虹から滑り落ちたツバメたち
自分の知らない世界へ来た気分だった。
呼吸が、ゆっくりと整っていく。
先ほど出会った少女は、本を読んでいた。
彼女は私に興味を示すこともなく、頁を斜めに撫でては、次の本を手に取り、読み捨ててはまた拾い、それを繰り返していた。
何十冊目かの本を読み終えると、彼女はまとめてそれを無造作に投げ捨てた。
そして、また次の本を拾い上げた。
その行為を、まるで呼吸のように繰り返していた。
頁の擦れる気配だけが風に溶けていく。
時間は、声を持たないまま伸びた。
すべての音が、神に届く前に消えていった。
祈る者もいない。祈りの形だけが残っている。
生の名を借りた機構が、まだ回転をやめられずにいる。
人々はその惰性の上を歩き、私は、その歩調に合わせるために、存在のふりをしていた。
この世にいないという感覚は、消えることではなく、もう二度と生を信じられないことの延長線にあった。
空白が育ち、静かな部屋で、水が喉仏のかたちを見つける。飲み込めない。
私はまだ生きている──それだけが、私を汚している。
けれど、その汚れの底で、私はまだ自分を見つめていた。
まるで水面を覗きこむナルキッソスのように、腐りゆく自分の輪郭に、どうしようもなく惹かれていた。
そのとき、空気の中に細い裂け目が走った。
覗きこむと、そこに私がいた。
光でも影でもない、ただ私という形の裂け目。
そこに、鏡と呼ぶしかない面があった。
鏡の前で、顔が少しずつ遅れて追ってくる。
私より先にこちらを見つめ、私が言うはずだった言葉を先に言い、そして口を閉じる。
理解されたいという欲望は、唇の裏側で増殖し、祈りか告発か、どちらにも渡りきれない舟になっている。
私は舟の底板で耳を澄まし、木目の暗がりに私を押しつける。
押しつけられた私は体温を失い、薄い蒸気になって舟板から剥がれ、最後は天井の白い呼吸に混じる。
そこまでしても、言葉にはならない。
言葉になった瞬間、同じ冷たさを誰かの喉に注ぐことになるからだ。
(こわい。)
声にしたとたん、隣の人の耳殻がその形に変わってしまう。
私の怖さが複製され、別の体に貼りつく。
だから、私は黙る。
黙ることを選ぶたび、理解されたいという欲望だけが、置いてきぼりの子どものように部屋の隅で膝を抱える。
あの子は私を見上げて、泣かないでね、と目で言う。
私はうなずけない。泣かせているのは私だから。
理想の私が、壁の向こうで立っている。
横顔は薄い刃のようで、どの角度からも傷つかない。
あの人は、私の骨格から余剰を削り落とし、痛みの目盛りをゼロに合わせ、無駄のない歩幅で午前と午後の境界をまたいでいく。
私はその歩幅を真似し、床板に目盛りを描き、うまくいかない足首だけが、いつも遅れてしまう。
遅れの分だけ、誰もいない廊下に拍手の音が生まれる。
拍手は誰の手によるのでもない。壁紙の模様が手のかたちをしているだけだ。
私はその拍手に頭を下げ、笑い方を練習する。
どう笑っても、口角の下に傷が残る。
理想の私がこちらを見ないまま、首だけで否定する。
私はまた練習する。練習することだけが、私を生かす。
練習は私から私を奪い、磨かれた空洞を残す。
空洞は光を呼び込み、私の輪郭を明るく縁取る。
縁取りの美しさは、どうしようもなく、私を喜ばせる。
── こんなふうにして、私は醜くなっていく。
理解されたいという欲望を、理解されたいという見せ物に仕立てていく。
見せ物でありながら、見ないでと言う稽古までして。
夜、指先が冷蔵庫の灯りの温度を覚える。白い四角い海。
扉を閉じればすべては暗くなるのに、私はわざと少しだけ開けたまま、廊下に冷気を逃がす。
冷気は喉の奥の海と同じ湿り気を持ち、私のするどい孤独を鈍らせる。
鈍った孤独は鈍刀のように肉に食い込む。血は出ない。ただ、形だけが残る。
私はその形を胸の中央より少し左に収納し、鍵をかける。
鍵穴は私の眼孔と同じ直径で、覗きこむと、遠いところで波が一度だけ崩れるのが見える。
あの崩れは、私が生まれたときに始まって、まだ終わっていない。
終わらせてやりたいと、何度も思った。
(こわい。)
終わらせることを想像するたび、誰かの指がこちらへ伸びてくる。
助けるためではない。触れて、確かめるためだ。
私が本当に終わるのか、本当に終わったのか。
私は触れられる前に、触れられたあとの温度を想像してしまう。
その温度は、私の死をきれいに並べ替え、埃のない台の上に置き、柔らかな布をかけ、花の匂いをうっすら添える。
人はそこへ静かに近づき、声の高さをそろえて、由来のわからない言葉を置いていく。
誰もが小さな光を手に持ち、その光で私の輪郭をなぞる。
──ああ、やっぱりそうなるのだ、と私は思う。
私の死は、すぐに整えられる。
私の手書きの歪みは、知らない誰かの丁寧な活字に置き換えられる。
私は私以外の方法で美しくされ、やがて私以外の誰かの安堵のための形になる。
それでも、分かってほしい。
分かってほしいという願いが、私をいちばん醜くする。
私は分かってほしい私を抱きしめ、耳元で言う。──誰にも渡すな。渡したら、同じ目に遭わせる。
分かってほしい私が、静かにうなずく。けれど、そのうなずきが、私の背を押す。
背を押された、という表現は嘘だ。私が私を押した。
私が私を見物席に置き、照明の角度を決め、幕を上げた。
手すりに足を乗せる。
世界が固く、正しく、計測可能な傾きでこちらへ寄ってくる。
下は深くない。深くないのに、目は深さの形だけを発明し、そこへ意味を落とし込もうとする。
意味を拒むためにここまで来たのに、最後の最後まで目は働く。
私の目は忠実だ。忠実さは残酷だ。
──見て。
言えない。言わない。言ってしまえば、あなたの喉に私の恐怖が移る。
──わかって。
それも言えない。言ったとたん、あなたは私を守る儀式に私の名を貼り、私を私以外の何かにしてしまう。
なら、どうすれば。
理想の私が、向こうから歩いてくる。刃のような横顔。傷のない沈黙。
私はその沈黙を借りる。借りることだけは、まだ許されている。
沈黙は、言葉よりも深く切れる。切られたところに、誰も気づかない。
私は、怖いまま、ここで止まる方法を探す。
止まった私は、あなたを傷つけないで済むだろうか。
止まった私は、それでもなお、あなたに見つけられてしまうだろうか。
(どうか、見ないで。)
(どうか、見つけて。)
──私の願いは、いつも二重だ。
その二重こそが、私のいちばん醜い美しさだと、今は知っている。
それが最後の、私だけの合図になる。
私は合図のかたちに身を合わせた。
足元の空気が反転し、世界の傾きが変わる。
音階が抜け、色相が反転する。
私は、ただ風の形をした沈黙の中を落ちていった。
その瞬間、肩に温かいものが触れた。
振り返るまでもなく分かった。
何も言わず、私の腕を掴んでいた。
その手は冷たく、確かで、まるで現実のほうが落ちていくようだった。
白い頁が舞った。
本の群れが夜を埋め尽くしていた。
紙の海へと沈む一瞬、光が閃き、風が砕けた。
次の瞬間、音が戻った。
骨の軋み、紙の裂ける音、全身が痛みの音で満ちた。
手を伸ばす。
何か柔らかいものが腕に絡みついた。
彼女の髪だった。
赤黒く染まった髪が、私の手首にまとわりつき、動かない。
その下で、少女の頭が少しだけ揺れた。
顔は血と紙片で覆われ、どこが肌でどこが頁か分からない。
髪の隙間から覗いた瞳が、光を探すように震えていた。
「……ぉ……」
息のような音が漏れた。
声にはならない。喉の奥で、音が折れた。
血が唇を伝い、紙の上に一滴ずつ落ちていく。
赤が白を侵していくたび、世界が現実に近づく。
私は動けなかった。
全身が痛いのに、痛みよりも現実が重かった。
体を少し動かすたび、骨の中で何かが擦れる。
擦れるたび、少女の呼吸がわずかに乱れた気がした。
彼女の指が動いた。
爪の先が頁を掴み、ゆっくりと破いた。
紙の裂ける音が、鼓動と重なる。
その破れ目から、黒いインクが血に滲み出る。
私の顔に、少女の血とインクが散った。
熱い。生きている温度。
その温度だけで、世界がすべて現実になった。
終わりも、罰も、もうどうでもよかった。
ただ、少女の呼吸の数だけが、時間を刻んでいた。
風が吹いた。
紙が舞い、血の滲んだ頁が私の頬に貼りつく。
剥がそうとすると、指先に赤い線が残った。
頁には、一つの詩が書かれている。
──「何かが初めて行われるときはいつでも、小さな悪魔が解放される」




