表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/20

救われなさの中で光るもの

屋上の手すりから身を乗り出すと、知識の死骸が積み重なっている。私がかつて落ちた場所だ。


 前に少女の無くした本を探した時には数千冊もあった。

 その時にいくつか本を無許可で拝借した。

 

 私は思った。

 ——ここに、少女が捨てる本と捨てない本の違いがある。

 それを調べれば、少女の中で何が生き残り、何が死んでいったのかが分かる気がした。

 少女の沈黙の奥にある何かが、私の呼吸の仕方を書き換えていくようだった。


 少女の隣で本を膝の上に並べた。背表紙は汗を吸ってふやけ、紙の端は陽炎みたいに震えている。蝉の音が、頁の白さを焦がしていく。


 少女は何も言わない。

 ただ、何故か奇妙な感覚に脳が包まれていく気がした。


 ——読めば読むほど、大切なものが遠ざかっていく本がある。

 最初の一冊はそういう匂いがした。文はよく磨かれ、論は整っている。出来事は丁寧に順番を与えられ、因と果が艶やかに結ばれていく。だが、そこには誰の手の汗も付いていない。まるで、見世物小屋の標本棚に並ぶ骨格。形は正しいのに、生きていたときの重さがない。


 次の一冊には写真が挿入されていた。群集。目を凝らすと、そこに写っているはずの顔が、どれも薄膜のように透けている。説明文は饒舌だが、口を開いているのは紙だけで、誰もこちらを見返さない。私は頁を押さえる指に力が入り、紙が爪で小さく裂けた。裂け目から、沈黙が覗いた気がした。


 さらに別の本。

 そこでは世界が、見取り図のように平らにされてゆく。 人の選択は力学に還元され、思考は配置、感情は数の揺れと呼ばれる。なるほど、と頷くたび、頷きのたびに何かが削られていく。頷きの粉塵が、膝の上に積もる。


 ——受け取るだけの危機。手の汚れない叫び。

 ページの上に並ぶこの音調を、私はどこかで知っている。

 真実を積み重ねる声は、読者を安全な観客席に固定する。危機は舞台の向こう側で進行し、こちらでは拍手と溜息の練習だけが上達していく。読むほどに身は軽くなるが、軽くなったのは責任で、行き場のない重さは、なぜか本のほうに移される。


 私は、少女の作り上げた山に共通している輪郭をなぞる。

 ——形が先に立ち、触れたものを形に合わせて並べ替える本。

 ——出来事を読める速度に均すために、余白を削り落とす本。

 ——誰かの顔を、誰でも飲み込める説明に溶かしてしまう本。

 ここには、正しさが過剰で、温度が欠けている。

 ここには、私の肺が小さくなる読み方が、きれいに用意されている。


 私は、いくつかの行を指で押さえたまま、少女の横顔に気配を送る。

 ——聞きたい。君の言葉で。

 だが少女は、目を閉じる。

 私は、少女の沈黙に、自分の舌を縫い付ける。


 思考は、灼けた路面に落ちた水のように、かすかな音を残して消える。

 ただ、その消え際に刻まれた白い痕だけが、私を歩かせる。


 本の内容を思い出すと、体が正義感の名の元に世界を良くしようという命令に駆られる。


 赤字を基軸通貨で賄い続ける覇権依存。

 その真実は、指先を動かす。


 損失は公的、利益は私的という恒常的モラルハザード。

 その真実は、背筋を緩めさせる。


 緊縮が発展投資を枯らし、貧困を固定化する。

 その真実は、喉を乾かす。


 制裁の乱用が代替網を育て、制度への信認を蝕む。

 その真実は、眼球を逸らさせる。


 供給の一極最適化が、危機時に社会を脆弱化する。

 その真実は、膝を折らせる。


 技術封鎖は短期抑止と引き換えに、長期の敵対を硬化させる。

 その真実は、拳を閉じさせる。


 株主価値至上が冗長性を削ぎ、公共性を崩す。

 その真実は、息を浅くする。


「月々の安さ」信仰が家計の破局を常態化させる。

 その真実は、指で画面を撫でさせる。


 データ主権の空洞化が意思決定を国外に外注化する。

 その真実は、舌を噛ませる。


 国際標準化戦の不在が、未来の利潤分配から永久に外す。

 その真実は、夢を見させない。


 平和を呼び込むために平和を終わらせた真実は人を守り、人を動かす。

 ただそこに、自分が居ない気がした。

 自分なんてない、とよく耳にする。

 けれど、その無さを認めてしまうと、どうしてか、世界の灯火を消す風が流れる気がした。


 ——形は、世界を救わない。

 ——でも、形がなければ、私たちは何も見つけられない。

 ——形が呼吸を奪うとき、それは読むではなく、管理になる。

 ——形が震えを保つときだけ、言葉は生きる。


 少女と話した日のことを思い出す。

 少女は言った。「途中で溺れかける時間が必要だ」と。

 私はいま、溺れかけている。

 説明に体を預ければ岸に上がれることを知っていて、なお水の中に留まる。

 ——ここでしか、見えないものがある。

 それは、目に見えない脈動。

 言葉になる前の、肉のうごめき。

 歴史に整列する前の、個別の息切れ。

 構造に収まる前の、手の震え。

 顔が写らない写真に、残るはずだった温度。


 私はもう一冊の本の背を割ってひらく。

 そこには、誰かが誰かの苦痛を理解可能にした巧妙な段取りがあった。

 そして、理解し終えたときだけ鳴る鐘の音が、想像の中で聞こえた。

 ——鐘の鳴る町で、人は死ぬ準備を始める。

 私は本を閉じた。掌に紙の角が食い込み、うっすら血が滲む。

 血は説明しやすい色をしているが、痛みは、どの言葉にも似ていない。


 私が黙っていると、少女が僅かに身じろぎをした。

 言葉は出ない。

 少女の沈黙は、拒絶ではなく、呼吸の仕方だ。

 沈黙のうしろで、何かが芽吹く音がした。音ではない。気配。

 その気配は、本の山に埋もれた、捨てられない何かの形をしていた。


 私は独白を続ける。少女には聞こえなくていい。

 ——ここに積まれたものは、完成を拒んだ頁たちだ。

 ——少女は、終わらせないことで守ろうとした。

 言葉になる前の沈黙。

 意味を持つ前の揺らぎ。

 そこにだけ、まだ呼吸があった。

 私は、それを芸術と呼ぶ。

 あの山は、君が守りきれなかった震えの墓標で、同時に、まだ触れてほしい未完の温度。


 頁の上の文字列は、もう声を持たない。

 読むことのかわりに、沈黙だけが息をしている。

 乾いた頁のひびの奥で、光がわずかに動く。

 言葉が死んだあとにも、まだ光は残る。


 私は、少女の真似をして、一冊の本を屋上から投げた。

 本はゆっくりと宙を割き、紙片の影が夏の光を泳ぐ。

 どこにも届かず、ただ空気のかたちを変えて落ちていった。


 陽に焼かれた手すりが、金属の匂いを放つ。

 私は、その匂いを吸い込みながら、声にならない言葉を少女に渡す。


 ——君が捨てたのは、中身のふりをした、空洞。

 ——君が残したのは、読む前の温度。

 ——私は、それを読む。


 少女は、笑っていた。

 その笑みは、誰かを救うものではなく、言葉を越えてこちらに届く、ひとつの呼吸だった。


 ——少女は、かつて壊れたまま考えることで世界に繋がっていた。

 けれど、いまはその考えすらも沈黙に溶けていった。

 それでも、沈黙の奥で私はまだ考えている。

 壊れたまま、答えを見つけられないまま。


 風が二人の間を通り抜けていく。

 私は、そこに残された静けさを拾い上げ、

 それを少女の膝のそばにそっと置いた。


 ——余白は、命の持ち物。

 それは、何かを終わらせるための余白ではなく、まだ生まれきれない声の居場所だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ