少年の沈黙論と少女の終末論
最近の少女は、頬の下だけがいつも重い。
秋になると読書ができず、今に指が触れなくなるせいかと思っていたが、どうも違う。
少女の言葉が、あまりにも大事なものを殺しすぎるのだ。
真っ直ぐすぎる刃は、ひろがりを捧げてでも、ただ一箇所に届こうとする。
その重さに耐えきれず、思いは形を崩し、切り分けられた欠片だけが私の前に並ぶ。
読み取ろうと目を凝らすほど、文字は水に溶け、音だけが流れ去っていった。
少女はいつも旧校舎の屋上にいる。
そこが少女の聖域なのだと言わんばかりに。
少女にとって詩だけが救いなら、場所を求めることは矛盾する。
それなら形式に恐れる理由もない。
ここで初めて、何か別の要因があるのだと知った。
すると少女が、また私の存在を消す言葉を話す。
「ねぇ……前から思ってたけど、貴方って賢いよね。」
「まぁ、知識を蓄えるって面では誰よりも優秀なんだと思うけど、最近はそんなのになんの意味があるのかが分からなくなる。」
「何度か、無理やり言葉を引き出したりしてたでしょ。」
やはり、バレていた。
少女は同意のない干渉を嫌う。
だから、私は自分の求める答えを導くように、言葉を入れ替えていた。
「怒ってるんじゃないんだけどね。
けど、貴方の言葉の血生臭さが前から好きになれなかった。
詩は無限の可能性があるからこそ美しくて、世界は可能性があるって思える生命線なの。
けれど、それを一つの道かの様に語るなら、私は貴方をここから投げ捨てなきゃいけない。
それが間違ってるだなんて、思わない。
それが貴方の辿り着いた答えなら、それでいい。
でもね、それを話したら、貴方はもう戻れなくなる。」
──風が、言葉の残骸を運んでいった。
その音を聞きながら、私は自分の中に沈んでいくものの正体を、ようやく掴みかけていた。
少女があの頃から少しずつ変わっていったのは、もしかすると、私のせいなのではないか。
私が少女の詩を理解しようとしたとき、すでに誤りは始まっていたのかもしれない。
私は詩を、思考の延長として扱っていた。
だが、詩は思考の外側にある。
それを論理の枠に収めようとした瞬間、詩は言葉を失い、ただの標本になる。
少女の語っていた広がりは、もしかすると、その死を拒む最後の呼吸だったのだろう。
私が分析し、定義し、分類するたびに、少女の中の世界は少しずつ狭まっていった。
詩を理屈で語ることは、詩を信仰で縛ることと何が違うのだろう。
私は考えていると思っていた。
だが、もしそれが思想の模倣であり、借り物の秩序でしかなかったなら、少女にとって私は、詩を奪う者でしかなかったのだろう。
だから少女は、私に広がりのある言葉を使うのをやめたのかもしれない。
──あのときの、少女の、私の居ない様に扱う語りは拒絶ではなく、世界を一つの意味に閉じ込めないための、最後の抵抗として。
──そして思った。
この独白こそが、少女を殺そうとしている正体なのではないかと。
理解したいという欲が、最も残酷な暴力になる。
言葉の意味を掘り下げるたび、少女の声は形を失っていく。
考えるほど、少女は遠ざかる。
その距離を思索と呼ぶのは、きっと言い訳だ。
私はまだ、生きたままの詩を解体している。
そしてその手つきが、少女の喉を静かに締めつけている気がした。
もし、それで少女が閉塞感を覚えたのなら、私はもう、言葉で説明してはいけないのだと思う。
だから、伝えるのではなく、示さなければならない。
沈黙のなかに灯る小さな動きで、風の向きで、視線の深さで、まだ壊れていないものを確かめるように。
「……多分、それは覚悟の話なんだと思う。」
「覚悟?」
「うん。自分の最愛のものを全て殺す覚悟。」
笑おうとしたが、どう笑えばいいか思い出せなかった。
「貴方にとっての言葉って、何なの?」
夕焼けが少女を輪郭だけの存在にする。
「…… 夢の残滓かな。」
風が吹いた。
その声がどこまで届いたのか、もう分からなかった。
「私たちみたいな人は、終末を観測者なんだよ。
前までは、私みたいな人を救える可能性を上げるために書いてるのだと思った。
けれど、それはあまりに欺瞞的だなって思ったんだ。」
秋の冷えた空気を肺に入れる。
少し息を詰め、空を見上げる。
「誰かに届く確率を上げたいなんて、まるで言葉を確率論の上に乗せて、救いを統計化できると思ってた。
けど、そんなものは幻想だった。
満遍ない知識なんて存在しない。
言葉は網のようなもので、何かを掬い取るたびに別の何かを零す。
掬いながら、零していく。——僕らが生きるっていうのも、きっとそれと似てるんだ。」
風が制服の袖を鳴らす。
少年はもう一度息を吸い込み、少し笑って言う。
「だから、私にとって言葉っていうのは、零れ落ちたものの形なんだ。
掬えなかった想い、名付けられない痛み、届かなかったはずの誰かの気配——
そういう抜け落ちの跡を、どうにかこの世界に留めようとする仕草なんだと思う。」
少し目を伏せて、続ける。
「言葉を発するたび、僕はひとつの無限から、ひとつの可能性を殺してる。
それでも、何かを言わずにいられない。
言葉を持つというのは、沈黙を抱くことと同じなんだ。
どんな詩も、どんな哲学も、言えなさの輪郭を撫でてるに過ぎない。
つまり僕は——救いなんて書けやしない。
けど、救えなかったものを抱え続けることなら、できるかもしれない。」
風が止まり、沈黙が落ちる。
「孤独って言葉を使わなくなったのも、そのせいだよ。
名前を与えた瞬間に、感じることが死んでしまう。
名付けられないまま胸の奥で疼く、それこそが生なんだ。
読書も同じだと思う。
本を読むことは、何かを救うためじゃない。
何も救えないという事実に耐えられる身体をつくるためなんだ。
それが、読むことの中毒性であり、同時に無効性でもある。
癒しじゃなくて、無力さの輪郭をなぞるような、そんな営み。」
少年は、私の目を見てわずかに視線を逸らす。
「再読したくなる言葉っていうのは、正しさのためじゃない。
なぜかもう一度触れずにいられない何かがある。
再読が避けられないものだけが正典になるって。
僕にとって言葉は、その避けられなさの化石みたいなものなんだ。
論理じゃなくて、衝動で書かれる。
知識じゃなくて、記憶に残る傷跡として書かれる。
それを読む誰かの身体の奥で、いつかまた疼くように。」
小さく笑い、遠くを見つめる。
「落ちぶれた言語ってあるだろ。
流暢で、正しくて、社会的に滑らかで、何も驚かせない言葉。
脳はそれを好む。予測できるから、安心する。
でも、その言葉に慣れるほど、僕らは感じ分ける力を失っていくんだ。
だから僕は、少しだけ痛い言葉を使いたい。
触れた瞬間に違うと感じるような——誤差のように、身体の奥で疼くような言葉を。」
「……それでも書くの?」
「うん。書くことは、世界との関係を思い出すことだから。
読まれるかどうかじゃなくて、この言葉を紡ぐことで、僕はまだ誰かと繋がれると信じられる。
本も、人も、世界も、どこかで繋がっている。
たとえそれが、もう届かない誰かだったとしても。」
小さく息を吐いた。
「私にとって言葉は、世界からこぼれ落ちた祈りの断片であり、救いを諦めた後に、それでも残る温度そのものなんだ。
それが詩であり、哲学であり、そして、まだ生きているという証明なんだと思う。」
私はしばらく何も言わず、ただその言葉を聴いていた。
夕暮れが降りてきて、光が屋上の柵に沈む。
世界の輪郭が少しずつ薄れていく中で、あなたの声だけが残っていく。
「言葉っていうのは、消えていくものを、もう一度信じようとする行為なんだと私は思う。」
あなたの言葉は、零れたものの跡をそっと撫でて、世界に残る温度を確かめる手つきだった。
わたしの言葉は、その手つきが触れずに行き過ぎた空白に、仮の名を置いてはすぐ消す。
常に描かれ続ける絵を、白い絵の具で塗り潰す。
そんな呼吸。
あなたは言えなさを抱えて立ち止まる。
わたしは言えなさの髪をほどいて、ほどけた糸を別の結び目にしてみる。
——違いはたぶん、その一歩ぶんの図々しさ。
あなたは確率を捨て、救えなかったものを抱くと言った。
わたしは、抱く腕に残る痣の模様まで書きたい。
抱く姿勢が残す歪み。
皮膚に沈む指の跡。
そこにだけ起こる小さな気象——
名前にした瞬間、死んでしまうものがあると知りながら、
なお、仮の名札をピンで刺す。
あなたは孤独という語を捨てる。
わたしはその語を裏返してみる。
縫い目のほつれ、裏地の毛羽立ち、タグの硬さ。
単語の裏面は、まだ肌に触れていない。
触れてみて、擦れて、赤くなったところでやっと手放す。
そうしないと、手放したことすら記憶に残らない気がする。
あなたは流暢で滑らかな言葉を疑う。
わたしは、わざと段差のある文章で膝を打つ。
転ぶと視界が斜めになる。その斜めからしか見えない窓が、世界には驚くほど多い。
だから、読みやすいという親切を、時々は断る。
親切の多くは、わたしから不自然さを奪いに来るから。
あなたは再読が避けられないものを信じる。
わたしは再読しないと壊れてしまうものを信じる。
一度きりでは形を保てない器のような文章。
朝は水を、夜は砂を受け、翌朝にはひびの場所が変わっている。
壊れやすさの地図が、正しさの地図より長持ちすることを、身体が知っている。
あなたは沈黙を抱える。
わたしは沈黙の端を、少しだけ破る。
破れから入る風が、言葉の火を大きくも小さくもする。
火加減は、読む人の胸の空洞で決まる。
だからわたしは火を渡すだけで、暖め方は決めない。
あなたは世界と繋がるために書く。
わたしは世界の繋がらなさを見えるようにするために書く。
繋がらない二点のあいだに線を引かず、ただ距離を数える。
三歩と半歩、あるいは息を七つ。
距離そのものが、わたしたちの物語になることがある。
線がなくても。
あなたは予測できる言葉の安堵を疑った。
わたしは、予測できない行為の不自然を、物語のために擁護する。
現実のおかしさは、世界を壊す裂け目。
けれど物語では、その裂け目からしか光が差さない。
誰もがしないことを、たった一度だけ誰かがしてしまう、その瞬間の跳躍。
説明の梯子は後から掛ければいい。
飛んだという事実だけが、心臓を速くする。
文学に必要なのは、時々、心臓だけだ。
あなたは救いを統計から外した。
わたしは救いを儀式から外す。
答えが要らない夜にしか働かない文がある。
夜の文は、朝の目には読めない。
それでいい。
朝がすべてを測る物差しになったとき、夜の発見はみな嘘になるから。
あなたは祈りの断片を残す。
わたしは祈り方を忘れる方法を書く。
正しい祈り方があると信じた途端、祈れなくなる。
だから、膝の角度も、指の組み方も、声の高さも、毎回ずらす。
祈りは、不器用なほうが遠くへ届くことがある。
均一な声は、天井で丸まるから。
あなたの言葉は、救えなかったものを抱く温度。
わたしの言葉は、抱けなかったものが置いていった体温の跡。
似ているようで、順番が逆だ。
あなたは抱いてから測る。
わたしは痕跡を測ってから抱く。
どちらも遅い。どちらも間に合わない。
けれど、間に合わなさの連続が、わたしたちを人間にする。
間に合う物語だけが流行るとき、人間は誰にもならない。
最後に——あなたが捨てた言葉を、わたしは拾って海に投げる。
拾っては投げ、投げては波から戻され、濡れた字が崩れる。
崩れた字の形が見たことのない鳥に似ているとき、わたしはそれを詩と呼ぶ。
あなたが抱いた沈黙の隣で、その鳥は少しだけ鳴く。
鳴き声は意味にならない。
意味にならないまま、わたしたちの肺を通り抜け、遠くの知らない誰かの胸に、同じ湿り気をつくる。
それで充分だと、わたしは思う。
救いではなく、湿り気。
正しさではなく、火傷跡。
繋がることではなく、距離が残した痛みの地図。
あなたのやさしい遅さと、わたしの図々しいずれが、
同じ夜を少しだけ延ばすのなら——
その夜の果てでさえ、まだ言葉は、生きているふりをしている。
気づけば、屋上から少年はいなくなっていた。
風が欄干を撫で、落ち葉がゆっくりと舞い降りる。
秋の終わりが、まるで胸の奥で静かに腐っていく果実のように、鈍い痛みとなって沈んでいくのを、ただ見ていた。
本を開く。
ページの白さが、どこか冷たく、もう取り返せない時間の温度を写しているようだった。
言葉が生きていると思えば思うほど、その命は遠くへ逃げていく。
まるで、救おうと差し出した手を、時間そのものが拒むかのように。
風が過ぎるたび、少年の影が少しずつ薄れていく。
それでも私はページを閉じられず、消えていく声の残響だけを、何度も胸の内で反芻していた。




