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理解されぬ者たちの回路

少女の声は、まるで一つの論を力強く折り畳むようだった。

「君は確かに、私の言葉に対して、倫理を超えた先で答えを見つけた。でもね、世界が君の言うように倫理の制度でできているのなら、それはまだ信じられる世界なの。倫理は少なくとも基準を作る。間違いを繰り返すたびに、誰かが罰せられ、誰かが赦される。不均衡でも、それが秩序を繋いでくれる。だけど──」


 少女は少しだけ顔を傾け、風を待った。


「その秩序で生きていけるのは、何かに帰属できる人か、現状に満足している人──それか、ただ無知なだけ。君は秩序の内側で呼吸してる。礼儀の外に立つと言いながら、礼儀の語法でしか話せていないんだよ」


 間を置かず、切先を進める。


「全部切り捨てられた気がしたと思うけど、君も切り捨てたんだよ。自分以外の視点を。腐った言葉を救いの徴候に見立てるのも、君の側の物語。君が耐え得る世界像に、私の痛みを編み直して、納得可能な配列へ戻しているだけ」


 少女は一拍置き、静かに続けた。


「その世界で生きられない人に対して、君が差し出せるのは、人の生を不幸だと決めつける幻想。脳の歯車を狂わせ、皆を同一の方角へ押しやる真実。対立することでしか成り立てない虚像くらいだよ」


 少女の言葉は淡々として、残酷に正確だった。


「君は腐る途中の言葉を信じたいという。でも、信じたいと言った時点で、それはもう様式になる。様式化された腐敗は、いちばん頑丈な礼儀になるんだよ。反抗の姿をした順応。外部を名乗る新しい内部の規則」


 短く息を継ぎ、続ける。


「それに、君は見落としている。共同体は矛盾を抱えたまま進むために、どこかに出口を作らなきゃいけない。出口はいつも誰かに貼りつく。恥が付箋みたいに移動して、謝罪が切符みたいに刻印されて、排斥が一時の凝集を作る。それで均衡が回復したふりをする。この繰り返しが止まらない限り、言葉は何を言っても儀礼に吸い込まれていく」


 少女は、なおこちらを見ない。


「貴方の言葉のきれいさは可搬性を持つゆえ、すぐに規範になる。規範になった瞬間、その言葉は誰かを測る。測られた側は、またどこかへ押し出される。ねえ、貴方のきれいさで、また誰かが外に立たされるんだよ」


 わずかな沈黙ののち、声が低くなる。


「語ること自体が無効になる場所がある。条件がそろわない会話は、どんなに誠実でも届かない。届かなかったという事実だけが、次の秩序の餌になる。謝罪も、告白も、承認も、条件が欠けた瞬間にただの張りぼてへ退化する。その張りぼては、貴方と同じ世界の人間を守り、貴方とは違う世界の人間を縛りつけるの」


 少女は強い言葉で言い切る。


「だから私は、礼儀をやめたいと言った。正しさの配給に並ぶのをやめたい。公平の仮面の下で誰かがいつも代償を払う、その回路を降りたい。いま私たちが話していることが、その回路の中でしか意味を持てないなら、沈黙のほうがまだましだと思う」


 少女は淡々と、刃を研ぎ続ける。


「私はね、痛かった。でも痛かったことを理解しやすい形に置き直すつもりはない。置き直した瞬間、私の痛みは私のものではなくなるから。君がどれだけ良心的でも、形式に乗った途端、私の体験は納得可能な教材に変わる。それを拒むことだけが、いま私に残された自由なんだ」


 ほんの少しだけ熱が滲む。


「貴方が礼儀の外に立つというなら、まず自分の言葉の所有権を疑うべきだった。誰の許しも目当てにせず、誰の観客も想定せず、記録されないまま消える用意をして。それができないなら、外はただの比喩だよ。比喩は世界を変えない。比喩は世界に採用される」


 やわらかく、だが逃げ道は与えない。


「貴方は優しい。でも、その優しさがいちばん残酷なときがある。自分が抱え直せる苦さに世界を和解させてしまうから」


 声がさらに低くなる。


「私は身を投げて君を止めた。それなのに貴方は、いまも自分の秩序の中へ戻ろうとしてる。それは思いやりに見えて、私の存在を消す。私の痛みは、君の内的秩序の装飾じゃないの。私が支払った代価は、君の物語の帳尻を合わせるための代価なんかでもないの」


 最後の節は、ほとんど囁きになった。


「この世界には正しく触れる方法なんてない。触れようとする意志そのものが、いつか誰かを傷つける。それでも、誰かが触れようとする限り、儀礼は増殖し、言葉は社会の底に沈殿していく。そして、沈殿した言葉たちがまた、新しい秩序の礫になる。世界は、過去の祈りの成れの果てでできている」


 長い呼気が、二人の間を素通りしていく。


「私が諦めているのは、世界じゃない。理解されることだよ。

 理解が必要な関係しか想像できない世界ごと、諦めたい。それが、私の唯一の残酷さで、唯一の優しさ」


 少女の言葉の尾が消える。

 私には、反論の語彙が残っていなかった。

 ただ、少女がずっとこちらを見なかった理由だけが、やっと分かった気がした。

 視線は所有を生む。

 所有は、次の儀礼を準備する。

 ──だから少女は見ない。聞くだけだ。

 聞くことだけが、まだ誰も捕まえない。


 そのとき、少女が顔を上げる。

 それでも視線が、私に届かない。


「どうしてだろうね。同じ世界にいるのに、こんなに近くにいるのに。どうしてか、別の世界の人と喋ってるみたいだよ」


 温度だけが、どちらの世界にも属さない。


 私は何を聞かされたのだろう。

 世界を、倫理を、言葉を、すべて信じられなくなるほどの拒絶だった。

 それでも、少女の言葉の中には、どうしようもなく人間的な温度があった。

 それがなおさら、腹立たしかった。


 なぜだ。

 なぜ、あれほど考え抜いた末に出した答えを、こうもあっさりと全否定できるのか。

 私は腐った言葉を信じたかった。

 他人の痛みに触れることの不可能を、それでも試みることに意味があると信じたかった。

 けれど少女は、まるで神にでもなったかのように、それを一瞬で切り捨てた。

 まるで、私がどれほど泥をかき集めて築いた思索の塔も、子供の好奇心に一瞬で壊されるようだった。


 そうして私は、少女の前で、あらゆる人間的な誠実さが滑稽な模倣に過ぎなかったと気づかされる。

 人はいつも、他人の絶望に意味を求める。

 他人の傷を教材にし、他人の死を説得材料にする。

 私は違うと思っていた。

 けれど──違わなかった。

 少女の拒絶は、世界の拒絶だった。

 それは神の沈黙よりも冷たく、正しかった。


 そして昨日の少女の発言は真意ではなかったのだと気づく。

 自分はそのことに気づけなかった。

 その真実だけが、あの時の自分から何も変わっていないことを証明する。

 急に、少女がなぜ私にあのような言葉を言ったのかが気になって、聞こうとした。


 その瞬間、空気がひずんだ。

 少女は引き摺り込まれるように倒れ込んだ。

 まるで何かに体をきつく縛られ、身動きが取れないように。


 呼吸のたびに肩が小さく震える。

 その指の白さが、血を拒むように冷たかった。


 少女は顔を上げなかった。

 ただ、口の中で何かを繰り返していた。

 そこに、わずかに震える音があった。


 少女の背中がゆっくりと沈む。

 私は、何もできなかった。

 ただ、そこに座り込んでいる少女の横顔が、あの日と同じように正しさに縛られた顔をしていることだけを、どうしようもなく理解してしまった。


 少女の手を握ると生気が戻っていくのを感じた。

 ただ、声だけが震え続ける。


 ふとその瞬間、少女の震える声が、私の脳に直接語りかけるように、何かを思い出させた。


 その、一瞬だけ触れた何かは、傷ついた私の心に、永遠の幸福を感じさせるようだった。

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