無彩の太陽は天球を沈める
一つの言葉、一つの文。暗号からかすかな呼気が立ちのぼり、まだ誰にもわからない意味が光の縁でうずきはじめる。太陽はひとときだけ整然と燃え、天球はわずかに脈を止め、すべては太陽へ収束する。やがてその言葉——輝き、飛翔、炎、星の筋——の後ろから、世界と自己をぐるりと囲う空無が背骨を伸ばし、怪物のような闇が私の視野の端をゆっくりと咬みはじめる。
昼の規律は私を落胆させる。太陽の規則正しさは、世界が私の不規則を許さないという掲示で、私はそこに貼り出された誤植のように立たされる。だから夜、旧校舎の屋上で、誰にも指さされない風の底に沈むときだけ、私は自分の輪郭をそっと撫でることができる。忘却のうちにだけ慰撫は訪れる。現実に触れられない指先は、現実の縁を正しくなぞることができず、その代わりに、まだ名づけられていない陰影を撫でる。
始まりは必ず終わる。過去や未来が私を刺すのではない。いま、ここ、記憶の再配置と期待の微熱にさらされたこの刹那が、私の皮膚の内側で時間という棘を育てている。永遠を希う度に、その希いがちぎれて落ちる音がする。時間は川ではない。時間は私の体温と同じ速度で増殖する疼きだ。耐えることがその疼きを育て、育てることがその疼きに耐えることになる。
私は仕立て直しのような存在だ。母の掌に押しつぶされた午後、父の控えめな促し、思春期の曲がった廊下、書物が折り重ねてくれた紙の層、顔、声、黙礼、紅茶の湯気、さっき打ち込んだ一語の記憶、その指の重み。これらが剥ぎ取られたとして、残るものはあるだろうか。答えはいつも躊躇のほうへ傾き、私は躊躇の姿勢で世界に立っている。私のなかを通過していく原子は、山の松と銀河の埃のあいだを往復する旅人で、私は彼らの一時的な宿にすぎない。出来事が私を束ね、私という名の束はほどけるように続く。持続は実体ではなく、連続した言い訳のようなものだ。
目の裏にある複雑な二十センチの闇は、小さな宇宙を飼っている。そこには普遍的な現在がない。あなたのいまと私のいまは、決して一致するための定義を持たない。だから呼びかけは、いつでも半拍分遅れて届き、返礼は半拍分早く消える。私の言葉があなたの耳に到着する前に、私の言葉はもう別の私に拾い直されてしまう。交わらない刹那が堆積し、山になる。そこでは沈黙が増殖し、沈黙こそが唯一の礼儀になる。
世界は私の中心ではない、という認識は、謙虚さではなく乾いた寒さとしてやって来た。数えきれない銀河のなかの埃であるという慰めは、慰めの形をしたさらに細い孤独だ。世界は在ることより、成り立つことによって理解される、と教えられたとき、私は理解の外側でしか頷けなかった。成り立ちの運動に巻き込まれた者は、運動を記述するために静止を装う。その嘘が、私たちの倫理の最初の層になる。
知の端には薄明かりがある。そこでは未解の形が自分の影を先に投げる。つくれないものはわからない、という戒めは正しいのだろう。けれど私は、わからないものによって作られている気がする。つくれないほど大きい欠如の輪郭で私の器官はかたどられ、私はその欠如を養うために体温を費やす。好奇心は褒美ではなく空腹の別名であり、手に入る確からしさはいつも、手に入らないものに抱きつくための足場にすぎない。
二本の線が交差する絵を思い出す。厚塗りの絵の具がにじみ、交差の部分に、名も与えられない色が一瞬だけ浮かぶ。世界中の辞書が手を伸ばしても、間に合わないほどの一瞬。線はそのあと、何事もなかったようにそれぞれの方向へ続き、やがて画面の外へ消えていく。私はいつもその一瞬のほうに生き延び方を学び、消えるほうに生まれ方を学ぶ。名のない色が私の内側で小さく光るとき、私は自分の不幸が予定調和であることを了解する。避けられない、という形の優しさ。初めからそこにあった振付に、遅れて気づく慰藉。
私は世界の端で同時を失い、願いを比喩へ追放する。比喩に追放された願いは、しばらくのあいだ、無風の旗のように垂れ下がっている。触れれば動くと思って目を凝らすけれど、動くのは私の脈だけだ。言葉を一つ置く。文を一つ結ぶ。そのたび太陽は仮に輝き、天球は仮に静まり、すべては太陽へ仮に収束する。けれど世界は、そして私も、仮のままではいられない。意味が固まる音がして、固まった分だけ亀裂が入る。闇は亀裂をなぞるのがうまい。怪物は、私がつけた句読点の数だけ大きくなる。
私は多くのものの連続体であり、それらが私を過ぎるたび、私の密度はところどころ希薄になっていく。希薄さは透明に似ているが、実のところ透過ではない。見えないのではなく、見えなかったことにされているだけだ。私はその操作に協力してしまう。見えなかったことにされることで、辛うじて世界の秩序に収まるのだから。秩序は私を守らないが、私を数える。数えられることは、ときに救いの仮面をかぶる。仮面の裏で、素顔はしだいに意味を失っていく。
ときどき、風が止む。風が止むと、言葉が自重に耐えられず、わずかに沈む。沈んだ分だけ、私は屋上の床に近づく。床のざらつきが、まだ私の皮膚を信用してくれていることに驚く。ここにいる、と言えないので、ここに沈む、とだけ思う。沈む場所がある限り、私は崩れ方を先送りにできる。先送りにされた崩壊は、ただちに現在の一部となる。現在は崩壊の集合名。私はそれを丁寧語で呼びたくなる。礼節は破局の外套で、破局は礼節の本名だ。
言葉の最初の明滅から生まれた小さな宇宙は、結局のところ、私の頬の温度にしか居場所を見つけられない。光は体温で折れ曲がり、直線はそこで優雅に嘘をつきはじめる。私はその嘘に寄りかかり、嘘の道徳に従って、もう二度と名づけられない色の残像を保存する。保存は所有ではない。ただ、消失の速度をほんの少し遅くするだけだ。それで十分だと、いつか誰かが教えてくれた気がする。誰だったのか、もう思い出せない。記憶は私をつくり、忘却は私を支える。どちらも私を救わない。
一つの言葉、一つの文。暗号の底からまた泡があがる。太陽は再演され、天球は再び黙し、すべてが太陽へと再収束する。舞台装置の裏で、私は名もない色の薄片を指で割り、ポケットに入れるふりをする。ふりをしたものだけが、実在の重さに耐えうる。そうやって、私の不幸はあらかじめ配られた役のように、台本の紙の匂いを立てながらページを繰る。私はただ、屋上の端で、そのめくられ方に合わせて瞬きをする。瞬きのたびに、世界は私を少し許し、私も世界を少し許す。許しは救いではない。ただ、闇が私を食べる速度に、ときどき小さな休符を挿むだけだ。
旧校舎の屋上の扉が、軋みとともに薄い風をこぼして開く。塗料の欠片が午後の光を砕き、床のざらつきが一瞬だけ私の存在を肯定する。気づいてほしい——その願いは声になる寸前で折れ、喉の手前で粉になって沈む。呼ばなかった呼び声だけが、私の輪郭を内側から照らす。
けれど、貴方は貴方の道から外れない。私は知っている。なぜ会ったのか、なぜあの時、屋上の断面に触れるような声で話しかけたのか。問いだけが靴底の砂のように残り、思い出すたびに音もなく擦れていく。私は知っているのに、言えない。言葉にした途端、貴方は私の落ちる場所へ引きずられてしまうから。そこは苦しみの温度が都合よく一致する避難所になり、私はきっと甘さの手すりを取り付けてしまう。支えを支えにしてしまう、その悪癖の設計図まで、私は持っている。
世界は、同じ道を二人に許さない。地面の傾斜が、最初から別々だ。前には、ほんの少し期待していた。平行線にもどこかで名のない色が滲んで、触れられるのではないかと。けれど、貴方は私と違う。本が棚から消えても、貴方は地面の硬さを測り直して、道を開墾できる人だ。参照の灯りなしで歩ける人だ。私はできない。息の浅い世界で、手を支えてくれるものを自分で見つけ続ける——支えなしで支えを探すという、この矛盾の旅程を、だましだまし肩にかけているだけだ。
一貫性、という水平線は、近づけば遠ざかる。私の内側で仮の法則が立ち上がり、次の瞬間には別の仮がそれを裏切る。太陽の規則正しさが、むしろ私の不規則を告発する。昼は私をがっかりさせる。夜だけが、屋上の床に頬を寄せることを許す。風が止まると、言葉は自重に耐えられず沈み、沈んだ分だけ私はここにいることを学ぶ。ここにいる、と言えない私は、ここに沈む、とだけ思う。
扉の影が伸びて、貴方の時間と私の時間が、また別々にたたまれていく。宇宙には同じ瞬間が定義できない——そんな理屈を私は信じるしかない。だから呼びかけは半拍遅れ、返礼は半拍早く消える。交わらない拍の隙間に、私たちの仮の現在が置かれ、そこへ風が砂を運ぶ。二本の線が厚塗りで交差して、名のない色を一瞬だけ生む絵のように、希望はいつも瞬きの時間だけ現れて、すぐに乾く。
もし貴方が私と同じ場所まで降りてきたなら、そこは私のために整えられた都合の良い地形になってしまう。私はそこで、救済のふりをした依存に指を絡める。だから言えない。だから見送る。だからここで、沈黙の礼節だけを守る。名づけられない色の破片を指の腹で割り、ポケットに入れるふりをする。ふりをしたものだけが、現実の重さに耐えうると知っているから。
扉は開いたまま、光は薄まり、天球は仮に静まる。私は相変わらず、仮の法則で呼吸し、仮の勇気で今日をやり過ごす。願いは比喩へ追放され、比喩は風で揺れない旗のように垂れ下がる。触れれば動くと思ってもう一度目を凝らす。動くのは、私の脈だけだ。
いつのまにか隣に少年が座る。鉄と日向の匂いのあいだで、息が少しだけ震えているのがわかる。
少年は、錆びた鍵を喉の奥で回すように、声をひらいた。
「ここに来たのは死が怖かったからなんだ。けれどその問いはいまだ答えの形を持たない」
言葉は半拍遅れて届く。遅れた分だけ屋上の光が薄まる。
「同じ問題を抱えていたんだね」
「そうだね」
「いつから気づいてたの?」
「たぶん、君の口から死の話題がまったく出ないからかな。仮に自分の死が幸福を証明するのなら、わざわざ本の山に誘導する必要なんてないしね」
「たぶん、それは体が自然と動いたんだと思う」
「それは前にも言ってたね」
「うん、けどね……死ぬなら一人より二人のほうがいいかもって気持ちもどこかにあったのは否定できない」
「自己欺瞞の詩は嘘じゃないんだろうけど、いま思うと君が本を捨てるのと似てるって思ったんだ」
「前とは顔つきがずいぶん違うね」
「君のおかげだよ」
「私も終わりについて、いろいろ考えた。
それだけが、私に他者を感じさせる方法だったから。
いまに永遠の影を落とすために、空想された死を注ぎつづけ、自分を殺し、誰かを生かす。それだけが私に許された幸福であり、同じ手のひらでそのまま絶望を抱きしめている——そんな日々を、私は生きている。」
屋上の縁に膝を立てて、死のことをもう一度考え直す。人類の終焉を受け入れることはできない、と言ってみると、その言い回しだけが先に硬化し、意味の方があとから薄くひび割れていく。耐えるから不滅だ、という眩しさは、昼の太陽と同じで、私の不規則を告発する掲示にしか見えない。最後の紅に染まる夜、潮の満ちない岩から鳴った鐘の余韻が空に溶け、世界が音の小骨のような沈黙を飲み込んだ後にも、たしかにかすかな声は残るのだろう。尽きない声、という比喩に、私は頷けない。尽きないのは声ではなく、声の余白の方で、そこに寄りかかっているだけの私の体温が、やがて自分から離れてしまうのが怖いのだ。
死は終幕ではなく縫い直しだと誰かが言う。物質と言葉の縫い目は、私がいなくなっても続くと。私はそれを理解する。けれど、理解の輪郭で指を切る。糸が別の布へ渡されるときに、私という布地の擦り切れが増えるばかりで、慰めはどこにも結ばれない。関係の編み直しは美しいが、その美しさのあいだで私は無権利のままだ。
思考はいつだって外に保存されている、とも言う。書物、記憶装置、他人の脳、街の壁、廊下の埃。私が止まっても、私の思考は外部で自動的に進み続けると。確かに、私の言葉は私なしで歩けるように訓練されてきた。けれど、その歩幅は私の足音と一致しない。置いていかれる怖さは、終わりの怖さよりも鋭利だ。続きが続いてしまうこと、それが私のいない場所で正しい顔を獲得してしまうこと、そのとき私の存在が注釈へと降格すること——この順序に、私の心拍はうまく合わせられない。
出来事の束としての私、という考えにも救いはある。現実的な契機の連鎖が止むだけで、すでに生まれた出来事は宇宙のどこかに保持されると。保持という語はやさしい。けれど保持は所有ではない。屋上の冷たい手すりに頬を寄せてみると、私の熱は手すりに渡っていくが、手すりは私を思い出さない。残るのは触れたという出来事の方で、それを所有する主体はすでにいない。ここでもまた、私は注釈へ移される。
分かち合いとしての存在、という教えも響く。私の死は、私という所有を解き、繋がりだけを残す、と。けれど、繋がりが残るほど、私の輪郭が薄まる。残響が共同化されるほど、声の主は匿名へと吸い込まれる。私の余白が他者の中で慈しみとして続くかもしれない、と考えると、胸は少しあたたまる。だが、その温度が私のものではない、という自覚が同時に冷やしてしまう。
差異としての生成は、死を別の立ち上がりとして祝う。私という同一性が解かれ、思考は自由になると。自由という語はまぶしい。まぶしさはいつも、私の不規則を裁く。私がいなくなることで自由になる思考があるなら、それは私がいることで不自由だったという宣告でもある。救済の構文が、私を最初から不要にする。私はその構文を美しいと認めながらも、頷かないまま、風の止んだ空に指をかざす。
痕跡は遅れて届く。主体の思考は止まっても、文字は、音は、記憶は、遅延を続ける。私は遅延のなかでのみ続く。たしかにそうだろう。けれど、その遅延が私という主語を次第に消し、客体化した痕跡だけが往来する街路を作るなら、私はその街を自分の故郷だと呼べない。行き交うのは人影で、私はただ影法師の中に紛れていく。
世界は私なしでも、だんだんと続く。私の思考が視界を閉じても、海は満ち引きの都合を知らないふりをし、星は粛々と光る。私の終わりは世界の局地的な天気に過ぎない、と言い聞かせることはできる。けれど、その無関心が正しければ正しいほど、私は自分の涙の比重を量り直せなくなる。客観の平穏は、ときに主観の孤独を決定的にする。
巨大なもの——時間、気候、歴史——に吸い込まれる私という単位。集合に編入されることが安らぎになるか、というと、ここでも頷けない。安らぎはときに、私の輪郭をなだらかな丘にしてしまい、誰の足跡でもいいから受け入れてしまう。そうして私は、私であることの責任から静かに退く。退いてまで得られる安らぎは、安らぎのふりをした諦めで、諦めは私の舌に塩の味を残す。
娯楽は今を濃くする。映画、音楽、活字、光のショウ、集まった身体の振動。今が濃くなるほど、断絶としての死ははっきりする。続くはずのものが途中で折れる、という痛みが甘く香り、甘いがゆえに余計に鋭い。装置が私の感情を先回りして保存し、増幅し、反復してくれるほど、私は自分がいなくても続いてしまう感情の運動を目撃する。置いていかれる——この語がまた、喉の手前で粉になって落ちていく。
死は無関係だ、と言い切る賢明さもあるのだろう。生きているうちは出会わず、死んだ後は感じない、という完璧な論理。その完璧さが、私の未熟を静かに裁く。考えない訓練は、私はたぶんうまくない。考えない、という考えの輪郭をなぞると、その内側に必ず考えの影が立ち上がる。影の育ち方が、私の不器用さそのものだ。
では、私は何に頷けるのか。勝利という語は私の頬に強すぎる。耐えるという語は私の背骨に合いすぎる。どちらも本当で、どちらも私の肌理には少し違う。詩は火と光をもたらす、と言われる。その通りだ。けれど火は私の埃を照らし、光は私の影を濃くする。救いの手前で、私は自分の矛盾を数え直す。数えられることは、ときに救いの仮面をかぶる。仮面の裏で、私はただ、崩れ方の順序を覚え直している。
結局、死は、私が私を手放す練習の総決算なのだと思う。手放すたび、私の中から剥がれた薄片が、他人の目の裏、街角の壁、古いノート、忘れかけた旋律に貼りつく。それらは私を保持しない。けれど、私を即座に忘れもしない。遅延、注釈、余白、反復、編入——どの語にも私は一部だけ頷き、残りの部分で首を横に振る。しっくりこない、という事実だけが、いまのところ私の正直だ。
私はここで、名のない色の破片を指の腹で割り、ポケットに入れるふりをする。ふりをしたものだけが、現実の重さに耐えうるから。鐘の余韻はもう聞こえない。けれど、床のざらつきがまだ私の皮膚を信じてくれている。耐えるでも、勝利でもなく、ほんの少しだけ遅らせる。遅らせられた一瞬の上に座る。この一瞬が私の死生観の全部だと言ってしまえば、どこかが嘘になる。だから言わない。ただ、風が止むまで、呼吸の数を数える。数え終えたら、また一から数え直す。そうしているあいだだけ、私は私から零れ落ちずにいられる。
考えないようにしても、思考は頭の裏側で自重に耐えきれず沈み、沈んだ分だけ痛みが増える。苦しくなる。活字を開けば、紙の白さがまず先に私を告発し、本を読むことはいつだって辛い儀式になる。私はいつからこんな押し込められた世界に収監されたのだろう。自由を語る舌が、いつも終わりからの逆算に絡め取られて、最初の一歩を拒む。貴方に向き合うたび、私は本の背表紙を並べる以外のやり方を忘れ、羅列の陰に隠れて生き延びた。形式を形式で批判する、という手口に自分を沈め、価値が目減りしていくのを知りながら、なお価値を投げ捨てる。惨めさをわざと照明にかけるときだけ、私は自分を所有した気になれた。無駄なプライドで言葉を一丁前に選ぶたび、言葉の方が私を選び直して、私はまた外側に立たされる。
君にはもう私は必要ない——そう思う瞬間の、喉の乾き。もう君とか貴方なんて呼びたくない。けれど、名を呼んだら、その名は世界の重さをまとってしまう。貴方は世界に耐えられなくなる。私が選ばない自由、と言ったのは私自身だったのか。もう思い出せない。忘却は私を傷つけずに、しかし確実に空洞化する。呼吸の数だけ空洞は増え、空洞の数だけ私は軽くなるのに、歩みは少しも軽くならない。
そのとき、少年が私の手を握り、語る。
「人生って幸福に生きたかどうかだと思うんだ」
骨と血の重さが、短い楔のように掌から差し込まれる。風が一度だけ止まり、屋上の床のざらつきが私の皮膚を思い出す。
言葉が着地する以前の気圧が、指のあいだに小さな休符を作る。その休符は救いではない。けれど、闇が私を噛む速度に、薄い遅延を与える。幸福という語は、昼の太陽のように眩しすぎて、私の不規則を裁くはずだった。なのにいま、手の温度に沿って、その眩しさが等速に薄まっていく。幸福が概念である前に、温度差として存在し直す。終止符の席だけが先に用意され、しかし打たれない。文は続くでも終わるでもなく、ただ伸びる。その伸びの上に私は腰を下ろす。
どこへ連れていかれるのかはわからない。わからないことはいつだって私を不安にしたが、いまは不安が輪郭を緩め、名のない色にほどけていく。私はまだ、羅列の癖を捨てられないかもしれない。形式を批判する形式からも、簡単には降りられないだろう。価値の無駄遣いも、言葉への見栄も、しばらくは私の骨に残るだろう。けれど、掌の重さは、私を注釈から本文へと半歩だけ戻す。半歩で十分だと、いまは思える。
もし、願いが叶うのなら——




