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切り捨てた色彩で描く形式の化け物

少女の顔は、輪郭だけは掴めるのに、肝心の中身がいつも霧に沈む。

 いや、見ようとするたび、こちらの眼が先に逸れてしまうのだ。

 顔とは、本来、条件もなくこちらへ何かを投げかけてくる器官で、

 言葉より手前の震えに、もう返事が始まってしまう。

 そのわずかな身震いさえ、少女は読み取り、

 世界の外縁へ、そっと手を伸ばして導こうとする。

 そんな少女でさえ、この世界のかたちに絡め取られることを恐れていた。


 あのときの少女の言葉は、きっと私に向けたものではなかった。

 重力を感じたあの日の私は、きっとあんなふうに映っていたのだろう。

 そう思うと、少女が恐れるものに、私もどこか他人事でいられなくなる。

 少女がもし、私と同じ岸辺に立っているのなら——助けるべきなのか、わからなくなる。

 けれど。

 いらないお節介と振り払われるだろうとわかっていても、きっと手を出してしまう。

 それが自己満足だとしても。

 君の言葉にならないと割り切った色彩は、どんな絵を描くのか。

 そのことばかりが、頭を占めて離れない。

 君の描く絵の輪郭を思い出すたび、ほかの誰かの顔が、奇妙に空白を抱えて見えるようになった。

 人と話していると、どこかで指の皮が剥がれるような違和感がある。

 分かってほしいとは少し違う。

 白と黒の模様を見つめていると、不意に誰もいない部屋へ押し込められるような感覚に襲われる。

 理由を探っても、出てくるのは中途半端な答えばかり。

 だから私は、少女の顔を確かめるふりをして、

 ついでに自分の考えを差し出し、彼女の思考を引き出すことにした。


「前に言ってたよね。

 この時代だと遅いは悪だって。

 だから、置いていかれる感覚が、社会的な死に似た孤独なのかなって。」


「孤独は、声にならないから孤独なんだよ。君も知ってるでしょう。

 あの劣等の痛みは、誰にも手渡せない。

 世界は抜け出せと命じ、抜け出せない者には死を与える。

 だから人は、自己憐憫を覚えたの。」


 ——うまく、釣り上げられた。


「でもさ、自己憐憫だって、一つの生き方じゃないのかな?」


「その場所が、誰も踏み込めないほど奥まっていればいるほど、人はすがりつきたくなる。

 けれど、人はそこで、壁を同情で厚くすることしか考えなくなる。

 それを居心地の良さと呼びながら。

 でもね、その安全を守るためなら、人はどんな化け物にもなれる。

 だって、この世界はたった一つの視座しか与えてくれない。

 止まらない世界に合わせて、心まで止まらなくされていく。」


「そして、世界は止まる者の首を、形式の鎖で締めつける。

 貴方が良くなるために、前を向けるものを体に馴染ませようとする。

 それを呑み込めば、もう少し楽に呼吸できるからと。

 そうして、世界は再び君を歩かせる。

 誰も、形式がいかに人を殺すかを見せない。

 だから、誰も解決しない。

 格差も、争いも、衝突も消えない。

 それがこの世界を世界たらしめる構造なんだ。」


「誰も見ない場所で、私たちが紡いだ形式を、誰もが他人事だと思うことで成立させる。

 作った人は、もうこの世界にいないのに。

 決して止まらないレールの上で、滅びすらも惰性で続いていく。

 その止まらない世界は、常に他者を奪う。」


 少女の中から、また私が薄れていく。

 最近の少女は、言葉の端がどこか擦れている。

 何があったのか、私には分からない。

 ただ、私の腕を掴む指先の力だけが、静かに何かを訴えるように強くなっていた。


「他者を感じないまま生きてると、例外が来た瞬間、ひとは平気で化け物になる。

 しかも自分では正しい側に立ったつもりで、笑顔のまま。

 それがいちばん残酷だ。」


「化け物って、あの怖い話みたいな?」


「違う。牙も角もいらない。

 必要なのは手順と自分への免罪。

 普段から、顔のない情報にだけ触れる。

 数字、矢印、印、期限、評価。

 それらに向けて反射で動く癖をつける。

 それで十分。

 例外が来たら、あとはその癖が全部をやる。」


「癖が全部を?」


「例えば、街が暗くなる。音が止まる。

 見慣れた道に、知らない列が生まれる。

 列には札が立つ。優先、後回し。

 君は迷わない。優先の札を選ぶ。

 理由は簡単。そのほうが秩序的で皆が助かる。

 目の前で、札のない母親が子を抱えて震えていても、視界から外す。

 例外を作ると崩れるという魔法の言葉で、目を閉じる。

 ——こうして、人は化ける。

 誰も見てないうちにじゃない。みんな見てる前で。

 しかも拍手まで起きる。よくやった、冷静だ。」


「それは……仕方ない選択かもしれない。誰も全員は救えない。」


「その仕方ないが、ひとを殺す鍵になる。

 仕方ないからと口にした瞬間、君は自分の痛みを切り離す。

 切り離された痛みは、心の隅で腐りはじめる。

 匂いは出ないように、きれいな理屈で包む。

 全体のため、手順通り、責任は上に。

 口当たりのいい言葉で、腐敗を封じる。

 そして、次の仕方ないが来たとき、人はもう何も感じない。

 感じないまま、正確に動く。

 正確さは称賛される。

 称賛されるたび、化け物の皮膚は滑らかになって、爪の跡が消えていく。」


「でも、感じすぎて動けないほうが、もっと悪いことになるかも。」


「感じすぎるって言葉も罠だよ。

 わたしたちは、感じない訓練ばかり受けてる。

 鈍くする、曖昧を嫌う、泣きを間引く、沈黙を許さない。

 笑い方、返事の速さ、正しい姿勢。

 こじれは不良品として返品される。

 だから、例外が発生すると、真っ先に捨てられるのは人間の事情だ。

 人と違う歩幅、人と違う呼吸、人と違う夢。

 全部、遅延、リスク、ノイズ。

 善意のための刃は、いつだって滑らかで、よく切れる。

 血が出にくいから、気づかれない。」


「例外って、そんなに頻繁に起きるのか?」


「起きる。戦争、事故、災害、渋滞、病、噂、炎上、停電、値上げ、欠品。

 そして、もっと小さな例外。

 遅刻、うっかり、噛みしめた歯、目の下の隈、泣きそうな声。

 この世界は例外だらけだよ。

 なのに、わたしたちは平常しか学んでいない。

 平常の作法で例外を殴るから、人が壊れる。

 壊れた音は、たいてい自己責任ってラベルで回収される。」


「自己責任……。」


「便利だよね、その言葉。

 人はそれを口にするたび、自分の手の血を見ずに済む。

 本人の問題と呟けば、眠りは深くなる。

 深い眠りのあと、朝になれば、また人は正確に働く。

 正確さは社会を動かす。

 でも、それは同時に、他者の顔を見ない技術でもある。

 顔を見ないから、例外のたびに君は平然と踏める。

 踏む感触がないほど、効率は上がる。

 効率が上がるほど、人は頼られる。

 頼られるほど、化け物は立派に見える。」


「じゃあ、どうすればいい?

 いざという時、誰かを置かないと全員が死ぬ場面だってある。」


「置く場面はある。

 でも、置く前にやれることは、普段にしか育たない。

 普段から、他者に触れておく。

 触れるっていうのは、慰めの言葉じゃない。

 相手の遅さを待つこと、相手の言いよどみを最後まで聴くこと、相手の不格好を笑わないこと、相手の沈黙を“攻撃”と決めつけないこと。

 それらは全部、時間がかかる。

 時間がかかるものは嫌われる。

 嫌われるのを受け入れてでも、やっておく。

 そうしないと、例外のとき、君の手は待つという選択肢を思い出せない。

 思い出せない手は、刃物より先に動く。」


「でも、待つことで誰かが死ぬなら?」


「君は今、極端を並べて自分を守ってる。

 わたしも同じことをしたいよ、本当は。

 でもね、知りたくない真実を言う。

 誰かが死ぬのは、たいてい待ったからじゃない。

 普段から削られていた余白が、そこにないからだ。

 余白のない社会は、例外が入る穴もない。

 穴がないから、圧が一気に別の弱いところに噴き出す。

 行き場を失った圧は、最も声の小さい喉を破る。

 破れた喉を見て、人は言う。時間がなかった。

 違う。時間はあった。

 平常の日に、余白を削った時間が積み重なっていた。

 それを生産性っていう綺麗な布で包んで、見えなくしてただけ。」


「刺さるな……。」


「刺さらなかったら、わたしは嘘をついてる。

 他者を感じない時間が長くなるほど、人は自分だけは例外でいたいと密かに願いはじめる。

 本当は誰だって、自分の番だけは飛ばしてほしい。

 それは卑怯じゃない。怖いのは、生き物として当たり前。

 でも、その願いを自覚しないでいると、いざ例外が起きたとき、人は自分を最優先にするスイッチを無意識で押す。

 しかも、そのスイッチを公共心のラベルで飾る。

 わたしが動かなければ崩壊する。弱さに同情してはいけない。

 美辞麗句の皮を被った自己優先。

 これが、化け物の糧になる。」


「そんな自分にはなりたくない。」


「誰だって、そう言う。

 でも、なりたくないは宣言であって、訓練ではない。

 訓練は地味だ。

 列を崩さずに、列の外から声を拾う練習。

 正しさの前で、ひと呼吸分だけ遅れる練習。

 効率の前で、あえて手間をかける練習。

 安全の前で、自分の恐怖を名指しする練習。

 それができないまま例外に入ると、君は正しさの鎧で殴る。

 殴ったあとは、驚くほどぐっすり眠れる。

 眠りの中で、心は静かに小さくなる。

 小さくなった心は、次に目覚めたとき、寒さを感じない。

 寒さを感じない者は、火の前に手を差し出さない。

 火の前から退いた手は、誰かの凍えに気づかない。」


「じゃあ、今日から俺は——」


「その癖も、化け物の仲間だよ。

 決意は列に馴染みやすい。

 列は決意を歓迎する。標語にして配る。

 配られた決意は、形式になる。

 形式になった瞬間、他者の汗と涙から切り離される。

 切り離された善い言葉は、冷蔵庫の中で長持ちする。

 冷たい善は、長く効く毒になる。」


「……また沈黙すればいいのか」


「沈黙は大切だけど、逃げ場所にしても腐る。

 人は、いざとなれば化ける。

 わたしもそう。

 誰も例外じゃない。

 その事実から目を逸らさないこと。

 自分の中の化け物の芽を、毎日ちらっと見る。

 水をやらない。

 肥料を与えない。

 でも、芽があると認める。

 認める作業は、見栄えが悪い。

 人に見せたら嫌われる。

 だから、屋上でしか言えない。」


「芽は、どこに生える?」


「きれいな言い訳の根元。

 全体のため、時間がない、仕方ない、責任は上に、過去の例では。

 それらの足元に、柔らかい芽がある。

 触ると折れるほど頼りない。

 だからこそ、守られやすい。

 守られるうちに、芽は幹になり、幹は家を貫く。

 貫かれた家は、見映えのいい塔になる。

 塔の上から見下ろすと、人は正しく見える。

 下から見上げる顔は、もう見えない。

 そこから人は、滑らかに踏み外す。」


「……怖いな。」


「怖がって。

 怖がるのが嫌で、笑いに逃げると、芽が伸びる。

 怖さを引き受けると、芽は伸びにくい。

 恐れを自分の言葉で言い表す。

 わたしは怖い。だから急ぎたがる。だから切り捨てたくなる。

 この鎖を、声にする。

 声にされた鎖は、少しだけ錆びる。

 錆は、刃を鈍らせる。

 鈍い刃は、時間を稼ぐ。

 その時間で、誰かの顔を真正面から見る。

 顔は、札じゃない。

 札じゃないものを札扱いした瞬間、君は化ける。

 それを忘れないこと。」


「顔を真正面から見る……。

 簡単なようで、難しいな。」


「難しくて、退屈で、利益になんてならない。

 でも、それを誰かがやっていないと、例外は常態になる。

 常態になった例外は、もうニュースにもならない。

 音もなく、日常に混ざる。

 今日は誰が外れた?

 今日は誰が間に合わなかった?

 今日は誰が札を持てなかった?

 それを、天気の話みたいに共有する世の中。

 冷たい笑いが、窓ガラスのようにきれいに磨かれている。」


「俺は、そんな日を生きたくない。」


「でも、生きるよ。

 生きたうえで、毎日ちょっとだけ自分を疑う。

 今の勝利は、誰かの静かな敗北の上じゃないか。

 この秩序は、誰の息を止めて保っているのか。

 その問いは友達が少なくなる。

 仕事が遅くなる。

 好かれにくくなる。

 でも、化け物になりにくくもなる。

 貴方はどちらを選ぶ?」


「……好かれないほうでいい。

 たぶん、泣く夜が増えるけど。」


「泣く夜は、冷たい善よりましだよ。

 涙は札にならない。

 札にならないものだけが、まだ人を人のままに繋ぐ。

 繋ぎ目は弱い。

 弱いから、ほどける。

 ほどけたら、結び直す。

 その手間を厭わないこと。

 手間のない世界は、例外が来たとき、誰でもすぐ化ける。」


 風が強くなる。街灯が一つ、二つとつく。


「帰ろう。

 私はたぶん、また明日には忘れる。

 でも、完全には忘れないように努める。

 忘れない努力は、見栄えが悪いけど。」


「見栄えが悪いものだけが、まだ信用できる。

 下に降りたら、また札が待ってる。

 札の前で、一拍だけ遅れて。

 それで充分、刃は少し鈍る。

 少し鈍った刃は、誰かの皮膚を、一秒だけ遅く切る。

 その一秒のあいだに、顔がこちらを向くかもしれない。

 向かなかったら?

 そのときは、また明日、ここで風に当たろう。

 化け物を見張るために。

 他者の声が完全に消える前に。」


 二人は階段へ向かう。

 錆びた扉が軋む。

 屋上に一枚の紙が舞い上がる。

 紙は白いまま、どの札にもならず、夕闇に溶けた。

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