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目に見えない領域

あれから、いくつもの日々が過ぎた。

 だが、何一つ思い出せない。

 時間が私を削り、私はその断片の上に立ち尽くしている。


 ただ一つ、死後の誰かに届いてほしいという、勇気のない自己慰撫の詩が、見ず知らぬ少女を大怪我に巻き込んでしまった。


 あれほど衝撃的な出会いだったのに、決して忘れることなどないと思っていたのに──

 いつの間にか、そんなことを思い出す余裕すらなくなっていた。

 私は、私のことしか考えられなくなっていたのだ。


 取り返しのつかないことをしてしまった──

 その思いだけが、過去に私が最も恐れていたものを救いへと変質させようとしていた。


 少女とは、あれ以来、会っていない。

 どこで何をしているのだろう。

 傷は、もう癒えただろうか。

 もしかしたら...


 ふと、旧校舎の屋上が脳裏に浮かんだ。

 放課後に行こうと思ったが、なぜかその時間には会えない気がした。

 次の授業は自習。

 生まれて初めて、私は授業をサボることにした。


 旧校舎は、あの一件以来、立ち入り禁止のバリケードで覆われていた。

 諦めかけたとき、遠くで鳥の羽音がした。

 その一瞬の風に押されるように、私は鉄柵を越え、裏手へ回った。


 かつて本が積まれていた場所には、乾ききらない赤褐色の痕が残っていた。

 あの恐怖が、走馬灯のように私を通り抜ける。

 私は同じ階段を上り、屋上へ向かった。


 扉の前で足が止まった。

 金属の冷たさが掌を貫く。

 少女が私を恨んでいるはずだ、という思考が頭を満たす。

 けれど、その怯えこそが、私が少女を傷つけた原因だった。


 歪んだ取っ手を押し上げ、扉を開けた。


 錆びた蝶番の隙間から、古い陽の匂いが滲み出す。

 光は埃を孕み、時間そのもののようにゆっくりと沈んでいた。

 その光の中で、少女は変わらず本を読んでいた。

 ただ腕には包帯が巻かれていて、本を床に置きながら、子どもがお絵描きをするような体勢で、乱雑に読みふけっていた。

 風が頁を撫で、静かな呼吸のような音がした。

 少女は私を見ることなく、指先で紙をなぞっていた。


 声をかけることが、ひどく怖かった。

 だが、言葉を発しなければ、永遠にこの場所を去れない気がした。


「この前は、ごめんなさい」

 頭を下げ、捻りのない謝罪をした。

 ただ、彼女は何も言葉を返さなかった。


 それでも、言葉を続けた。

「絶対に許されないことをしたのは分かってる。けど、謝らずにはいられないんだ」


 無数の色の水が私の心を満たしていく。

 すると、少女は視線を上げず、語り出す。

 声だけが、現実より先にいた。

「ごめんなさいって、少し実験的だよね」


 実験? 予想外の言葉が飛び出て、脳が困惑する。


「厳密に言えば、倫理学の実験。誠意という仮説が、時間という溶媒の中でどこまで耐えられるか。そういう種類の」


 少女の声は淡々としていた。

 あまりに正確で、まるで何かを測定しているようだった。


「謝罪って、時間を巻き戻そうとする言葉なの。でも、時間は戻らない。その音は、常に未来に向かって壊れていくの」


「……でも」


 言葉を出そうとしたが、それを遮るように少女は続けた。


「人は皆そう思う。まるで過去に触れられると思い込む。けれど、時間は誰の指にも掴めない。君の謝罪も、過去の幻に触れようとする手の震えにすぎない」


 彼女は本を一冊読み終え、それに続くように新しい本を開き、また乱雑に読み始めた。


「倫理って、不思議だよね。行為そのものよりも、行為を観察している意識のほうが、いつも清潔でいられる。君の誠意は、すでに観察の言語になってる。私に届く前に、自己分析として蒸発してるの。倫理とは、失敗した誠意の標本なの」


 新しく開かれた本のその白さが、言葉よりも先に痛みを告げていた。


「ごめんなさいという言葉が生まれた瞬間、誰かはまだ過去を信じてる。でも今はもう、過去はどこにもいない。謝罪は、存在しない時間への降霊術。けれど、私はそんな非科学的事は決して信じない。だから、何も感じない。感じてしまったら、言葉にききめが生まれてしまう。それはもう、倫理ではなく取引になる」


 風が、二人の間を切り裂いた。

 屋上の空気が、少しだけ傾いた。


 最後に静かに。

 そして初めて私に向けられるように言った。


「あの時、本当に痛かったの。でもね、その痛みを意味のある痛みにしてしまえば、君が救われる。だから、私は無意味のままにしておく。それがせめてもの公平性──時間に対する、倫理の礼儀」


 その声が消えるより早く、私は自分の中の何かが、静かに崩れるのを感じた。


 風が頬を撫で、冷たさだけが現実だった。

 彼女の言葉が、骨の奥で反響していた。


 ──謝罪は、時間を巻き戻す言葉。

 けれど、時間は決して戻らない。


 その正しさが、どうしてこんなにも痛いのだろう。

 旧校舎の屋上からゆっくりと降りながら、言葉の屍が靴底に絡まる。

 どの一語も、すでに息をしていない。

 誰かを救うための言葉ではなく、ただ救われるために使い古された言葉たち。

 それらを踏みつけるたび、微かな音がした。


 ごめんなさいという音。

 それは、意味を失ってもなお、形だけで世界を支える呪文のようだった。


 少女の言葉を思い出す。

 あれは怒りではなかった。

 怒ることさえ、もはや少女の尊厳を汚すと分かっている人間の沈黙。

 彼女は、私の誠実さを無効にしたわけではない。

 誠実であろうとする欲望そのものを、地面に突き刺して動けなくした。


 私は、自分が信じていた清さがどれほど都合よく設計されたものかを思い知った。

 誰かの痛みに近づこうとすることさえ、どこかで自分の救済と交換されていた。

 誠意とは、誰かに触れようとする手つきに擬態した逃避だったのだ。


 階段の踊り場で立ち止まる。

 何段下りても、同じ音がついてくる。

 靴底にこびりついた言葉たちは、未練のように離れない。


 もし、少女の言ったことが正しかったとしたら、私はいま何を信じるべきなのだろう。


 言葉は失効し、行為もまた、自己模倣の延長線上にしかない。

 悪いと言えば誠実を演じ、忘れると言えば自由を演じる。

 どちらも、私の中の観察者が選んだ都合のいい立場にすぎない。

 私は生きながら、常に観察している。

 自分の痛みすら、冷静に、他人のように。


 ──それでも、まだ何かを言いたい。


 言葉が腐っても、沈黙がそれを置き換えるわけではない。

 沈黙は、ただ記録を拒むだけだ。

 拒むことは潔く見えるが、そこには何の変化も生まれない。

 彼女が私に突きつけたのは、それだ。

 観察の中でしか動けない生の無力。


 私はずっと、理解されることを救いだと思っていた。

 だが、理解されることで、私の傷は形になり、形になった瞬間、それは他人の所有物になってしまう。

 だから彼女は、私の謝罪を拒んだのだ。

 あれは拒絶ではなく、所有を拒んだのだ。


 階段を降りきる。

 足裏にまとわりついていた言葉が、ようやく剥がれ落ちる。

 もしかしたら、もう一度彼女と話すことができるかもしれない。

 それは赦しを求めるためではなく、話すことが不可能な場所で、再び言葉を試すためだ。


 少女に会うことが、再び言葉を腐らせる行為であっても構わない。

 腐った言葉の中にしか、本当に生きている何かが残らない気がする。


 私はゆっくりと呼吸を整え、あの屋上へと戻るための思考を、もう一度始めた。


 それは誠意でも、贖罪でもない。

 ただ、話すという絶望の再開。

 そこにしか、まだ確かめられていない何かがある。


 昨日と変わらず、少女は同じ場所、同じ体勢で本を読んでいた。

 私はその隣に座り込み、言葉を並べた。


「腐った言葉でしか生きられないのは、世界が倫理主体だからだと思うんだ」


 少女は昨日とは違い一文字一文字、自分の世界と密接に絡み会うように読んでいた。


「観察の中でしか動けない生という言葉を、ずっと考えてた。たしかに、行為も言葉も、どこかで誰かの期待を前提にしてる。その前提がすでに倫理でできているから、何をしても遅い。正しさは、行為より早く配置されてしまってる。だから、何をしても後からになる。言葉も行為も、常にすでに倫理の残響なんだ」


 少女は本を閉じない。

 だが、指先が一瞬止まり、風で紙がめくれる。


「誠実さを形式として再生産する社会では、感じたことよりも感じたふりのほうが正しい。でも、倫理がそうやって形式を作るのは、人間が他者に届くことをどうしても諦めきれないからなんだと思う。倫理は触れられないという前提の上で、それでも近づこうとする技術で、その不可能な試みの繰り返しが、制度として残っただけなんだ」


 眼差しは相変わらず、その沈黙は、まるで私の言葉の形を測定しているようだった。


「だから私は、腐った言葉を悪いとは思えない。腐るってことは、生きてた証拠だ。君の言葉がどれほど冷たくても、そこに触れられなさがあった時点で、それはすでに他者への試みだったんだ。倫理が世界を覆うのは、みんなが触れられないという絶望を平等に持っているからだ。その絶望が共有されているかぎり、世界はまだ持続できる」


 風が少女の髪を持ち上げ、また落とした。

 その瞬間、彼女の視線が一瞬だけ動く。


「時間は巻き戻らないと言ったけど、私は、言葉が腐ることこそが、唯一の逆行だと思う。意味が腐って、倫理がそれを再利用できなくなるとき、初めて世界は止まる。その一瞬の停止だけが、誠実さの実体だ。誰もそれを記録できないけど、記録できないからこそ、それはまだ生なんだ」


 読みかけの頁をそっと押さえる。

 閉じるでも、めくるでもなく、ただその位置に留める。


「行為を観察する意識の清潔さを言ったけど、清潔さって本来、他者への感度の放棄でもあると思う。私たちは汚れを引き受けるためにしか、他者に触れられない。倫理がそれを整理して関係のマニュアルにしてしまったから、みんな、正しく触れられなくなった。だから僕は、腐った言葉を信じる。整えられた倫理より、歪んだ感覚のほうが、まだ生きてる気がする」


 視線が、ほんの少しだけ右に揺れる。


「貴方の言葉は正しかったよ。だけど、正しさって、常に他人の未来にしか通用しない。今この瞬間を生きてる人間には、倫理はいつも後から訪れる。だから僕は、君の未来のために正しくなることを、いまは拒否したい。正しくなってしまえば、きっと私たちは二度と話せなくなるから」


 紙の余白に小さな影が落ちる。


「貴方の昨日言った倫理の礼儀という言葉、あれはきっと正しい。でも、礼儀って、他者を遠ざけるための形式でもある。私は、礼儀の外に立ってみたい。言葉がまだ腐っていく途中の、その無防備な時間に、もう一度、君と話したい」


 本を閉じる音が、空気の表面をひとつ震わせた。

 まだ新しいインクの匂いが、胸の奥で生まれたばかりの何かを撫でていく。

 その本を腕に抱きながら、自分の心がどこにあるのか確かめているようだった。

 少女は微笑んでいた。

 その笑みは、幸福という言葉よりもずっと静かで、まるで今が終わっていく音を聞いているかのようだった。

 すべての新しさが、ゆっくりと老いていく始まりのなかで。

 生まれたばかりの命を、もう二度と抱けない予感のなかで抱いているように。

 すると、その本を鞄の中にしまう。

 震える膝を立たせ、隣に積まれた数冊の本を手が千切れんばかりに、限界まで手を広げ無理矢理に掴み取り、辛うじて動く片腕で屋上から、外へ力強く投げ捨てた。


 少女は、どこか別の世界から言葉を発した。

「それは、世界は変わることなどないから諦めろと言われて、従ってるだけだよ」

 私は──あの日、終わりを遠ざけた温かい手は、私を助けるためではなかったのだと知ってしまった。

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