不協和音と旋律
鳥が飛び立つ音が、途端に消えた。
少女は音楽を聴きながら、空を飛ぶアキアカネの数を数えていた。
「……あのトンボ、動きすぎて数えにくいんだけど」
やがて彼女は、トンボを数えるのが不可能だと気づいたのか、それともあまりに虚しくなったのか、心の中のため息が漏れ聞こえるほどに憂鬱になっていた。
少女はなぜか、私に絡んでくる頻度が極端に増えた。
以前はそういった距離の詰め方をする子ではなかったのに。
「ねぇ、暇だからバックギャモンしない?」
そう言って、少女は鞄の中から盤を取り出した。
まるで現代人がノートパソコンでも持ち歩くかのように、自然な手つきで。
「……なんで持ってるんだよ」
「なんかね、秋って、読書する気になれないんだよね」
「それ、読書の秋って言われてるからじゃないの?」
「そうなのかなあ……」
「自分じゃ気づいてないかもしれないけど、筋金入りの形式批判厨だからね」
「私だって秋になると食欲は増すよ」
少女はむくれたように焼き芋を取り出し、それを両手で包んだ。
「だからなんで持ってるんだよ……」
「食欲の秋だからね〜♪」
「ただ、好物が増えただだけじゃ……」
少女は形式批判をしてるのではなく、読書という行為はどこか神格化されている。
あの大雨が降る日、少女の言葉を聞いて、あの知識の墓標に新たな一貫性を見つけた。
それは、終わりの私心がないということだった。
まるで、人間の有限性そのものを軽視するかのように。
それゆえに、私たちは人間は合理的で、歴史的必然に従うものだと、どこかで信じ込んでしまう。
だが実際には、人は死を恐れ、欲望に振り回され、衝動や偶然にすら左右される。
その不安定さこそが、私たちの条件なのに。
未来を、構造が導く一本道と捉えるのか。
それとも、断絶と不確実性に満ちた地形と見るのか。
この対立構造の中で、少女は前者の静謐を拒み、後者の無秩序に向かって舵を切っているようだった。
少女は以前、こう言っていた。
「あなたが境界線を引けなくなった感覚は、鈍感さじゃなくて、限界そのものの消失を観察した結果だよ」
あの時、私ははっきりと気づいた。
──この世界から、他者性が消えかけているのだと。
私はそれが、心の底から嫌だった。
ただ、少女はその憎悪に一時的に包帯を巻いてくれた。
私が世界の底へ落ちないよう、何度も、ぎりぎりで。
自分の腕が折れようが、肉は裂けて血に染まっても、手を離さずにいてくれた。
だが、そんな少女は時折、あまりにも幼く見える。
一貫性を保とうとしても、必ずどこかで破綻する。
そしてそのたびに、誰にも見えない場所で苦しんでいる。
──でも、あの時。
私が重力を感じたとき、少女は一瞬の迷いもなく、私に手を伸ばしてくれた。
少女は、その救いの行為を「自己欺瞞の詩」だと言った。
「貴方を沈めた世界を、私の命で永遠に否定し続ける」と。
ただ、少女はその詩が自己欺瞞であることを前提にしか成り立たないとわかっている。
それが本当に幸福になり得るのかと、今になって疑問に思う。
少女は、私を本の山に落ちるように誘導した。
それは、どこかまだ生きたいと伝えるかのようだった。
ただ、あの時少女は、こうも言った。
「他の人なら助けなかった」
──あの日、私のどんな言動が、少女の中での他者との線引きを決定づけたのか。
それがずっと、私の胸に引っかかっている。
「半分、食べる?」
返事も聞かず、少女は焼き芋を真っ二つに割って差し出してきた。
「初めて食べるかも」
「美味しいよ‼︎」
少女は、いつも何かをくれる。
でも、私は何かを返せているだろうか。
──いや、少女は返すという形式を、最も嫌っている。
あの無償性こそが、彼女の中の誇りであり、反逆であり、他者性の最後の砦なのかもしれない。
焼き芋を頬張りながら、少女はパックの牛乳で流し込んだ。
「あぁ……これが幸福か」
安っぽい幸せ。
でも、それこそが、少女にとっては至福なのだろう。
こんなことで満足できる少女は、きっと、誰よりも幸福なのだと思った。
こんなことで幸福になれるのなら、なぜ人は慣れに蝕まれ、幸福を求め続けるのだろう。
未来を、構造が導く一本道と捉える事が正しいと感じてしまう。
「……人生なんて、ただの複雑なアミダクジなのかな」
私がそう言ったとき、少女は一度も瞬きをせず、こちらを見つめていた。
焼き芋の皮を、親指の爪でくるくると剥がしていたその指が、止まる。
「スタートを決めたら、もう全部の分岐は決まってる。
右か左か選んでるつもりでも、ただ用意された横線をなぞってるだけ。
まるで自分で選んでるみたいに思えるけど、結果はずっと前から決まってたんだよ。
君がくれた焼き芋でさえ、最初から割られることが決まってたなら、
もう何も……意味なんて、ないじゃないか」
少女は笑わなかった。
代わりに、そっとトンボの残像が消えた空を見上げて言った。
「アミダクジって、途中で立ち止まって空を見たりしないよね」
そういうと少女は焼き芋を牛乳で流し込む。
「アミダクジは、進むことしかできない。
一筆書きで、ただ下に向かって流れていく。
自分がどこにいるかなんて、一切見ない。
でも、私たちは違う。
たとえば今、君がここで焼き芋を食べることが、誰かの涙を少しだけ和らげるかもしれない。
そういう世界の歪みや揺らぎは、アミダクジには宿らないの」
少女の声は柔らかかった。
でも、その言葉は、どこかで誰かの死に触れてきた人の響きを帯びていた。
「君がこの一歩をどう踏み出すかによって、別の誰かの過去の意味まで変えてしまうことがある。
そういう因果の飛躍は、線では書けない。
地図にもならない。
だから、アミダクジのような比喩じゃ、人の命は救えないよ」
私は黙って、少女の横顔を見ていた。
「そもそも、アミダクジは、選べる顔を持ってないんだよ。
選ぶって、そんな単純じゃない。
だって、君が何かを選ばないということすら、選びとして扱われてしまう時があるでしょう?」
私は息を飲んだ。
それは、誰かの自殺を知ったときのような感触だった。
「それにね──」
少女は言葉を継いだ。
「君は未来が見えないことを不自由に感じてるみたいだけど、
私は未来が見えないからこそ、今この焼き芋が美味しいって思えるの。
もしこれから訪れるすべてがわかってしまうなら、誰もこんな空の色には、感動しない」
私は思わず、空を見た。
トンボは、もうどこにもいなかった。
「そもそもね、雲の形も、風のにおいも、誰かのうたった歌のリズムも──
本当に同じだって言い切れる?」
「でも……それでも全体としては、大きな構造が……」
「構造はあるよ。
でも、構造の中に揺らぎがあるの。
そのわずかな揺らぎの中にしか、私たちは住めない。
全体っていう言葉に逃げたら、君自身の震えが、聞こえなくなるよ」
少女の語る言葉は、揺さぶりだった。
そして、私の中の何かが、確かに揺れていた。
少女は、焼き芋の欠片をもう一つ差し出した。
「君が未来を線だと思うなら、それでもいいよ。
でも、私はそれを音だと思いたい。
ときどき不協和音が混ざっても、ない続いていく旋律が、私は愛しいから」
甘い芋の香りと共に、少女の確信が喉を滑っていった。
「世界は、最初から整っているような顔をしていた。
きちんと並んだ縁、揃った道筋、指でなぞれば未来に触れられるような幻想。
でもその表面には、微かな揺れがずっと走っていた。
水面に映る星々のように、まっすぐなはずの線がわずかに震え、気づかれぬままにすべての意味をずらしていく。
人は、かつてその揺れを偶然と呼んだ。
ある者はそれを祝福と信じ、またある者は呪いとして逃げた。
でも本当は、ただの影だったの。
昼間に見失ったものが、夜になってこちらを見返すだけの。
それでも、目の前の暗雲は確かに迫ってくる。
指の先では払いきれない、言葉の向こう側で軋む気配。
誰も先を知らないまま、それでも歩くしかない。
祈るように、拒むように。」
少女はバックギャモンの盤を膝の上に置いたまま、しばらく空を見ていた。
風の中でトンボの羽音は聞こえない。
それでも、どこかにまだ飛んでいるような気がした。
私は、ふと呟いた。
「……そういえば、バックギャモンのルール、知らないや」
少女は、少しだけ顔をこちらに向けた。
目を細め、笑うでもなく、ただ風に瞼を預けるように言った。
「じゃあ──サイコロを振れないね。」
風が吹いた。
盤の上のサイコロがひとつ、音もなく転がった。
でも、どの目が出たのか、誰も見なかった。




