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仮構戦場に埋められた愛らしい棺桶

世界の適温は、汗を引かせ、震えをほどき、顔の境界線を落ち着かせる。温度が合うと、人は自分の顔を信じやすくなる。

 赤い目。頬の下の細い線。──猫にやられた。アレルギーだ。そう告げると、周囲はほっとしたように笑い、話はすぐに別の話題へ行く。物語が整うと、誰も戻ってはこない。

 ただ一人、少女だけは、その線に触れない。線の外側に手を置き、広い面で温度を返す。彼女の手に、印は残らない。

「この傷は、きっと私たちのせいにされるんだろうね」

「いや……」

 声は形にならず、舌の下で崩れた。

 鳥が羽ばたく音、沈黙の前に置かれる名前。

 ──読む前に、もう読まれてしまう体のならいが、まだどこかで続いている。


 遠くで体育の笛が鳴り、ここまでは届かない風が、遅れて制服の裾を撫でる。

 少女は手すりに肘をかけ、私は古びたベンチに座ってノートを膝に開いていた。空は青いが、どこにも続いていない青だった。


 少女が口をひらく。

「子どもってね、死を知らないから子どもなんじゃない。死ななくてはならない理由を、いろんな場所から教えられてしまった者なの」


 私はノートを閉じる。紙のこすれる音が、鳥の声の抜けた空に吸い込まれた。

「誰が教えるの?」

「誰でもない。けれど、どこからでも来る」


 少女は指を立てて、一本ずつ折っていく。

「生まれる前から始まってる。お腹の中で、誰かの生活の速さに合わせて、心臓が練習させられる。夜更かしの灯り、ため息の回数、目覚ましの音。まだ言葉もないのに、体は外の都合に合わせてゆっくり染まっていく。揺さぶるような笑い方を覚える前に、揺さぶられないように身を固める術を、身体が先に覚える」


 私はうつむき、胸に手をあててみる。鼓動は、授業のチャイムによく似た間隔で刻まれていた。


「生まれてすぐは、触れられ方の拍子で世界を覚える。抱き上げられるときの腕の角度。ミルクの時間の規則。泣き声が止むまで待つ長さ。呼びかけの調子。そこに期待の形ができる。『この合図のあとには、こうなる』って。繰り返されれば、繰り返されただけ、それを正しいと思うようになる」

「それが悪いの?」

「善い悪いじゃない。そうやって、知らないうちに選び方の土台が作られるってこと」


 少女は金網の向こうの空を見た。雲の縁が剥がれ、光だけが残っている。

「言葉を覚えると、世界はきれいに並ぶ。赤、青、努力、成功、失敗。名前をもらうたび、たしかに迷わなくなる。だけど、迷わないってことは、見落としやすくなるってことでもある。手触りの違い、風の温度のわずかな差、誰かが目を伏せるまでの一瞬の間──名札を貼るだけで済むことが増える」


 私は自分のノートに書いてある見出しを思い出す。志望の理由。得意科目。将来の計画。すべて、書きやすい順に書いたものだった。


「小さくても、繰り返されることは大きくなっていく。よくできたねの顔、残念だねの顔。賞状の紙の匂い、失敗のときの廊下の空気。そういうものがたまって、目に見えない重みになって、先回りして私たちの足を選ぶ。考える前に、たどり着きやすい答えが用意される。用意されたものほど、安心してつかめる」


 私はベンチのささくれに指を当てる。引っかかりがある。けれど、持っている消しゴムでなぞれば、たしかな白に戻せる。戻せることが、急に心細く思えた。


「それに、あの世界は、いつも新しい餌を落としてくる」

 少女は笑う。

「目を奪われる色、次の合図、次の合図の、その次の合図。わたしたちは小さな鐘を追いかけるうちに、長い歌詞を忘れてしまう。すぐ届くご褒美は、遠いものを安っぽく見せる。待つ力より、押す指の早さが褒められる」


 私はポケットの中でスマホを握り、すぐに離す。画面が鳴っていないのに、鳴ったような気がした。


「さらに、暮らしの不安が長く続くと、深く息を吸うことがもったいなくなる。呼吸が浅いほど、急な変化に備えられると体が思い込むから。背中が丸くなって、目は近くを掃くようになって、遠くを見る余白が削られる。大きな絵を描く時間が、こぼれていく」

 少女は自分の胸の上を指で軽く叩く。

「こういうふうに、世界は体から入ってくる。頭で選ぶ前に、体が選びやすいほうに滑る。選びやすいほうに滑ると、滑りやすさそのものが正しさみたいな顔をする」


「じゃあ、自由って、どこで残るの?」

 少女は少し考えてから言う。

「たぶん──残りかすの中に」


 風が金網にぶつかり、小さな音を撒いた。


「教室に貼ってある標語や、ホームルームの話や、親の言葉や、その全部が嘘だって言いたいわけじゃない。みんな、わたしたちのために言ってくれてる。でも、言われれば言われるほど、わたしたちは同じふうに息をするようになる。息の合い方が揃うと、困ったことに、他人の息の乱れが見えにくくなる。聞こえないから、ないものとして扱ってしまう。そこで誰かがこぼした声は、床の目地に吸い込まれて、乾いていく」


 私は屋上の床の細い溝を見つめる。落ち葉の縁が黒ずんで、雨水の道になっていた。


「読書感想文でね、何を書いても、よくまとまっているって言われるときがある」

 少女は肩をすくめる。

「まとまりって、便利。けれど、まとまりが先にあると、話はそこで終わってしまう。終わり方だけを教えられて、始まりの探し方を教わらない。『正しい終わり』のほうへ歩く靴を渡されて、靴擦れの話はどこにも載らない」


「それでも、本に救われる人もいるよ」

「もちろん。でも、それはよい本だからじゃない。まだ名前のついていない部分を、そのまま抱えていてくれたから。読まれることを急がない言葉。説明よりも遅い手つき。誰のための答えでもない、ただの呼吸。そういうものに、わたしたちは勝手に寄りかかれる」


「児童文学は?」

「死ななくてはならない理由を、無邪気に手渡されてしまった子どもたちへの、遅い歌。声に出すと薄まってしまう祈り。読まれるためじゃなく、誰かひとりが目を伏せたときにだけ灯るあかり。導くための灯じゃない。消えるまで、燃えるだけの灯」


「それは、反逆なの?」

「うん。いちばん静かな反逆」


 少女は金網に背中を預ける。

「大人たちは忙しい。約束を守るのに忙しく、立場を守るのに忙しく、正しさを守るのに忙しい。その忙しさが悪いとは言わない。でも、その忙しさの速さでしか世界を見られなくなると、わたしたちの遅さは、いつも置いていかれる。遅いというだけで、間違いみたいに扱われる。そこでこぼれたものが影になる。影はたくさん集まっても、影のまま」


 私は黙って立ち上がり、ポケットから校章のついた小さなピンを外す。指先でつまみ、ベンチに置いた。

「これも影を増やす?」

「それ自体はただの印。でも、印に寄りかかってしか人を見られなくなると、影は増える。わたしたちは印を持っていると安心して、印のない手つきを忘れる。印のない挨拶、印のない謝り方、印のない褒め方。そういうのは時間がかかるからね。時間がかかるものは、だいたい置いていかれる」


「じゃあ、どうする?」

「いくつか、ゆっくりにする。呼吸を、歩幅を、返事を。すぐ届く褒め言葉より、遅れて届く沈黙を選んでみる。合図に反射しないで、合図の向こうに誰がいるか確かめる。『正しい終わり方』の前で、いったん目を閉じる。目を閉じるのは逃げじゃない。目を閉じないと見えないものがあるから」


「それで、世界は変わるの?」

「世界は変わらない。でも、わたしたちの中の選び方の土台は、少し変えられる。土台が変わると、同じ問いに別の答えを出す自分になれる。そうやって遅い場所を増やしていく。遅い場所が増えると、急ぐ人がその遅さに寄りかかれるようになる。寄りかかれる場所が多い世界は、少しだけやさしい」


 私はベンチのピンを手の中で転がし、ポケットに戻さなかった。


「それは、大人への反逆?」

「うん。大人のやり方を否定するんじゃない。大人に合わせるための自分の速さを変えるの。言い返せないくらいゆっくりにして、急かされても倒れない体を作る。教わった正しさを忘れるんじゃなくて、正しさの手前で一拍おく。それでも、本当にそうだろうかって。質問する力は、いつも小さな声で生まれるから、守ってあげないとすぐ潰れる」


「小さな声?」

「気のせいかもしれないって声。あれは弱くて、すぐに大声に負ける。でも、あの声が消えると、わたしたちは与えられた理由でしか生きられなくなる。こうあるべきのために呼吸を合わせ続けて、いつか自分の呼吸を忘れてしまう。ねえ、死が怖いのは、痛みや終わりのせいだけじゃない。死ななくてはならない理由を、いつのまにか自分の手で抱えてしまうことのほうが、ずっと怖い」


 私は空を見上げる。鳥の姿は見えないが、羽音だけが一度だけした気がした。


「子どもは、無知だから守られるんじゃない。知らせによって縛られる。世界のあちこちに貼ってある当たり前は静かな縄。やさしく見えるときほど、ほどきにくい。ほどけない結び目に耐えるために、わたしたちはもっと速く、もっと正しくを自分に課す。でも、その先には、誰もいない」


「じゃあ、児童文学で何をする?」

「結び目をほどく手つきを、まるごと描く。ほどけなくてもいい。結び目を見つけて、指を入れて、痛いときは休んで、また触る。読んだ人が、自分の結び目に触れる時間を手に入れられるように。読まれて誰かが褒めてくれるための言葉じゃなく、読まれなくても残ってしまう言葉。開かない引き出しみたいに、そこにあるだけの言葉」


 少女は足もとに転がってきた小石を拾い、金網越しに外へ投げる真似だけをして、投げなかった。

「世界は印影で回る。窓口で配られるしおりの色で通れる道が決まる。棚に並んだ紙の背で人の高さが語られる。歩き方や声の抑え方で素性が測られる……そういうふうに見られることから完全に逃げるのは無理。でも、せめて、見られる前に自分で自分を読み終わらないこと。わたしはこういう人間ですって先に名札を作らないこと」


 私はゆっくり呼吸をし、数を数えた。吸う四つ、止める四つ、吐く四つ。呼吸の数は、時間の数え方を変える。数え方が変わると、返事の仕方も変わる。


「大人への反逆は、怒鳴ることじゃないのか」

「怒鳴ってもいい。でも、それだけだとこちらの息が持たない。だから、もっと遅いやり方も覚える。話しかけられてすぐ答えない。わからないと言う勇気を温める。勝手に貼られた名札を一枚ずつ剥がす。急ぎの中で急がないを選ぶ。そういう小さな背き方を増やしていった先に、やっと“わたし”が残る」


「私は残るの?」

「残すんだよ。誰のものにもならない速さで」


 風が一度止み、屋上の空気が空の重さだけになった。笛の音はやみ、遠くの声も薄くなる。世界の音が引いたあとに、二人の呼吸だけが残る。


「ねえ」少女が笑う。

「この屋上から見える景色はいつも同じなのに、見え方だけが少しずつ変わってる。教室で習うことより、ここで沈黙を交換した時間のほうが、あとで効いてくる気がする」

「点数はつかないね」

「点数にならないものだけが、遅れて効いてくる」


 私はポケットからピンを取り出したまま、金網の向こうを見た。投げなかった。投げないことを選んだ。

「立派な反逆は、私たちにとっての生命線だよ」


 雲の影が屋上を一枚滑っていき、光が戻る。少女はベンチに座り、私のノートを開く。白いページが一枚、風でめくれた。そこに、彼女はゆっくりと書いた。


 ──ここから遅くする。


 それは題でも宣言でもなく、二人だけの合図だった。

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