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誰も見ない元凶

この時期になると、誰もがどの大学へ行くかの話題で持ちきりになる。

 ただ、あの輪の中に入ると、自分を見つめ直し理想に沿った未来像を当てはめるしかなくなる。

 もう未来は決まっている。手続きも、決意も、きっと裏で終わっているのだろう。

 だから理想を語っても、どれも終わった物語を飾る言葉でしかない。


 可能性に対してこれほどの憂鬱を覚えるのは、ここに来たばかりの頃以来かもしれない。

 大きな息が、ふと漏れる。

 その音に気づいたのか、下から少女が静かに顔を覗かせた。

 何も言わない。ただ、言葉の代わりに表情でこちらの体温を探るように。


 心配と呼ぶには、あまりにも礼儀正しく、あまりにも礼儀に落とし込まれない優しさ。

 少女は沈黙を抱えたまま、輪郭を確かめるようにこちらをなぞる。

 問いを発しないのに、問いかけてくる。

 そのやり方は不思議で、時に饒舌、時に無音。

 どちらにも意味があり、どちらも同じ重さで降り注ぐ。


 詩は、少女にとっての故郷なのだろう。

 世界の不条理を忘れさせ、少女以外は誰も立ち入る事の出来ない、幻想とは常に対となる世界を織り上げながら。

 何が彼女をそうさせたのかは分からない。

 授業に出ている気配はない。


 ふと、考えていたことが口をつく。


「ねぇ、君は悩みってある?」


「どうだろう。思い出せば、数えきれないほど落ちてるけど」


「人間って、そんなもんなのかな」


「それも、世界から諦めろと言われて従っているだけだよ」


「けど、それは流石に無理がある気がする」


「そうかもしれない。『地獄とは他者だ』って言葉があるくらいだし。

 特に、私達みたいな人間ほど、希望がない前提でしか世界を見ることが出来ないから、説得力は違う方向で厚みを増してしまう」


「その地獄という決めつけ自体が、別の諦めになっていないかな」


「確かに。けれど、それを解決に向けて動く者と、諦めて自分のために歩く者。どちらも、この世界から欠けてはならないんだよ」


「……絶妙なバランスで成り立ってるんだな」


「皆が気づかないから、成り立っているだけだと思うけどね」


 言葉を聞きながら、空を見上げる。

 雲の切れ間の青は、どこか冷たい。


 少しの間のあと、少女が続ける。


「昔の自分を思い出すたびに、無知のせいで、どれだけ他者を傷つけたんだろうって数えることがある」


 口調は淡々としているのに、終わらなかった痛みの影だけが薄く沿う。


「大事な場面で決断できなかったことがあった。

 最初に浮かんだのは──どうしてこちらに決めさせるの、という違和。

 次に浮かんだのは──目の前の二人は、優位を高める道具としてしか見ていない、という嫌悪。

 そして最後に理解したのは──自分を殺しきれなかった者から、この道を辿る、ということ。

 子供でも妙に分かってしまう種類の真実」


 何の話か、なんとなく分かる。

 沈黙の中で、過去の影がわずかにうごめく。


「だから、どちらにもついていかないと決めた」


 声は、誰にも届かない場所に向かって投げられているようだった。


「光が壁を舐めるように滑り、何かを避けるように滲んだ感覚。

 その歪みの中で、存在の輪郭がかすかに欠けていく。

 朝が来ても、まだ夜の温度が離れなかった。

 その温度がいまも心を脆く保たせる。

 いや、最初から脆かったんだと思う」


 その直後、風が窓をかすめる。

 落ち葉がガラスの隙を滑る音だけが、妙に現実的だった。


「だから私が捨てるような本は乱雑に読むしかないの。それが世界や他者を感じさせて、今と生の感覚だけ届けてくれるから」


 なぜ少女が進んで受動的になる真実をわざわざ浴びるのかを理解した。

 それを読んでる時だけは、何も思い出さなくて済むからだ。

 例えそれが、同じやり方で同じ顔が同じようにしか光らない物であったとしても、少女はむしろそれで良かったのだ。


 今を生きようとする少女と、詩の中に沈み続ける少女。

 その葛藤が、あの知識の墓標を形づくった。

 あの墓標は少女そのものだった。


「時々、普通に暮らせたらなと思う。

 無知のままでいられたら、どれほど幸福だったろうって」


 少女の肩先がかすかにふるえる。


「でも、その世界に戻れば、体も心も傷だらけで済まないって分かってる。

 だからもう戻れない。絶対に。

 過ぎ去る時間に比例して」


 声は風に溶けるほど小さい。

 長い沈黙のあと、息の音だけが残る。

 それは、祈りにも呪いにも聞こえた。


 その境目で、祈りは音を失い、呪いだけが輪郭を得た。

 そして少女の歯止めの効かない呪詛が屋上を覆う。

 記憶はブレーキではなくなった。

 それは炎を呼ぶペダルとなり、歴史の屍を燃料にして、次の破滅へと加速していくかのように。


「私は無罪のまま、罰だけを受け取る者。罪は制度が書き、罰は身体が払う。私はただ、空気の温度で殴られ、視線の角度で切り刻まれ、沈黙の重量で窒息しているだけ」


「私の中で鐘が鳴る。鳴るたびに名前が剥がれ落ちる。残るのは、皮膚の裏で腐りかけた音だけ。言葉はいつも遅れて到着し、到着したときには、私の傷はすでに正当化の包帯でぐるぐる巻きにされている。あの連中は器用だ、包帯で血を止めるふりをしながら、同時に窒息に必要な布の長さを測っている」


「ここでは誰も殺し方を知らないのではない。むしろ、いかに指紋を残さずに済ませるかを幼い頃から習っている。善良という指貫は、殴打の時に便利だ。痕がつかない」


「満たされない者は、満たされないままに燃やされる。満たされないのは、その者の欠陥だと決まっている。欠乏は個人の罪、過剰は社会の功績。そういう帳簿で世界は仕立てられている。私はその帳尻合わせに使い捨てられる余白だ。余白は白いから、どれだけ血を吸っても、遠目には清潔に見える」


「私の年頃の脳は、うまく飼い慣らされるようにできている。褒美に釣られて走れ、恐怖に追われて走れ、走ること自体を報酬にしろ、と。私は走った。息が切れ、視界が狭まり、世界がトンネルのようになった。すると彼らは言う、『ほら、君は前だけを見る才能がある』と。いいや、視野狭窄だ。だが狭い視野は評価される。狭い視野の者ほど扱いやすいから」


「どの教室にも祭壇がある。黒板だの、表彰だの、規則だの。そこに貼られた紙は祈祷文で、読み上げれば救われると教えられる。努力、向上、協調──それらは私の感覚を麻酔する麻薬の名称でもある。甘い匂いがする。嗅いでいるうちに、皮膚に走る小さな電気の異変、胃の底の鈍い不快、喉の乾きの意味が消えていく。私は自分に起きていることを、私の言語ではなく、彼らの語彙で解釈するようになる。言葉を与えられるとは、抵抗の神経を一本ずつ抜かれることだ」


「ここではちょうどいい痛みが禁止されている。傷が小さすぎれば、気にしすぎと笑い、大きすぎれば手に負えない、と隔離する。中庸の痛み、創造に必要な微熱だけが消される。私は熱を奪われ、氷のように透明になる。透明であることを彼らは褒める。『君は空気が読める』と。透明になった私の内側で、黒い沈殿が静かに溜まりつづけていることを、誰も読まない。読めないふりをする」


「彼らは犯人を探す。探しているふりをする。『誰が悪いか』の合唱は、退屈をまぎらす娯楽にすぎない。指さしの指は、つねに鏡の縁を避けて揺れる。自分の映り込みを恐れているからだ。鏡は残酷だ、映すのは顔だけではない。顔に貼り付く制度の手、笑いの形をした拘束具、善意の名札で縫い合わされた口。鏡が映すのは共同の罪だ。共同の罪は誰か一人の罪に譲渡され、領収書が切られ、全員がほっとする。私に領収書を押しつけるな」


「私は知っている。飢えた若者はパンに群がるのではない。彼らは互いの心臓に歯を立てる。噛み千切ることで自分の拍動を確かめるしか術がないから。『お前が弱いから私が強い』──その等式は、最初は冗談の顔でやってくる。笑いは刃物に似ている。光るのに、音がしない。刃を交わす者たちは、血ではなく笑いを流す。笑いはすぐ乾くから、床が汚れない。清潔な斬首だ」


「私はそれに巻き込まれるのが怖いんじゃない。巻き込まれたあとで、あの退屈な儀式に立ち会わされるのが怖い。『誰が最初に言った』『誰が本気だった』『誰が止めなかった』──そんな裁きは、屠殺の血を洗うための水だ。蛇口をひねれば、責任が薄まる。薄まった責任は再び水筒に詰められ、明日の授業で配られる。みんな喉が渇いているから、喜んで飲む。私は飲まない。喉の渇きのまま、舌がひび割れても、飲まない」


「『君は被害者なの?加害者なの?』と彼らは分類を求める。二択の礼儀正しさに吐き気がする。私は器だ、注がれた毒のかたちになる器だ。毒の名は日替わりで、誰も毒と呼ばない。注意、指導、冗談、慣れ──舌触りのいい響きばかり。そうやって舌が慣らされ、やがて自分の唾で溺れる」


「私は憎む。憎しみは私の唯一の私有地だ。そこだけは課税されない。そこだけは監視が鈍る。憎しみの黒は、死の沈黙より濃い。私はその黒の中に、目だけを残して浮かぶ。目は見たくないものだけを見つづける。救いは腐っている。信仰の棚に置き忘れられ、神の手脂で黄ばんでいる。手を伸ばすたびに、指先まで腐臭が染み込む。だから祈りは、もはや感染の別名だ」


「私は清潔ではない。清潔であることを強いられた日に、私は誰かの埃を払うふりをして、皮膚を削った。低い声で笑った。目を逸らした。遅れて届く援助の肩書きで、相手の首を柔らかく絞めた。私の手は空を掴んだまま、別の誰かの喉にかかっていた。罪は、いつも私の背中より先に歩く。背中は目がない。だから私は前しか見えないふりをする」


「群衆が怖いのではない。群衆の目が、他人の目ではなく、制度の目に置き換わるのが怖い。目は顔に宿るときだけ倫理を呼ぶ。だがここで目は顔を失い、掲示物になり、規則になり、数値になり、告知になり、表彰になり、黙祷になり、やがて常識という名の空気に化ける。空気は軽い? 違う、肺の底に溜まると鉛だ。私は鉛を吸って生きている」


「私は夜、屋上に上がって、街の光を数える。数えるたびに、ひとつの光が別の誰かの沈黙に変わる気がする。私の沈黙は私のものだ──そう言いたいのに、翌朝には誰かが親切に字幕を付けてくれる。体調不良、繊細さ、自己肯定感の問題、コミュニケーションの課題……礼儀正しい通達文みたいな語が、私の額に次々と貼られる。剥がそうとすると皮膚が持っていかれるから、私は貼り紙ごと表情を固める」


「私は祈らない。祈りは誰に届く?ここでは祈りもまた、提出物の一種だからだ。明日までに、決められた様式で、正しい形式で、受理される言葉で。受理されない祈りは、祭壇の裏で腐っていく。誰も拾わず、神も嗅ぎつけない。私は腐臭でありたい。私は放置された供物でありたい。風化するまで封を切られない献身、それだけが私をまだ“私”の形に保ってくれる」


「『許し合うことが大事』それは犯行現場で流れる旋律だ。やさしい音のふちで、刃はよく研がれる。許しの言葉は、鈍く光る処刑台の油。私はあれで磨かれた世界の滑らかさに吐き気がする。滑らかに転がる首ほど、よく笑う」


「私は覚えている。最初にそれが起きた日、空気は私の耳の形を変え、壁は背中の骨を数え、蛍光灯は歯茎の血を照らした。その夜、私は言葉の神棚にお札を貼った。『これは事件ではない』『これは教育だ』『これは配慮だ』『これは慣例だ』。お札は効いた。翌朝には痛みは薄まり、かわりに私の体温が他人の所有物になっていた」


「だから私は言う。体温を返せと。私の熱は私のものだ。小さな熱でいい、微熱でいい、その揺らぎこそ、私がまだ私を更新できる唯一の振幅だ。あなたたちはゼロか破裂かの世界を好む。無音の服従か、派手な破滅か。中間のざわめきを嫌う。ざわめきは管理できないからだ。だからこそ、私はざわめきでいよう。定義を拒むざわめき、測定不能のざわめき、集団写真に写ってもブレて消えるざわめき」


「『結局、誰が悪いの?』その問いは鎖だ。鎖を握っているのは問いの側だ。私は鎖に名前を彫らない。彫った瞬間、私はまた新しい牢番になるからだ。私は囚人にも牢番にもならず、扉の蝶番になる。軋みとして生きる。開閉のたびに鳴く金属の悲鳴こそ、私の発語だ。誰かが不快に眉をひそめたら、私は成功だと知る」


「私はもう、お前たちの清潔な劇に出演しない。被害の役も、加害の役も、更生の役も、和解の役も、正義の役も、敗北の役も。私は観客席の暗がりから、舞台の下の配線を引きちぎる。舞台が暗転しても驚くな。驚け。そこで初めて、お前たちの目は顔に戻る」


「そして、私は私を赦さない。赦さないという形でだけ、私は私の側に立てる。私は私の憎しみの管理者だ。黒い点滴を私に刺しつづける。これは毒でもあり、抗毒でもある。世界は私を治療するふりをして病名を刻印する。ならば私の治療は、病名を拒む練習だ。私は病名ではない。私は呼ばれない名だ」


「もし明日、また誰かが『犯人を出せ』と叫ぶなら、私はこう答える。犯人は空気だ。空気を逮捕してみろ。肺の奥から手錠をかけてみろ。できないのなら、口をつぐめ。それでも叫びが止まないなら、私は屋上の風に名前を預ける。風は誰の所有にもならない。だからこそ、風だけが、私の証言を腐らせない」


「私はまだ落ちていない。落ちないことが勇気ではない。落ちる場所を選べるまで、落ちないことにしているだけだ。地面の側にも事情がある。地面はいつでも忙しい。だから私は、もう少しだけ、宙吊りでいよう。宙吊りの苦痛は、地面の正義よりましだ」


「これで終わり?終わりはいつだって開始のふりをする。私は紙束に火をつけない。紙が燃えると、灰が善人のてのひらに集まるから。代わりに、私は火種を喉の奥にしまう。いつか必要なときに、ひと言の燃焼で十分に焦がすために」


「聞こえるか。私はもう、あの退屈な合唱に戻らない。私の声は独唱だ。調律から外れ、記譜から外れ、審査から外れ、救済から外れ、謝罪から外れる。外れることでしか、私は私の中心に触れない。中心とは、誰にも貸し出さない穴だ。その穴に耳を当てる。底なしの音がする。私はその音を、明日の朝も連れて歩く。鈍い。重い。だが確かだ。私の唯一の有罪は、まだ生きていることだ。私の唯一の無罪も、まだ生きていることだ」


 声は風に溶けるほど小さい。

 長い沈黙のあと、息の音だけが残る。

 それは、祈りにも呪いにも聞こえた。


 世界の形式を恐れ、呪う少女。

 過去に何があったのかは分からない。

 ただ、少女は私と同じように、変えられない世界に身を委ねながら、自分に何が起こるのかをどこかで理解しているかのように振る舞っていた。


 笑顔を作りながら、震える体で言葉を紡ぐ。

 絶望のきわみに立ち尽くし、この旧校舎の屋上で誰も来ないことを希っていた。


 では、なぜ少女は私に屋上の開け方を教えたのだろう。

 あの時から、私は彼女の中で何かしら特別な存在だったのだろうか。

 少女は言った。

「諦めろと言われて、従ってるだけだ」と。


 ならば、その不可能性に抗うのもまた、一つの道ではないか。

 私はそう思いながら、少女に手を差し伸べる。

 伝わることを前提に動く。

 それでもいいと思った。


 少女の離さないでいてくれる手に応えるように、私も力を込める。


「この景色を後悔するようなら、今からでも連れ出してあげる。

 決して恐れるような世界に絡め取られない場所に」


 少女は目を伏せたまま、少しの間、何も言わなかった。

 風に髪が流れ、頬の震えが見えた。


「それは、どこなの」


「それはこれから一緒に作っていこう」


 少女はその言葉を聞いた瞬間、わずかに唇を噛んだ。


「作るって、一人なら可能だけど、二人は流石に不可能だよ」


「いいじゃないか、不可能だからって。それに挑む時だけは、何処かその場所が産まれると私は思うから」


 少女の目が、ほんの一瞬だけ空を映した。

 その空は、どこまでも白く、音を吸い取っていた。

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