灰と聖女と神ならざる声
少女が捨ててゆく本を、私はよく読むようになった。
指の脂で曇った頁、爪の浅い傷、余白に残るかすかな鉛筆の粉。
その擦れた跡に触れていると、どうしようもなさに押し流されず、私だけは別の岸に立っていられると、かろうじて信じられる。
活字の谷間に一本だけ垂れる糸をたぐるように、世界から身をほどく手つきだけが、ここには許されている気がする。
だから私は読むことにとどまり、行為へは踏み出さない。踏み出した途端、私は誰かの救いを引き受け、神のふりをすることになるだろう。
善さの衣を借りて他人に影を落とす、その滑稽に耐えられない。
頁を繰るたび、私は無名の臓器のように静まり、誰の掌にも置かれないままでいたいと願う。
けれど、紙の白さはいつも広場の白へと続いていた。綴じ糸は目を離した隙に縄へ変わり、余白の風が喉の高さで輪を結ぶ。だから最初に吊されたのは、私の自由だった。
広場の中央、紐は乾いた骨の音で喉を締め、舌は黒い旗のように垂れた。
風が吹くたび、死体はゆっくりと頷き、私はそれを合図のようにして立ち尽くした。
この世界には鍵がない。扉は最初から壁に描かれた絵で、取っ手は冷たい幻だった。
彼らは円をつくる。石の輪、胸骨の輪、言葉の輪。
輪の中心には古い祭壇がある。そこで誰もが知っているはずの儀礼が始まる。
供えられるのは疑い、捧げられるのは沈黙。
刃が走り、温いものが溢れ、地面の砂が赤く膨らむ。
しかし、その日、祭壇の上の者は死に切らなかった。
土は口を閉じず、石は重みを受け入れず、夜明け前に蓋が鳴って開いた。
戻ってきた傷口は開いたままで、誰もそれを縫えず、誰もそれを忘れられなかった。
犠牲が眠らないとき、群れは鎮まらない。
罪の川は海へ落ちず、同じ岸辺を舐め返す。
だから人々は、次の喉、次の皮膚、次の骨を探しに行く。
「まだ足りない、まだ足りない」
血が冷えるより早く新しい熱が求められ、器は割れ、欠片の鋭さだけが増えていく。
救いは終わりの印ではなく、続行の号砲になった。
むしろ眠らない犠牲は、群れの内部に終わらなさの病を埋め込む。
誰か一人で終わらなかったものは、誰でもない多数で引き延ばされる。
他方、別の輪は内へ向かって静かに閉じる。
そこでは誰も互いの喉を求めない。
欲望は同じ方向へ梳かれ、兎毛のように整えられ、揃いの歩調で外へ向けて尖らされる。
内部の火花は掃き集められ、炉は冷えたまま、燃やすべき薪はいつも外の森にある。
彼らの合言葉は鋲のように整列し、胸板に深く打ち込まれて、抜けることを知らない。
輪の中でぶつかり合いは起きない。ぶつかる以前に誰もが同じ形へ削られているからだ。
角は削がれ、面は合わせられ、異なる拍動は同じ太鼓に縫い付けられる。
衝突しない欲望は、ひとつの矢に束ねられる。
そして矢は、戻るための羽根を切り落とされ、放たれた方向にしか進めない。
止める者がいない。止めようとする指は、先に合言葉で縛られている。
輪の外へ声を投げれば、それは裏切りの音として跳ね返り、投げた者の胸骨に突き刺さる。
やがて誰も声を投げず、ただ同じ沈黙の形を口に含み、同じ沈黙を吐く。
沈黙は命令より強い。なぜなら、命令は誰かのものだが、沈黙は皆のものだからだ。
こうして彼らは衝突を失い、摩擦のない木片のように、ひとつの斜面を滑っていく。
滑りはやわらかく、楽で、気がつけば崖の縁で足が空を掴む。
そのときになっても、誰もぶつからない。落ちる向きが、すでに揃っているからだ。
私は砂の上に耳をつけ、地中の轟きを聴いた。
轟きは言葉になる前の叫びだ。胎児の指が羊水を掻く音のように、世界は小さな暴力で満ちていた。
誰もそれを罪とは呼ばない。呼び名が与えられる前に、轟きはもう次の地層へ潜り、別の場所で地表を裂く。
名を持たないものは、責められもしないし、赦されもしない。
それがこの世界の均衡であり、私の自由が最初に吊された理由でもあった。
自由とは何か。
それは選ぶことではなく、選べないことを引き受けるための細い筋で、吊される前から首に巻かれていた糸の名だったのかもしれない。
私は幼い頃、海辺の石を拾っては投げ、波が返す冷たさを掌に覚えた。
波はどれも同じ顔をしていた。だが、今思えば、それらは同じ必然の別名だった。
自由は波の白さにまぎれた泡で、浜に届く前に音もなく砕けていた。
円は二つ。
ひとつは、眠らない犠牲を抱え、永遠の喪に甘やかされる輪。
もうひとつは、内面を磨り減らして衝突を失った輪。
前者は終わる方法を持たず、後者は曲がる方法を持たない。
ひとつは止まる術を失い、もうひとつは曲がる術を喪い、両方とも進みつづけることだけを覚えた。
進むことが生であり、進まないことが死だと教えられた群れに、立ち止まる自由はない。
進み方を変える自由もない。
あるのは、歩幅を合わせる義務と、足裏に刻まれた地図だけだ。
私はその地図を剥がそうとして、皮膚を破り、血に濡れた線を舐め取った。
味は鉄、匂いは古い井戸。
そこに描かれているのは、見知らぬ手が千年かけて彫った一本道で、
傍らには、花束の腐肉、祈りの灰、折れた棍棒、無数の爪。
剥がせば剥がすほど、地図は内側から新しく現れ、
最後には、私の内臓そのものが道程に見えてくる。
肉は道、骨は橋、血は案内の赤い糸。
私がどれだけ拒んでも、私の中の川は私を流すことをやめない。
輪の外へ逃げた者たちを、鴉が追い、地平が嘲り、夜が追い返す。
逃げ場など最初からなかった。
砂漠のどこに立っても、足元には別の輪の影が落ちる。
影は私の影と合わさり、もうどちらが誰のものか分からなくなる。
私はある日、影に向かって話しかけた。
「お前は私か」
影は答えない。だが、私の口は影の形で動く。
言葉は遅れて出てきて、砂を傷つけ、すぐに風に消される。
ああ、ここにはほんとうに自由がない。
自分の口の動きすら、どこかの輪の練習にしか見えない。
眠らない犠牲の側では、誰かが夜ごと墓に耳を当てる。
「まだ息がある」
そして明け方、また合図が鳴り、輪は集まり、手は刃物を磨き直す。
憐れみは疲労へ、疲労は憎しみへ、憎しみは規律へ、規律は血の節約へ変わる。
やがて手は覚える。刃の角度、骨の接合、臓腑の抜きどころ。
熟練の慈悲は、殺しを静かに、美しくする。
美しくなった暴力は、祭服のように群れを正しく見せる。
その正しさが、眠りのない朝焼けをまた呼び寄せる。
衝突を失った輪の側では、口々に同じ言葉が燃え、
火は煙を出さず、熱だけが残る。
熱は外に向かって、誰かの背に押し付けられる。
その背は、最初は木偶、次には犬、最後には人の形をしてくる。
誰の背でもかまわない。意味が外に見えれば、内側は清潔のままでいられるからだ。
こうして内は永遠に無垢であり続け、罪は常に外側の天幕に貼られる。
天幕はやがて焼け、煙となって空の色を変える。
だが内は色を失わない。目を閉じれば、目蓋の裏はいつも白い。
私は二つの輪の境目に座る。
片方の耳には眠らない墓の喘ぎ、もう片方の耳には整列した言葉の靴音。
両方の音は合流して、私の胸郭をとんとん叩く。
心臓は臼だ。
臼は粉を選ばない。ただ与えられた穀を粉にする。
粉になったものだけがパンになり、口に入る。
粉になる前の名は、ここでは何の価値もない。
私は私の名が臼で砕かれて粉になっていくのを見た。
舌にのせると、すこし甘く、すこし塩からい。
自分の味は、自分で決められない。
やがて私は悟るふりをやめ、悟ることそのものをやめ、
最後に残った小さな悟りを、骨に書きつけて夜明けを待った。
「止まらないのは、止めるための死が生き返るから。
止まらないのは、内が外にぶつける欲を、内で争わないから。
止まらないのは、道が私の中にあり、私が道の中にあるから。
止まらないのは、止まる自由が生まれる前に、自由が絞め殺されているから」
朝、広場の紐は昨日よりも磨かれていた。
私は自由の遺体を見上げた。
死者は軽い。だが、この死はやけに重かった。
多分、中身が空だからだ。
空には空の重さがある。風が通るほど、吊されたものはよく揺れる。
その揺れに合わせて、地面の影も揺れ、影の揺れに合わせて、私の内の川がまた流れる。
私の足は前へ出る。私は止められない。
止めたいと願う自由が最初に殺されたから。
私は前へ出る。二つの輪の合流点へ。
そこはいつも湿っていて、いつも温かく、いつも匂う。
世界の臍のあたり。
生まれ直すことも、生まれ切ることもできない場所。
私はそこで、もう一度、自分の名を粉にし、粉の中に顔を埋め、息を止める。
しかし肺は勝手に働き、胸は勝手に持ち上がり、私の体は私の意志を裏切って、生を繰り返す。
ここには自由がない。
生き返る死と、衝突のない欲と、私の臼だけがある。
その三つが、世界を挽き続ける。
そして粉となった世界は、今日も見知らぬ口に入っていく。
噛む音がする。嚥下の影が喉を滑り降りる。
私の中の川は、その音に合わせてまた速くなる。
私は、止められない。
たぶん、誰も。
旧校舎の屋上は、夕さりの風にゆっくり磨かれていた。
錆の匂いと、古い木の床のやわい軋み。私は欄干にもたれ、胸の内でこぼれ続ける問いを、口には出せずに握りつぶしていた――本を読み、言葉を覚え、自由を追えば追うほど、望む自由は遠のいていく。
こんな愚かさが世界に満ちているなら、自由なんて誰にも届かないのではないかと。
「肩が、昨日より重いね」
背後から少女の声。
振り向くと、彼女は風下で髪をまとめ、屋上の隅の低い庇に腰をおろしていた。
薄い影が彼女の足首を包み、あたりは淡い金に染まっている。
「私は自由を求めるほど不自由になるんだと思った。
みんな同じように燃えて、同じ灰になる。
だから怖い。世界じゅうがこの調子なら、私たちが自由になれないのかもしれない」
「恐れは、耳を澄ます合図になるよ。」
「でも、合図の先で何を聞けばいいの」
彼女は手のひらを広げ、空の色をすくう仕草をした。
「自由って、旗じゃない。奪い合う布じゃない。もっと小さくて、息に近い。
誰かの声に引っぱられて胸のひもが硬くなるとき、自分でその結び目をゆっくりほどける余白。その少しだけの余白を、毎回選び直せること」
「選び直す……」
「うん。大きな正しさで世界を一度に洗うんじゃなくて、いま目の前の一滴を澄ますこと。
石を投げて波を起こす代わりに、しずかに水面を見守ること。勝ち取るって言葉の柄を、少し手放してみること」
私は欄干に額を預ける。
「それだって結局、何かの教えに聞こえる。また別の輪に入ってしまう気がする」
「輪から出なくていい。外へ飛び出すことが自由じゃない。輪の中で、踏み鳴らす足の速さを自分で決めるのが自由。呼吸を奪われそうになったら、ひとつ息を遅らせる。
誰かの視線が胸に針を立てたら、その針をすぐに抜かず、まず刺さった場所を確かめる。そういう小さな手つきの総和を、私は自由って呼びたい」
「でも、私たちは愚かだよ。本を読んで賢いつもりになって、また別の言葉に焼かれる」
「賢くならなくていい。自分の愚かさに名をつけて、隣に座らせておけばいい。
追い払わないで、ただ隣に置いておく。そうするとね、愚かさは石臼みたいに静かに回って、でも君の手首までは奪わない」
「手首?」
「うん、手首。頁をめくる手、誰かの背を撫でる手、欄干をつかむ手。
世界は時々、君の腕ごと引きちぎろうとするけれど、手首の角度だけは君が決められる。そこにだけ、光が一筋差す」
「小さすぎない?」
「小さいよ。だから燃えないんだ。大火に投じる薪はすぐ黒くなるけど、露は燃えない。
露であり続ける工夫を、自由って呼んでもいい」
私は息をついた。風が裾をすべっていく。彼女は靴の先で古い苔を触り、つづけた。
「君が見ている怖れは、正しい形をしているよ。
世界に同じ足音が溢れているとき、自由は野原の真ん中では見つからない。
見つかるのは、屋上の隅みたいな、誰も目を落とさない場所。
音の少ないところで、君の胸の小鳥がどう跳ねるかを観ていればいい」
「小鳥は、すぐ騒ぐ」
「うん。騒いでいい。大切なのは、誰の手に驚いて跳ねたのか気づくこと。
外の手か、内の手か。外の手に跳ねたら、君は何かを守っていた。
内の手に跳ねたら、君は何かを手放せる。どちらでも、君が決める」
「決められるのかな。世界の声は大きいのに」
「大きい声は、風と一緒。風は止まらない。
でも君は、風の向きに背を向けるか、顔を向けるかを選べる。目を閉じるか、開くかも選べる。
たったそれだけの選択が重なると、いつか歩幅が変わって、君を囲む輪の形がわずかにずれる」
沈黙が落ち、木の床がひとつ鳴った。茜の色が深くなり、彼女の髪に赤い糸が混ざる。
彼女は空を見ずに言った。
「君が本で見つけた言葉は、君を傷つけもするし、護りもする。
否定しなくていい。
ただ、その言葉が君の喉を締めるときは、舌の裏に小さな隙間を作っておいて。
そこから息が逃げる。逃げた息の細さを、私は自由と呼ぶ。」
唇の形がすこし変わるのを感じた。
「世界が君のように恐れないなら、自由は砂に埋もれてしまう。だから、その不安を捨てないで。
捨てないまま、手首の角度だけを毎日選んで。今日は少し緩く、明日は少し固く。それで充分だよ」
「充分?」
「うん。君の自由は、君の歩みに間に合う。
勝ち取るよりも先に、間に合う。そういう自由もある」
風が止み、屋上は一瞬だけ澄んだ器のようになった。
私は欄干から手を離し、指をひとつ折り、またひとつ伸ばす。
小さな関節の音が鳴った。
彼女は何も言わず、同じ音を指先で真似た。
二つの音が重なって、すぐ消えた。
消えたあとに残る静けさが、私にははっきりと分かった。そこに、彼女の言う自由がたしかに座っている気がした。




