永遠を知らない桜
桜の蕾が、まだ冬の余白を引きずる風のなかで、ゆっくりと皮膚の下に記憶を孕むように、形を取りはじめている。
それは春の兆しというよりも、沈黙の深部で疼く痛みの胎動だった。
生まれることと滅びることが、同じ呼吸の裏表であることを、
その小さな芽が、無言のまま証しているようだった。
この季節が嫌いだった。
光がやわらかくなるたびに、世界が私を置き去りにしていく気がした。
時間の潮が、私という砂の城を崩していきながら、別の誰かの姿へと作り直していく。
声の高さは知らぬうちに変わり、歩幅は昨日の私を追い越し、
掌は見知らぬ形に歪んでいった。
意志など介在しない、運命の筆圧によって。
時間という無慈悲な画家が、私の身体をキャンバスにして別の肖像を描いていた。
私はその筆致を恐れた。
生きることが、あらかじめ決められた譜面をなぞる演奏のように思えた。
音を外すことすら予定されているようで、反抗の身振りさえも、すでに作曲された嘘の一節に思えた。
それでも私は譜面の余白に書き込みたかった。
滲むような小さな証明を。
どんな旋律であっても、幸福は奏でうるのだという、無謀な確信を。
幸福——その語を発するとき、空気が少しだけ震える。
音のない鐘が鳴るように、透明な不安が胸を打つ。
幸福とは、おそらく触れることのできない幻肢だ。
かつてそこにあった痛みの形を、心がいまだに覚えている。
それは手に入れるものではなく、失われる瞬間にだけ輪郭を見せる、光と影の間に浮かぶ薄い花弁のようなものだ。
そう思うたび、私は春を少しだけ赦せる。
桜が咲くたびに、この世に生まれてしまった理由を、誰も知らないまま探し続ける。
そして今年もまた、蕾はふくらむ。
季節の果てにあるはずの終わりを拒むように、風の手のひらの上で、世界は何度でも始まりを模倣する。
私はその真似ごとの中で、まだ見ぬ証明のために、ひとつの息を、書きかけの祈りのように吐き出している。
「人はいつか終わりがくる。けど、その終わりがあるからといって、人生が不幸に転落するわけじゃない。
決して触ることのできない終わりという輪郭の前で、人の生は幸福と不幸の二つの岸へ分かれていく」
「私もそう思うよ。けど、私にはその幸福が何なのか分からない」
「だから人は、何かを愛したりもするんだと思う。
自分の形を誰かの中に残そうとして。
たとえそれが、身勝手な祈りであっても。
たとえ、その祈りの果てに生まれた子が、世界の冷たさに耐えきれず、どこかで静かに泣いていたとしても——
それでも人は、愛するという行為をやめられない」
「残酷だね。
でも、それだと愛を知らない人間を、まるごと不幸だって言ってるみたいだよ。
ねえ、人はなぜ愛するの?
どこまでいっても利己的で、自分の心をわざと乱して、その乱れの中で生きてると感じようとしてる。
幸福って、そんな不安の上に立ってるものなの?
それとも、欲に塗れたら本当に終わりを見なくて済むの?
——そんな無限を背負える人間なんて、どこにもいないのに。
それとも、自分を愛せぬまま、他人を愛することで、死の責任を委ねられるとでも思っているの?
それは命の放棄を美徳と呼ぶだけの自己欺瞞だよ。
死に意味を与える? 恐怖を薄める?
意味など、死が通り過ぎた後の沈黙にすら耐えられずに、誰かの涙に縋って形を保つだけだ。
残された思いが価値を持つと信じるほどに、その価値は薄れていく。
死は、誰に見送られようと孤独で、誰に祈られようと冷たい。
愛も祈りも、死の前では空虚な贈り物にすぎないんだよ」
「多分、愛そのものが幸福なんだと思う」
「愛?」
「うん。私はね、父親から向けられる視線に、それを感じたことがなかった。
あの視線は、期待とか、評価とか、何かの正しさを測るための光だった。
でも、君とこうして屋上で話している時、本をめくる音や風の流れが、なぜか全部、やさしく私を撫でてくれるように思えた。
それだけで、世界が少し柔らかくなる。
ああ、これが幸福かもしれないって、初めて思った」
「けど、愛で心が苦しんだら?
裏切られて、もっと苦しくなったら?
幸福が一瞬で崩れるようなものなら、いっそ知らないほうがよかったって思わない?」
「そう思う人もいる。
恋愛がもたらす幸福は大きい。
けれど、同じくらい、いやそれ以上の恐れも抱き込む。
それでも人は、誰かを求めてしまう。
それは理性ではなく、たぶん、記憶の奥に沈んだ渇きなんだ。
誰かの声の温度を知った喉は、もう沈黙に耐えられなくなる。
だからこそ、恋を手放して平穏を求めるのは自然なことだよ。
けれど、本当の恐ろしさは、何を求めているのか分からないまま静かに生き続けることなんだ。」
「……じゃあ、貴方が私にこの言葉を言う理由って、なんなの」
「分からない。
でもね、どうしてか——伝えなければいけない気がしたんだ」
「——そんなの、分からないよ」
「前に君に触れた時、永遠の幸福を感じたんだ」
「永遠?」
「そう。
君の手を握るたび、世界が少し止まる。
その止まった時間の中では、過去も未来も消えて、ただ今だけが残る。
人はたぶん、それを永遠って呼ぶんだと思う。
それは欺瞞かもしれない。
けど、あの熱がまだ手のひらに残ってる限り、私は嘘でもいいから信じたいんだ。
だって、あの瞬間だけは、世界が赦してくれた気がしたから」
「——私には分からない」
「世界は命令する。お金を稼げ、いい職につけ、いい人と結婚しろと。
幸福の座標を外から与え、そこから外れる生を孤独や敗北と呼んで封じ込める。
でも、本当は誰もそんな幸福を信じきれていない。
死の手前で、金持ちが静かに慈善を始めるのを、私は何度も見た。
あれはたぶん、幸福を外から借りることをやめて、内の静けさに帰ろうとする最後の練習なんだ。
私たちはその練習を、もっと早く始めてもいい。
この屋上で、君の手のぬくもりを頼りに」
「——分からないよ。
それは、満たされた人生だから、終わりを受け入れられるだけじゃないの?」
「そうかもしれない。
でも君は知ってるはずだよ。
あの日、ほんの些細なことで笑っていた君を、私は見た。
小さな風や、曇った空や、落ちてきた羽根一つにも、君は幸福を見つけられた。
あの瞬間こそ、人生が生きていると言える時間だった。
だから、もし終わりの直前で人生を見返すとき、あの微笑を思い出したい。
悪くなかった、って言えるように。
それは長く生きたかどうかじゃない。
立派に生きたかどうかでもない。
ただ、愛せたかどうかなんだ。
愛が一瞬でも心に灯ったなら、人生はもう、それだけで幸福に届いている」
「じゃあ……どうやったら人生を愛せるの。」
「幸福の深みに呑まれずに、些細な日々の今を幸福だと噛み締める。
多分、それだけが人を幸福にするんだと思うよ」
春の暖かな風が、私の輪郭をほどきながら通り抜けていく。
その流れのなかで、私は名を失い、ただ一枚の声になる。
あぁ……この言葉に出会うために、私は無数の私を通り抜けてきたのだ。
言葉は私を選び、私を発しながら、私を去っていく。
その去り際の静けさの中で、幸福がようやく形を得た。
たぶん、私が毎日すすっているのは幸福じゃなくて、ただ延命するために仕方なく飲む水みたいなもの。
熱も味もない。けれど喉を通すその瞬間だけ、体温が戻る。
私にとって芸術はそれと同じ。生き延びるための技術。上手に嘘を塗って、見えない傷に当てる包帯。はがすときは必ず痛むやつ。
名画の前で私は知っている。そこにあるのは霊感という名の照明に照らされた嘘と偽りと自己欺瞞だと。
それでも私は近づいて、光の端をほんの少し借りる。知性は当惑し、同時に泣く。分かることと分からないことが、同じ涙腺のスイッチを押すから。
分からなさに包まれているあいだだけ、呼吸が整う。
つまり、私に必要なのは真実じゃなくて、呼吸の方なんだと思う。
絵は言う——あなたは無力ですと。
音楽は言う——それでも今は持ちこたえてと。
小説は言う——ここを一行ずつ渡ってと。
私は頷いて、一行ずつ渡る。足もとは嘘で固められた仮設の橋。落ちれば冷たい水の現実。
橋が軋む音で私は目を覚ます。生きているのは、この橋を渡る数秒だけだと錯覚するために。
幸福は、たぶん、使用期限の短い鎮痛剤の名前だった。
私には処方箋が読めない。だから読めないまま、絵の具の匂いを吸い込み、比喩を舌で砕き、旋律を薄い点滴みたいに腕へ通す。
効いているふりをしているあいだに、夕暮れがやってくる。
無彩の太陽が天球を沈めるとき、私はまた作品に寄りかかる。
寄りかかることしかできない自分の無力さを、作品そのものが鏡のように映してくるから、余計に。
私は作品を信じてはいない。けれど、頼っている。
嘘の上にしか架からない橋がこの世界にはある。
偽善でしか焚けない小さな焚き火が、指先をほんの少しだけ温める夜がある。
自己欺瞞でしか閉じられないファスナーが、胸の中の風穴をいっとき塞ぐことがある。
それらを私は知っていて、使っていて、恥じていて、それでも手放せない。
もし幸福がどこかにあるなら、それは包帯を剥がす一瞬の、肌と空気が出会う音の短さにしか宿らない。
だから私は今日も延命する。芸術という救急箱を開け、嘘のガーゼで呼吸を整え、知性を当惑させ、同じ知性を泣かせる。
その涙で視界が滲むあいだだけ、私は生き残る。
そうやって生き残った先に何があるのかは、やっぱり分からない。
けれど、分からないままでも渡れる橋が、ここには一本だけある。
私はその上を、小さな足取りで、また渡る。
「ありがとう。私と出会ってくれて」
「うん」
少年は空を仰ぐ。
隣で髪が揺れた音がして、空が少しだけ近づいた気がした。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
貴方の居ない屋上は、時の底に沈んだ最後の意識のようだった。
夜の息が手すりを撫で、私の頬を透きとおる。
風はどこかで壊れかけた鐘のように鳴り、遠くの街の灯が、過去と未来の隙間でまだ形を探している魂のように瞬いていた。
「もう……ここには来ないんだろうね。」
声が遠のき、身体が少し遅れてついてくる。
星々は、その遅れの間に言葉を紡ぎ、誰にも聞こえない返事を、私の影の奥へ置いていった。
最後まで気づかれなかった。
最後くらい、私の顔を見てほしかった。
それだけが、この世界の終わりに手を伸ばして残った、私の最後の祈り。
後悔は、肌の下でまだ温かい。
血の巡りのように、消えようとしながら、同じ場所を何度も回っている。
けれど、それでも——今、私は君の言葉を聞いて、誰よりも幸福だよ。
手すりに足をかけると、世界が優しく私を手招きした。
まるで宇宙の底が、私の心臓をゆっくりと吸い上げていくみたいに。
私の幸福な生も、やがて月の裏側の冷たい頁に吸われていく。
光は破れた夢の断片のように散り、思い出は血のようにゆっくりと沈む。
息の音さえ、夜の表面張力に触れては途切れ、あらゆるものが、私の不在を完成させていった。
ずっと触れずにいた手を、私はそっと離した。
熱が大気に融け、胸の中で忘れられた太陽が一度だけ瞬いた。
その光のなかで、幼い日の笑いが反響する。
世界のはじまりと終わりが、ひとつの息に溶け合った。
私は昔っから満たされてたんだろうな。
君とここで出会う前からずっと……
思い出させてくれてありがとう……
「大好きだよ……」
声は形を持たず、空に散る。
それはもう私のものではなく、世界が一瞬だけ発した独白のように。
幸福は与えられるものではなく、この世界の沈黙の胎内で、最初から微かに脈を打っていたのだと悟る。
私の血と星々の光が、同じ律動で世界をめぐっていた。
私はまた重力を感じる。
ゆっくりと、時間をかけて、貴方の言葉に沈む。
もう怖くない——永遠に一人でだって。
冷えた手に、突然、熱が走る。
重力は確かにある。けれど、落ちていかない。
上を見上げると、誰かが私の手を握って、離さなかった。
離したつもりの手は、繋がれたままだった。
「なんで戻ってきたの」
言葉というには輪郭がなく、感情という方が正しい叫び。
私はまた、この世界に引き戻される。
指の骨が軋み、鉄の匂いが鼻を刺す。風が服の内側で鳴る。
頭に痛みが走る。
少年に、以前わたした本で軽く小突かれたのだと、遅れて気づく。
「俺も同じことをした。だから偉そうに言う筋合いなんてない。
けど——今度は重力なんて感じないで、幸福だと思いながら、突然くる終わりを迎えないか……二人で」
「もう、戻ってこないと思ったよ」
「戻れないって決めつけるのは、世界は変わることなどないから諦めろと言われて、従ってるだけだよ。
「従うのも、貴方の自由だったのに?」
「うん。それでもここに戻ってくる。
いや……君をここから連れ出さないと、自分の中で選ぶことすらできないと思った」
「それだと輪から出ちゃうよ。それでもいいの?」
「輪の外でも、自由は選べる。
いくら幸福に溺れるような日常よりも、些細な日々を幸福だと感じる日々を、俺は選びたい」
「それが貴方の選んだ自由なんだね」
彼の手の圧がわずかに強まる。呼吸が重なる。
足元の闇が、いったん深くなる。すぐに、浅くなる。
「返事しなくていい視線ってさ、生きてるふりだけ上手くなるんだよ。
そこに理想なんか積み上げると、足場のない塔みたいに自分のためだけに立って、やがてきれいごとの城に腐る。
相手の顔がいない善意は、殺すつもりがなくても普通に人を傷つける。
そうして気づかないまま、清潔な手で加害者になるんだよ」
言い切る声が震える。
彼はそれでも離さない。
「だから一緒に行こう」
「何処に?」
「世界に押し潰されなくていい場所に。今なら選べる気がするから」
私は少年を抱きしめる。
胸にあたる鼓動が、私の拍と同じ速さで走る。
「大好きだよ」
今度は、しっかりと伝えられた。
夜の風が二人の間を通り抜ける。
そのたびに、重力は少しだけ軽くなる。
目を覚ますと、世界はもう明るくなっていた。
春の手前だとしても、服も着ずに屋上で眠るには、あまりにも冷えすぎている。
金属の手すりに朝の白さが張りつき、吐く息は薄い雲になって浮いた。
少女はすでに目を覚ましていた。
髪に夜の匂いを少し残したまま、こちらを見ている。
「おはよう……」
かなり気まずい空気をまといながら、口を開く。
「本当にこれで良かったのかな……」
「もっといろんな方法はあるだろうけど、これが一番良かったって言えるようになるよ」
「どうしてだろうね。兄様の言っていた永遠の幸福が、今なら分かるよ」
「心は乱れまくってるけどね」
「けど、私達は兄妹だよ?」
「このくらいしないと世界の外になんていけないくらいに、私たちに巻かれた鎖が大きかったって事だろ」
「それは流石に都合良すぎるでしょ」
少女は心の底から笑っていた。
少女の笑いがすり抜けると、胸の灯は静脈の底で密やかに朱を孕む。
「そろそろ行こうか」
「うん」
旧校舎の屋上から、二人で校門へ向かって歩き出す。
まばらに咲く桜は、誰のためにも開かれず、冷たい手つきで世界の余白を圧していた。
それでも私達は今を歩み続ける。
この先、どんな風が荒れようとも。
永遠の幸福を育むために。
風が通り、花の薄片が擦れ合って鳴る。
桜並木のざわめきが、不安の根を浅く掘り返す。
少女の震えに、自分の手をそっと重ねる。
握り合う圧のささやかな確度で、世界の水平が戻る。
枝の先から夜の名残がはがれ、音のない合図のあと、空からひと片が離れる。
桜の花は重力を感じながら落ちていく。




