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言葉のない恋文

少女の言葉が、私に自由を与えて、人生を再認識する勇気をくれた。

 何のために生まれてきたのか。好きなことのためか。

 幸福は感じるものだという教えは、どこかでつまずく。

 終わりの光の前では、すべてが白く消される気がするからだ。

 思い出すたび満たされるはずの幸福が、私にとって何なのか、言葉が拾えない。


 秋頃に、少女は焼き芋を食べている時は誰よりも幸福だと言った。

 ならば、あの体験をもう一度体験できたら幸福で、もし叶わなければ不幸なのか。

 答えに触れようとすると、皮が破れて、甘い湯気だけが逃げていく。


 私は少女に、幸福とは何かを尋ねたかった。

 けれど、口を開く前に少女は「もう私の言葉は必要ないんだね」と言った。

 それでも、少女は私に自由を教えてくれた。

 その矛盾が何を意味するのかは私には分からない。

 ただ、どうしてだろう、前より少女が遠い存在になった気がした。

 すると、少女は何かを察したのか、鞄の中から一冊の本を手渡してきた。

 紙は少し乾いて波打ち、頁の奥に小さな火種がある。

 そこには、一途に愛するということを、幸福のかたちとして説く一節がある。

 胸のどこかがひどく静かになる。


 風が柵を鳴らし、古い水槽の影が伸びる。チャイムの残響が屋根の板金に薄く残り、遠くで鳥が何羽か旋回した。少女は柵にもたれ、しばらく空を見て、ゆっくり口を開いた。


「愛は、顔を持たないものの前で、こちらが顔になることだよ。呼ぶ者が沈黙しているとき、その沈黙の縁を聴く耳をこっちに作る。

 石段の途中に落ちている名もない影に、膝を折って名を呼ぶこと。答えが返るからではなく、返らない向きに手を添える術。そういう仕方で始まる」


「顔を持たないものか」


「うん。顔が見えなくなったって言うけれど、ほんとは顔は消えていない。

 ただ、磨かれすぎた鏡みたいに、こちらの顔ばかり映すから、相手の面影を見失う。

 だから愛は、鏡の前に布をかける稽古に似てる。映りやすさを減らして、気配の手触りを取り戻す。

 相手の上に落ちる光を、こちらの掌で少しだけ遮って、輪郭がふたたび立ち上がるのを待つんだ」


 少女の声は、古い塔の内部を通る風のように、低く乾いていた。


「それからね、欲しがり方は移る。誰かの手が伸びた方向に、私の指も勝手に伸びる。対象は薄れて、伸びる動作のかたちだけが濃くなる。

 三角形の見えない頂点から糸が引かれて、同じ角度で首が傾く。だから愛は、他人の傾きを稽古の型にしないための、奇妙な不調和を引き受けることでもあるよ。

 わざと拍をずらす、歩幅を乱す。美しく歩かないことの美しさを覚える」


「記憶は?」


「人の関係は、すぐ外に吊るされる。紐に結ばれ、しおりになって乾く。そのままだと、こちらの胸で発酵しない。だから、外に掛かった記憶を少し奪い返す。

 紙に書かれた出来事の順番を入れ替え、匂いの方に戻す。火傷の痕や、袖口のほつれに、順番を植え直す。

 長く持たせるってことは、時間を貯めるんじゃなくて、傷に栓をしないことなんだ」


 少女は言葉を切り、遠くのグラウンドに視線を落とした。砂に残る誰かの走り幅跳びの跡を見つめるように。


「そして、出来事は粒だよ。一粒ずつが完結しては消えていく。愛は、その粒の滞空時間を少しだけ伸ばす手つき。落ちる前に、掌の温度で支える。

 連ねて一本の糸に見せかけることもできるけど、本当は毎回、初めての粒が手に落ちてくる。

 綴じる、というより、綴じ直す。連続は出来上がらず、いつも未完成なまま息をしてる」


「写しは?」


「写しは強い。本物の前に来てしまうことがあるから。印影が先に歩き、印が後ろから追いかける。

 人は、整った影を信用する。けれど、影は体温を持たない。だから愛は、わざと不格好な影を選び直す手間。

 斜めから灯りを置き、歪んだ輪郭を、そのまま肯うこと」


 言い終えて、少女は肩で息をした。私は本を閉じ、表紙を手の甲で撫でた。あの一節は、胸の奥でまだ鈍く燃えている。けれど、その文字に指をあてがうことはしなかった。


「育つだろうか」

 少女は首を横に振った。


「今の季節は、芽の上に霜柱が降りる。芽は冷たさを知らないまま出てしまう。

 根は土の奥へ潜れず、表面で凍る。だから、育て方を忘れた庭のように、肝心なところで土が硬い。人は早く実を見たがる。

 花が咲く前に、飾りだけ揃えてしまう。そうすると、風が吹いたとき、飾りが音を立てて倒れ、肝心の苗はまだ小さいから、守りきれない」


「どうすればいい」


「遅くすること。遅くするための工夫を、二人の間だけの密やかさにすること。

 たとえば、言葉をすぐに結論に連れていかない。問いの中に座らせる。相手の沈黙を長椅子にして、その上で待つ。書き残さないやり取りを増やす。

 覚えているしかないことを、増やしていく。目に見えない支払いを増やす」


 少女はポケットから折れた鉛筆を取り出し、屋上の床に細い円を描いた。その円は、風に削られて、すぐ形を変えた。


「それと、所有の気配に抵抗する。相手を箪笥にしまわない。名前の札を貼らない。縫い目をほどいては、渋い糸で縫い直す。

 もし奪う欲が湧いたら、その手を、相手の額の上に置く。奪う代わりに、額の熱に触れる。奪うことと守ることは、手の甲と掌みたいなものだから、ひっくり返せる」


「でも、見えない敵はいる」


「ただ、その敵は、形がないから勝てないんじゃない。こちらが形を求めるから強くなる。

 影に名前を付けた瞬間、影は生地を得て、刀になる。

 だから、名付けない稽古をする。名を呑み込んで、喉の中で温めて、別の呼び方に変える」


 グラウンドの方で風が集まり、砂の小さな渦が肩の高さまで立ち上がる。私は本の小口に触れ、紙の繊維が起こすささやかな音を聞いた。


「君は悲観的だ」


「そう見えるのは、光の当て方が一定だから。明るさばかりが前に出ると、影の位置が嘘になる。

 だから私は、先に影を置く。光は勝手に来る。悲観は光のための下絵なんだよ。

 愛は、腹を割って見せる儀式じゃない。むしろ、割らずに分ける方法を探す儀式。形を崩さず、芯の火だけを渡す。

 手を焼かないための薄布を、二人で織る。焦がさない温度を探す。そのための遅さを、恥じないこと」


 私は頷き、手を差し出す。少女は小さな欠片を置いた。指先に伝わる火は、すぐに消えるものではなく、ゆっくりと皮膚を通して深く沈んでいく種類の熱だった。


「あなたはさっき、本を閉じた。そこに書いてあることは、立派すぎて、ここでは風邪を引く。

 屋上は、立派すぎる言葉をすぐ咳に変えるからね。

 だからここでは、少し荒い言葉で縫う。ほつれても、すぐ直せる糸で」


「あなたの言う荒い言葉は、やさしい」


「やさしさは、包むことじゃなくて、剥かずに触れることだよ。

 皮の外から熱に気づくこと。芽を出させたいとき、土をひっくり返さないで、上に藁を置くように」


 雲が薄く伸び、太陽の輪郭がぼやける。遠くで誰かが呼ぶ声がして、それが風にちぎれていった。屋上は少し冷え、鉄の匂いが濃くなる。


「もし、育たないまま終わるなら、それでも、始める意味はあるのかな」


「芽が出ない春の畑にも、耕した跡は残る。

 次の季節、誰かがその跡を見て、そこに鍬を入れる。

 愛は、収穫の数じゃない。耕した跡の数で測るものだと思う。跡は、奪われない」


「それにね、育て方を忘れた時代でも、二人でだけ通じる作法は作れる。

 たとえば、夜に手紙を書いて、朝には破ること。読むためじゃなく、破るために書く。

 破った破片を、別々に持ち、いつか合わせる。合わせる日を決めない。決めないことで、待つ時間が腐らない」


「作法は、どこまで必要だろう」


「必要というより、祈りに似てる。でも、祈りではない。手順を通して、手を汚さずに相手に触れる工夫。

 手順があるから、こちらの欲が勢いで相手を押しつぶさない。手順があるから、遅さが守られる」


 私は息を吐き、柵の錆に触れた。指先に赤い粉が移る。少女はそれを見ると、笑って自分の指も同じ粉で汚し、二人の指先を軽く合わせた。錆は混ざり合い、どちらの指からついたものか分からなくなる。


「顔が見えないと言うけれど、ほんとは、こちらが目を閉じすぎているのかもしれない。

 眩しさに負けて、瞼の裏で全部を見ようとする。

 瞼の裏の世界は都合がいい。

 だけど、風の方が、頬の温度を正直にする。

 だから、屋上はいい。風が、嘘を剥がす」


 私は頷き、目を開けた。空は薄い水色のまま、どこにも行かず、ただ広がっていた。本の頁の火種は、いつのまにか灰になっており、灰は指先の熱で静かに崩れた。風がそれをさらい、柵の向こうにほどけていく。


「そう思うと、一心不乱に何かを愛し続けて、そのもののために生き続けることが、他の不幸を考えずに、顔を上げさせる力になるんだろうな。

 振り返らずに歩けるようにしてくれる、ただそれだけで十分に素晴らしいんだろうな」


 言葉が屋上の床板に落ちて、薄く響いた。少女はその響きを足先で確かめるみたいに一度だけ小さく踏み、うなずきもせず、空を見た。雲の端が千切れて、白い細片が流れていく。


「そんな人に出会えたら、どれほど幸福だろうね」


 少女はゆっくりとこちらを振り向いた。瞳の色は、洗いざらしの布のように淡い。どこにも焦点を合わせず、しかし逃げもしない目だった。


「心を変えてくれる。いや、変えるというより、心の縁を少しだけ縫い直してくれる人。

 ほどけやすいところを見つけては、夜の糸で結び、朝になったら結び目を軽く撫でて、痛くないようにしてくれる人。そういう人に」


 少女は鞄の口をひらき、さっき渡したはずの本とよく似た装丁の一冊を取り出した。

 表紙は少し擦れて、角に小さな白い傷がある。

 頁の間に薄い栞が差し込まれていて、栞の端には小石ほどの重みが縫いつけられている。

 風に飛ばされないための、ささやかな工夫。


「この本、あげる」


 少女はそう言って、両手で支えながら差し出した。

 渡すというより、体温ごと手渡すように、掌のあいだでしばらく温めてから、私の手に重さを移す。

 頁の奥にあった灰は、もう見えない。けれど、紙はまだ微かに温かく、言葉の影が消え残る場所だけ、指の腹に沈む。


「開くときは、風の来ないところでね。一度に読まずに、目を閉じて、指で頁の縁だけを数える。

 数えているあいだ、心がどちらへ傾くのか、音のない方角を聴いてみる。

 もし迷ったら、今日の遅さを挟んだ頁から読むといい。遅さは、嘘を焼かないから」


 私は本を胸にあてがった。

 紙の香りが、鉄の匂いにゆっくり混じる。

 何かを受け取ったという手応えはあるのに、所有の気配はどこにも生まれず、ただ預かるという感覚だけが残る。

 少女は私の仕草を見て、小さく笑った。


「いつか、あなたが誰かを一心に愛し続けるとき、その人の足元に、あなたの影が重なりすぎないようにね。

 影は涼しいけれど、根を冷やすから。影は横に、少し離して置くといいよ」


 栞の重みを指先で確かめる。風はもう弱く、灰の匂いだけが、最後の一片のように鼻先に残っている。


 少女の髪が風に梳かれ、肩からするりと落ちた。

 空は相変わらず薄く、どこにも行かず、ただ広がっている。本の重みは、胸の骨に静かに沈んで、まだ名のない鼓動を包んだ。

 私はそれを抱え、柵の錆に触れ、指先の赤い粉をそっとぬぐった。

 少女は何も言わず、ただ同じ粉を指につけて、軽く指先を合わせる。

 混ざった色は、どちらのものでもなくなり、風に解けるほどやわらかくなった。

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