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地下牢から贈る自己欺瞞の詩

永遠の幸福に触れた途端、私は正気に戻った。

「どうしたの……もしかして、あの時の……?」

 少女の顔が、ゆっくりと落ち着きを取り戻していく。


「違う……違うの……」

 その声はかすれていて、どこか壊れかけた機械のようだった。


 少女の肩を支えながら、私の思考はいつの間にか、あの日に置き去りにされた影の方へと沈みはじめていた。

これも、あの日の後遺なのだろうかと、どこか遠い他人の傷を眺めるように思った。

 だが、冷静を取り戻した頭で、彼女の言葉をひとつずつ整理すると、少女がなぜこうなったかを表面的に察することができた。

 ──そう、少女の言説はどこかで噛み合っていなかった。


 少女は自分の傷や言葉を、私に向けた時点で、その歯車を自ら止めてしまったのだ。


 沈黙の方がいいと言いながら、少女はその沈黙を語ってしまった。

 理解を拒みたいと言いながら、私に向けて理解を乞うような眼をした。

 所有をやめたいと言いながら、私の中に自分の痛みの居場所を探した。


 そのどれもが、少女自身の思想の根を腐らせていた。

 けれど、その瞬間、私は純粋に構造を理解しようとしていた。

 冷静に、冷たく、少女の矛盾を並べていた。


 私は考える。

 少女の言葉は、まるで自分を否定しながら、それでも世界に残ろうとする祈りなのではないかと思えてきた。


 私は祈りを理解しようとした。

 その瞬間、少女を再び説明できる存在にしてしまった。

 それが少女の言う礼儀の語法なのだと、今なら分かる。

 彼女の矛盾を指摘することが、すでに新しい秩序への服従だった。


 それでも私は、止まれなかった。


 すると少女は、枯れたような声で呟いた。

「ちょっと横になりたい……鞄の中に水筒があるから、取ってきてほしい」


 私は答えずに行動に移し、水筒を手渡した。

 彼女はそれを受け取り、暖かい麦茶を一口飲むと、そのまま横になって目を閉じた。


 静かな時間が流れる。

 この場所には、私の輪郭を少しずつ溶かしていくものが多すぎた。

 それでも私は、少女がなぜあのように語り、あのように倒れたのかを考え続けた。

 ただいくら考えても、それは私の世界の範疇を出なかった。


 私は自分の限界を知った。

 だが、自分はその限界を超えた先を知ることによって救われる。そんな気がしたのだ。


 私は、少女を傷つけることを選んだ。

「……さっきのあなたの言葉、どこかで食い違っていることに気づいてるよね」


 少女の耳がぴくりと動いた。

 そのわずかな反応に、血の巡りが速くなるのを感じた。


 少女はゆっくりと口を開いた──。

「何にでも興味を示すと、かえって何事にも真剣に取り組めなくなるよ」


 それは、自分に言い聞かせるような独り言だった。

 それでも私は……

「君のことを知りたいんだ」


 やっと本音を言えた気がした。

 名前を知らない少女。

 住む世界も違う少女。

 それなのに私は、この少女に惹かれる。


 私の中で、何かが静かに回転を始めた。

 それは、止まることを知らない歯車の音に似ていた。

 勝ち負けも、到達も、成就もない。

 ただひたすら回り続ける、無限の運動。


 私はそれに気づいた瞬間、自分がもう二度と降りられない場所に足を踏み入れたことを理解した。


 すると少女が、私の覚悟に応えるかのように口を開く。


「世界には、三つの癖があるの」


 私の脳が広がっていく感覚に満たされ始める。


「一つ目は、身体に沈む癖。歩き方、声の出し方、句読点の置き方。身に染みた譜面が、貴方の素性を証明する。

 二つ目は、棚に並ぶ癖。紙片、装丁、切手の消印。持っているものの並びが、貴方の音階を規定する。

 三つ目は、窓口で配られる癖。許可、単位、校章、栞の色。窓口の印影が、貴方の通行を決める。

 この三つが重なると、人は読む前に、もう読まれ終わっているの」


 声は淡々としていて、意味よりも温度が遅れて届く。


「読むという行為はもう選べない。読む前に、読む姿勢が登録されている。語るという行為も選べない。語る前に、誰が語るかが決められている。沈黙さえ、発話の一種として分類される。息をすることすら、何かの印影を残す。そうやって世界は、癖の上に積み上がっていく。

 癖があることを恥じる人も、癖を持たないふりをする人も、どちらも同じ帳簿に記録される。理解という言葉の下では、誰も他人を読もうとしない。読み取るふりをして、自分が理解可能な文体を探しているだけ。

 だから衝突する。

 読めないことを、他人の欠陥だと思い込む。ぶつかることでしか、理解しているふりができなくなる」


 同じ調子で続ける。


「礼儀も倫理も、癖を正しく整列させる方法のひとつ。整列すれば、誤読は減る。でも、その整列こそが誤読の始まりでもある。誰も読まないまま、読む仕草だけが制度になる。

 優しさも同じ。優しさは、読むための仮面。他人の痛みを読むためじゃない。自分の正しさを痛みに変換するための構文。優しい人ほど、他人を翻訳してしまう。抱え直せるほどの苦さで、世界を上塗りする。上塗りは修復のように見えて、中身を消す作業に近い。……そして、言葉は空気に沈む。価値を失うのではなく、過剰に価値を持ちすぎて、誰にも届かなくなる。誰もが同じ温度で話すとき、世界は均質に冷たくなる。それが、平和と呼ばれる状態」


 間があった。

 その沈黙に意味はなく、ただ世界の表面をなぞるように伸びた。


「たぶんね、言葉はもう救えない。けれど、まったく救えないわけでもない。消されないように残る言葉じゃなく、読まれないまま通り過ぎる言葉だけが、まだ世界に穴を開けられる。

 記録されない声、窓口に届かない癖、印に変換されない遅さ。そういうものだけが、誰のものにもならず、誰かひとりにだけ触れる。そのとき初めて、言葉は灯になる。灯は誰も導かない。ただ、消えるまで、燃えるだけ」


 少女の声が静かに遠のいていく。

 私は何も答えられない。

 ただ、その灯の熱が、私の中で、ゆっくりと形のない跡を残していった。


 沈黙が落ちた。

 長い一文のあと、少女の声が途切れた。

 私はその隙間を測るように呼吸し、思わず、声が漏れた。


「……君は、矛盾を壊さないまま語っている」


 少女は目を伏せたまま、何も言わない。

 言葉が部屋の空気に溶けていく。


「構造を見ているのに、その構造を壊そうとしない。見続けること自体が痛みになるって、分かってるのに」


 拙い言葉だった。

 けれど、何かを確かめるように、口から零れていた。


 静かな間が続いたあと、少女は小さく息を吐いた。


「……うん。壊せないんじゃなくて、壊すことに意味がなくなったの。見続けるしかできないのは、もう、どこにも外がないから」


 その言葉には、感心でも、皮肉でもない。

 ただ、少しだけ安堵したような響きがあった。


 一拍置いて、少女は続けた。


「それはね、諦めとは少し違うと信じたいの。世界は変わらないんだから、受け入れなさいって言われて、その言葉に従ってるだけ。変わらない世界を信じているわけじゃなくて、変わらないという言葉に、ただ身を委ねてるだけなの。側から見れば、何も違わない。

 私の考えはどうしても、心の持ちようでしかなくて、救われるのはいつだって、自分だけ。他人を救うことなんて思考は、はなから存在しないことでしか成り立たない。だって……」


 静かに息を吸い、そのまま、少し遠くを見るように言葉を落とした。


「想うこと、つくること、問うこと、確かめることを尊重するよう要求するのは、悪いとは思わない。けど、何も言わずに尊重できるのなら、それ以上に素晴らしい出会いなんて、存在しないと思うから」


 少女の身動きが取れなくなった理由の一端を、私はようやく理解した。

 少女は、相対的な自由を何よりも大切にしていたのだ。


 私という言葉を届ける存在さえいなければ、少女は自分の中で矛盾を飼い慣らし続けられたのだろう。

 けれど私という存在が、その均衡を崩し、彼女の自由をすべて奪ってしまった。


 私は壁に触れず、地下牢の中を自由だと言い張っていた。

 その無知の閉塞感を、自らの意思で入るように誘導させたのだ。


 私が重力を感じたあの日。

 あの見えない圧力が、私の中に世界を刻んだ日。

 少女が重力を感じてしまったあの日。

 私の言葉を受け取らざるを得ない環境に、彼女を落としたのは間違いなく私だった。


 それでも少女は、私のために言葉を受け取ってくれた。

 おそらく彼女は分かっていたのだ。

 ──私の認識している世界では、再び同じ重力を感じることになると。


 だから少女は、私の答えをすべて否定した。

 手のひらで守り続けてきたヒビ一つ無い、薄いガラスで出来た城を自ら手放してまで。

 そして私は気付かされる。少女が私の砂の塔を壊したように、私も少女のガラスの城を壊したのだ。

 私を救うために。


 間違っているかもしれない。

 都合のいい解釈だと分かっている。

 それでも、他に考えられる理由はなかった。

 私の目からは涙が零れる。

「……どうして。どうして私のために……」

 その涙は何処か言葉にならない救いを求める。

 

 少女は、何も問わずにすべてを見てるような穏やかな微笑を浮かべる。


 少女が、起き上がり、初めて目が合う。

 それは、所有の気配をまったく持たない視線だった。

 互いを確かめるでもなく、ただ同じ場所にあるという感覚だけが残る。


「あの日、私は全ての思考を置き去りにして、気がついたら地面に叩きつけられてた。でもね……それが貴方じゃなかったら、きっと一緒に飛び降りようだなんて思わなかった。そんな気がする」


 私は理解できなかった。

 私と少女は、あの日、ただ出会っただけだ。

 扉の開け方を教えてもらっただけ。

 ただ......それだけの関係だった。


「なんで、私だったの……。なんで......一緒に……」

 もう本音を隠す理由はなかった。


 少女は少しだけ息を吸い、静かに続けた。

「ここだけは確信を持って言える。あのとき、貴方が手すりに足をかけた瞬間、世界がね、貴方を嘲笑いながら勝ち誇ったように見えたの。

 あの瞬間、貴方が死んだら、私の考えてきたことが全部間違いだと証明される。そう思ったの」


 その情景が少女を受動的にし、自らの命を賭けてまで私と同じ場所まで落ちてきたのだ。

 違う世界に住んでいた私達。

 たとえ重力の感じた意味は異なれど、私たちは世界から見れば、ひとつの音に還る。

 それでも、今ならわかる気がする。

 同じ詩を紡ぎ、異なる指先で、同じ永遠を掴もうとしていたのだと。

 言葉にならないものこそが、美と呼ばれるこの世界の片隅で。

「それって……誰に向けた詩なのか、聞いてもいい?」

 ずっと聞きたかった。

 命を賭けてまで、私を別の世界に連れ込んだ理由を。

 少女は出会ってから一番の笑顔を、私に向けて語った。

「貴方を沈めた世界を、私の命で永遠に否定し続ける自己欺瞞の詩かな」

 世界が少女の言葉の色に染まっていく。

 少女にとってあの重力を感じる事こそが、幸福である事の証明になるかのようだった。

 淡い光が、少女の頬をかすめた。

 それは微笑というより、痛みを手放す瞬間の光に似ていた。

 やがて、その光は世界を照らし、少女は応えるように祈る。

 「こうして考え続けている時間だけは、まだ壊れていない。そして壊れたまま考えるということ。それ自体が、それでも言葉を信じるということなんだと」

 終の祈りが、遠くの静けさと混ざり合う。

 気づけば、世界は淡い黄金色に染まっていた。

 「ねぇ、このまま少し、お話ししない?私たち、二人だけの詩の話を」

 あの日、二人が別々の世界で書いた自己欺瞞の詩は、いま、地下牢を飛び出てゆっくりと交わり始めた。

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