霧の脚
放課後、捨てられた本の山を、私はまるで失われた文明の遺跡でも発掘するかのように、一冊ずつ掘り返した。
だが、どこにもなかった。──あの本だけが、きれいに消えていた。
ふと少女の顔を見ると、引き攣った表情のまま、自分の首を絞めているようだった。
ただそれは、何から救われたいのかを、私は一瞬で理解した。
そして、彼女の喉に言葉の通り道を作らせ、少女を絶望のきわみに突き落とした。
「多分これ、家かも……」
一番あってはならないオチだった。
少女の発言を思い返せば、「朝、酷い本を読まされて心が傷ついた」とは言っていたが、その後の返答は「何度読んでも素晴らしいと思える本を、お守り代わりに持ち歩いてる」だった。そう。少女はその本を学校で一度も視認していなかったのである。
つまり、私たちは最初から──存在しない密室の謎を解こうとしていた。
推理とは、欠落から秩序を見つけようとする儀式だ。
けれどこの事件は、最初から欠落すら欠いていた。
それでも私たちは、「密室」「犯人」「動機」……と、現実を物語の枠に押し込めるための形式だけを並べていった。
そうして、偶然にすら意味を与えようとする──それが物語の最初の犯罪だ。
罪を犯したのは、推理でも偶然でもない。
自分の行動を疑わなかった少女と、その発言をすべて信じた私たちなのだ。
少女は体育座りのまま、黄金色の世界を眺めながら、何かに思いを告げるように語り出した。
「これも朝から酷い本を読まされたせいか……」
冗談なのはわかっていた。
だが、少女の疑いもしない行動に、私の大切な時間は奪われた。
少女も、その本と同じく、私に憎いと思わせる体験を提供してくれたわけである。
もっとも、私は彼女を憎むことなど一切なく、ただ、体の奥に疲労感だけが静かに溜まっていくのを感じていた。
「この景色、前は別に好きじゃなかったの。けどね、この景色を見ていると、眩しさで目が潰れるの。
世界が美しさに包まれて、何も見なくていいよって言ってくれるから」
少女は現実から逃げていたのだ。
すると少女が水筒から麦茶を注ぎ、私に渡す。
「私、お金ないから……こんなことでしかお返しできない……」
その言葉に、変な照れも意地もなく、素直に受け取り一口飲む。
だが、その麦茶は炎天下に常備するには、あまりにも熱すぎた。
少女がいつも火傷しない程度の温度の麦茶を飲んでいることを、私はすっかり忘れていた。
全ての期待に裏切られながら、自分の愚かさに打ちのめされる。
そうして私は、もう一度考える。
──なぜ、こうも簡単に、私たちはこれを推理ものだと錯覚したのか。
解けなかったのは事件じゃなく、私たち自身のほうだった。
「これって、いつから推理ものになったの?」
少女の幼さが消え去る。この世界から連れ出す手の感触が血の巡りを早くさせる。
「最初にない、て言葉が出た瞬間だよ。ないと言うラベルは便利で、貼った途端に展開が勝手に歩き出す。本当はただ置き忘れただけかもしれないのに、ラベルは脚を持って、あの、私たちしかいない屋上を、ベーカー・ストリートにだって変えてしまう。
霧が静かに湧いて、ホワイトチャペルでは、悲惨さの前に物語の面白さで見せしめにされた人形が、いまも吊るされている」
——少しだけ哀しい比喩だと思った。
人は、置き忘れた何かを事件に変えて、安心したがるのかもしれない。
そうでもしないと、自分の退屈を説明できないから。
「……霧って、必要なのかな」
「説明だよ。光を強くしすぎると、影が死ぬ。みんな、影が怖いから、手元の懐中電灯を増やす。
でもさ、光が増えるほど、星は見えなくなる。それでも眩しいほうが安心だから、その世界では夜空は何処に行っても同じ景色しか見せない。安心は、夜を殺すんだよ」
少女は昔の私を否定していた。
また、どこか壊れるんじゃないかという不安。
ただ、少女の目は真っ直ぐだった。
その視線の先は、黄金色の世界の外側を目指す。
私は、頷くことも否定することもできず、ただ喉の奥に熱が残った。
光の話をしていたはずなのに、少女の言葉は、自分の中のまぶしさを責めているように聞こえた。
頭の中では何度もそうじゃないと否定していたのに、心臓だけが、ゆっくりと罪悪感の形を覚えていった。
「……答えを、欲しがるのも罪なのか」
「悪いとは言わない。けど、息を止めて結論まで泳ぎ切る練習ばかりしてると、肺が小さくなる。
泳ぎ切った証明をもらって安心感を得ると、水はただの道になる。
だから私はわざと溺るの。ゆっくりと時間をかけて。空と水の境目を忘れるほど。いくら苦しくても。それが永遠に続くくらい長く。死の手前まで溺れ続けなきゃいけないの」
誰かが見ている水の中で、泳ぎ切る証明書を求めていた。
その水がどこへ流れていくかなんて、考えもしなかった。
「道の先には、沈黙の部屋がある。そこでは、風も羽音も止められて、翅は薄い硝子の下で永遠の姿勢を保つ。誰かが美しいと呟くたびに、羽は少しずつ色を失っていく。
私はね、飛んでいるあいだの震えが好きなの。けれど、それはいつも硝子の裏に閉じ込められてしまう」
——震え。
その言葉にも、震えがあった気がする。
でも、それを口にした瞬間に消える。
言葉は、感情を殺すのが上手い。
「……あの本も、閉じ込められていたんだ」
「うん」
少女は頷いた。
けれど、その頷きは返事ではなく、何かを胸の奥へ沈めるような仕草だった。
「正しさの保存。世界は素晴らしいって札が先に用意されていて、気づくための演技が章ごとに並んでた。
気づかない登場人物は叱られて、気づいた登場人物は抱きしめられて、読者は拍手する。
拍手のために生きてる人形劇。
ねえ、拍手の音って、だいたい同じに聞こえるでしょ。
だから、誰の心にも同じ音量で届くように、話は平らに削られる」
拍手の音が、あの日の教室を思い出させた。
みんなが同じ速度で笑って、同じ速度で帰っていった。
景色なんて残らなかった。
「……君は、何を残したい」
「凹み。擦り傷。語りたくない沈黙。言い淀み。途中でこぼれた息の跡。何度も考えて、それでも答えにならなかった形。
そういうものだけが、時間の底に沈んでもまだ光る。
たぶん私は、進むよりも、壊れながら考えている瞬間のほうが好き。
止まった景色の中で、まだ動こうとしている、見えない脈。
それが、私にとっての残すなんだと思う」
見えない脈。
それを、私も見たかった。
私は戸惑う瞬間だけ、生きてるように思える。
「……生きてる、ってどういうことなんだろう」
「少なくとも、動いてることじゃないと思う。沈黙の中で、まだ温度が残ってること。光に触れなくても、奥でひそかに波打ってること。それが、生きてるってことだと信じたい」
彼女の言葉の途中で、蝉の声が急に遠のいた。
「……名前をつけると、死ぬんだな」
「たぶんね。答えの札は、水やりを止める合図でもある。札を立てた人は二度と戻ってこない、残ったのは、読まれなくなった土だけ。土が黙っているあいだに芽が出るのに、黙りを怖がるから、みんな土にスピーカーを埋める。音は賑やかだけど、根は眠ることはないの」
彼女の声が静かに降りてくるたび、胸の奥の土がかすかに動いた。
眠れないのは、根じゃなくて、たぶん私のほうだ。
それでも、その暗闇に少し触れてみたいと思った。
少女の言葉を反芻するうちに、ふとあの日の会話が蘇った。
「世界には三つの癖がある」と、少女は言っていた。
そうだ、少女は知っていたのだ。
それでも「ない」という言葉を選んだ。
その一語で、世界のほうが動き、整列し、犯人が前に出て、拍手が生まれた。
少女は、存在を保つために、虚構を少しだけ生成した。
世界が崩れないように、意味の糸をねじって結び直した。
世界は少女に似てしまい、退屈を呼び込んだ。
朝、少女が読んだ酷い本——
それはきっと、少女自身が呼び寄せた退屈の形だったのだ。
なぜ、彼女がそんな言葉を選んだのか。
少女は、ときどき自分の言葉の輪郭を見失う。
きっと、それは私という聴き手の存在が、言葉の鏡を曇らせているからだ。
それでも、今日のその響きだけは、胸の奥で何かをかすかに引っかけた。
それを考えようとしてみたけれど、今の私には、何ひとつ思い浮かばなかった。
私は、その退屈がまるで深い海のように思えた。
そこには静けさがあり、息づくものがあった。
その底で、見えない脈がまだ打っている気がした。
余白のない正しさ。
それに拍手してしまう。
拍手の音が、蝉の声より大きくなったら、今年の夏は終わる気がした。
その言葉が落ちた瞬間、蝉が鳴いた。
まるで、まだ生きていることを伝えるように。
私はからっぽになったコップを置いた。
掌に残る水滴の冷たさだけが、本当の時間みたいに思えた。
彼女は少しだけ笑って、その笑みが、すべてを説明してしまう前に、夏の光の中へ、静かに溶けていった。
「じゃあ……また」
少年はそう言って、ゆっくりと階段を降りていった。
足音が遠ざかるたびに、屋上の黄金色は消え、世界は貴方の色を失った。
風の音がひとつ、蝉の声を連れていく。
鞄の中で、紙の感触が指先を呼んだ。
ゆっくりと取り出す。
『暗黙のテキストの傍註』。
「……家にあった、ってことにしておこう」
あぁ、こんなふうに世界が遅れてくれたら......
私は、理論の影に思いを隠す。
計算のふりをして、祈るように考える。
本当に残したいのは……




