く音がした。音ではない。気配。
その気配は、本の山に埋もれた、捨てられない何かの形をしていた。
私は独白を続ける。少女には聞こえなくていい。
——ここに積まれたものは、完成を拒んだ頁たちだ。
——少女は、終わらせないことで守ろうとした。
言葉になる前の沈黙。
意味を持つ前の揺らぎ。
そこにだけ、まだ呼吸があった。
私は、それを芸術と呼ぶ。
あの山は、君が守りきれなかった震えの墓標で、同時に、まだ触れてほしい未完の温度。
頁の上の文字列は、もう声を持たない。
読むことのかわりに、沈黙だけが息をしている。
乾いた頁のひびの奥で、光がわずかに動く。
言葉が死んだあとにも、まだ光は残る。
私は、少女の真似をして、一冊の本を屋上から投げた。
本はゆっくりと宙を割き、紙片の影が夏の光を泳ぐ。
どこにも届かず、ただ空気のかたちを変えて落ちていった。
陽に焼かれた手すりが、金属の匂いを放つ。
私は、その匂いを吸い込みながら、声にならない言葉を少女に渡す。
——君が捨てたのは、中身のふりをした、空洞。
——君が残したのは、読む前の温度。
——私は、それを読む。
少女は、笑っていた。
その笑みは、誰かを救うものではなく、言葉を越えてこちらに届く、ひとつの呼吸だった。
——少女は、かつて壊れたまま考えることで世界に繋がっていた。
けれど、いまはその考えすらも沈黙に溶けていった。
それでも、沈黙の奥で私はまだ考えている。
壊れたまま、答えを見つけられないまま。
風が二人の間を通り抜けていく。
私は、そこに残された静けさを拾い上げ、
それを少女の膝のそばにそっと置いた。
——余白は、命の持ち物。
それは、何かを終わらせるための余白ではなく、まだ生まれきれない声の居場所だった。




