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屋上密室の詩学

「ない、ない!!」

 少女の荒げた声が、旧校舎の踊り場まで響き渡った。

 普段は死んだように静かな場所でその声がしたもんだから、まるで幽霊が人間に怯えているようだった。


 私は階段を二段飛ばしで駆け上がる。

「何がないんだ!!」

 彼女の荒げる声を相殺するかのような焦りようで颯爽と登場した。

 少女は救世主が現れたかのように目を輝かせる。


 季節は夏に変わり、屋上に居続けるには根気が必要な時期になっていた。

 腐り切った私たちの根も、じわじわと乾いていくようだった。


 私は自習の時間になると、決まってこの屋上に来るようになった。

 少女とも何度か言葉を交わし、いつの間にか気軽に話せる関係になっていた。


 現在に戻る。

 いつも冷静沈着な少女が狼狽しながら、今にも泣きそうな声で言う。

「本がないの!!」


 少女はいつも本を読んでいる。

 読書というより、本を物理的に消費している。

 ページをめくる音は、だいたい秒速四ページ。

 一冊読み終わると、そのまま次の本を取り出す。

 情報処理能力というより、紙の浪費能力だ。


 その速さと雑さのせいで、誰も少女を読書家とは呼ばないだろう。

 年間何冊読んだかをマウントに使う自己啓発系ビジネスマンのようだ。

 ……とはいえ、少女にはそんなことを言いふらす相手はいない。

 なおかつ、携帯すらも持っていないのだ。


 それでも私は、「きっと家のPCでSNSをやって、読書アピールしてるんだろう」と、どこかで勝手な憶測をもとに辻褄を合わせてしまう。

 そんな少女に、私は屋上の産業廃棄物の称号を与えた。


 けれど少女には不可解な言動がある。──少女は読み終わるたびに、本を屋上から投げ捨てるのだ。

 以前、なぜそんなことをするのか聞こうとしたが、その奇行に触れるにはまだ早い気がして、言葉を飲み込んだ。


「また屋上から捨てたんじゃないの?」

「そんなこと、絶対にしない」


 少女は明らかに嘘をついた。

 けれどその嘘には、なぜか不思議な一貫性があった。

 私の中では、もう屋上から本を捨てる少女というイメージが定着していた。

 あれは、気づいてほしいアピールではなかったのか……自分の中でますます疑問になる。


 少女の捨てる本に傾向がないか考える。

 私はときどき、彼女の捨てた本を拾って読む。

 どれも難解で、読むのに時間がかかる。

 以前拾った、テクノロジー業界のトップに上り詰めた人々の軌跡をお金の心理学で魅力的に描く歴史書はかなり面白く、私は満足したのだが、少女はそうではなかったらしい。


 ただ、私は少女から直接的ではないが読書の楽しさを教えてもらった。

 私が読む本は、いつも誰かに正解と保証されたものばかりだった。

 本の中にある正しさではなく、彼女の中にある間違いのほうが、ずっと面白いと思ってしまった。

 だからこそ、この屋上の本消失事件を、密室ミステリーとして楽しむことにした。


「ちなみに、どんな本がなくなったの?」

「『暗黙のテキストの傍註』って本」

「タイトルからして、すでに読みにくそうだね」


 少女は神妙な顔でうなずいた。

「この本だけは、絶対に投げ捨てないって決めてたの」


 他の本なら倫理的にOKなのか? そもそもそんな尺度で測れる人間でないことを、私は忘れかけていた。


「家に忘れたって可能性は?」

「それはない」

 間をおかずにきっぱりと否定した。

「あのね......朝、酷い本を読まされて心が傷ついたの。私の大切な時間を奪ったその本が憎かった。

 でも、そういうことって数えきれないほどあるの。だからね、いつも何度読んでも素晴らしいって思える本を、お守り代わりに持ち歩いてるの」


 ──秒速四ページの読書をする人の言う何度読んでも素晴らしいと思える本に興味が湧いた。


「なるほど。じゃあ、君は今日、この場所から動いた?」

「動いてないよ。ずっと本を読んでたから」


 少女の記憶が正しいなら、本が消えるはずがない。

 つまり、犯人は──意気揚々と推理ごっこに没頭し、命の恩人に対して、憶測というラベルでドレスを無許可で仕立て上げ、自己欺瞞の海で優雅に泳いでいる私しかいなくなる。

 ……場面転換、証人変更。


「さて、貴方は今日の二時間目のチャイムが鳴ったとき、この場所に来たね?」

 少女はノリノリで役を演じ、一定のリズムで足音を立たせながら、私の周りを犯人を追い詰めたかのように回る。

 その姿はまるで、インバネスコートに身を包み、ディアストーカー帽を斜めにかぶり、パイプから煙を出しながら「ふむ」と唸る。旧校舎の屋上をヴィクトリア朝の末期に変え、天才的な観察眼で事件を解決。「You see, but you do not observe」──おそらくその人の決め台詞であろうものを、惜しげもなくドヤ顔で決めるその姿は、誰が何と言おうとシャーロック・ホームズには見えなかった。

 少女のどこか拭いきれない幼さは、幼稚園のお遊戯でしかなく、その年齢相応の返答で答えるのが英国紳士の勤めだと理解し、「はい!」とおーきな声で手を上げた。

 少女の目がわずかに光り、私の悪意を見透かしたように思えた。


 すると少女が唸り始めた。

「うーん……」

 私はこの推理の結末を知っていた。

 当然のごとく、少女の思考は停止する。

 そう。少女の目が輝いた原因は、少女の目から輝きを一瞬にして盗んでしまうのだ。


 忘れ去られた私。

 信じたくない事実。

 推理は途中で行き倒れ、演技は現場で凍死。

 被疑者:少女。

 罪状:自己演出の暴走および公共の羞恥乱用。

 証拠品:自意識の結石。

 動機:名探偵への証拠不十分な片想い。

 判決──死刑(社会的に)。

 少女は赤面しながら泣いた。

 それは推理の焼け跡に咲いた、人間味という名のバグだった。


 私は右耳を閉じ、少女の泣き声を遮断する。

 左耳には、鬱陶しい蝉の声をわざと反響させる。

 遠くに、入道雲が映る。

「あぁ……あの美しい雲も、下では大雨と雷を抱えているのだろう。青春なんて、結局、見かけ倒しか……」


 高校二年の夏。

 無理やり現状と情景を結びつけて、頭の中でそれっぽいBGMを流しながら地獄絵図から目を逸らす。

 少女と会って、初めて成長したと実感できた。


 視界に入れないよう紳士的な振る舞いをしていたが、少女が私の袖を掴んで、泣きながら言った。

「一緒に探して……」


 探偵ごっこは終わった。

 現実では力技こそが正しい──

 文学少女ならぬ文投げ少女の滑稽な姿が、それを物語っていた。

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