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丘陵の影と永遠の夕焼け

あの日以来、何を見ても、それがまだ存在しているという確信が持てなくなった。

 ものは形を保っているのに、意味がすでに抜け落ちている。


 私は、生きていることの手応えを、まるで他人の記憶のように感じている。


 どうしようもない閉塞感に、体が押し潰されそうになる。

 空気はある。だが吸うたびに、何かを裏切っているような罪悪感が喉を締めつける。

 呼吸はもう生命の徴ではなく、ただ死を先延ばしにする動作にすぎない。


 世界は分かり合おうとしない。

 いや、分かり合うこと自体が、もともと不可能だったのかもしれない。

 他者とは、理解の仮面をかぶった拒絶であり、会話は沈黙を誤魔化すための呼吸法だ。


 私はかつて、人間の思考がどこかで救いに変わると信じていた。

 けれど今は分かる。

 思考は救いではなく、痛みの延命措置だ。

 考えることは、傷口を覗き込み、血が止まっていないことを確認する行為に似ている。


 世界の形式はとっくに壊れている。

 それでも、人々は壊れていないふりをして働き、眠り、笑い、記録を残す。

 すべての行為は、生きているふりを続けるための訓練だ。


 同意なき干渉は罪だ。

 けれど、存在すること自体が干渉だ。

 息をすれば誰かの酸素を奪い、視線を向ければ誰かの沈黙を壊す。

 生まれた瞬間から、私たちは他者の苦痛の上で呼吸を始めている。


 自由という言葉ほど、長く人間を欺き続けたものはない。

 自由とは、支配を自らの意志として受け入れる能力のことだ。

 それを選択と呼び、誇りと呼び、誰もが同じ方向に歩いていく。


 いくら努力しても、終わりはやってくる。

 努力は、死を遅らせる技術であり、そのために使われる時間こそが、人間が生と呼ぶものの正体だ。


 生きるとは、死に近づく速さを調整する作業にすぎない。

 私はそれを知ってから、どんな希望にも耐えられなくなった。


 普通に生きていれば、そんなことは考えない。

 考えない方が健康だ。

 考えることは病気だ。

 考えれば考えるほど、治療法のない病に感染していく。


 私は少女に出会い、世界の見え方が変わった。

 だが、変わるということは、見たくなかったものを視界に入れてしまうということだった。

 思考が明晰になるほど、世界の歪みがくっきりと見えるようになる。

 明晰とは、絶望の形を正確に理解する能力のことだ。


 かつて少女は言った。

「言葉で世界は変わらない」と。

 その意味を今になって理解する。

 言葉は、世界を変えない。

 ただ、壊れているという事実を、より明確に見せるだけだ。


 分かってくれないと声に出せないことが、これほどまでに苦しいとは思わなかった。

 だが今では、分かってくれないが正しい状態なのだと分かる。

 他者とは、理解されないことでしか保てない関係だ。


 思考が広がるということは、考え続ける義務を背負うということだ。

 知識を得るとは、目を閉じる権利を失うということだ。

 知識とは麻薬の一種であり、知るほどに感覚が鈍り、現実の痛みだけが際立つ。


 知恵の輪を解くたびに、快感が広がる。

 一つの構造をほどいたと思えば、その下から別の構造が現れる。

 すべての謎は、次の謎を呼ぶために存在している。


 それを誰かに伝えたい。

 けれど、語れば語るほど、自己が肥大していく気がする。

 言葉を使う限り、私は自分を正当化する仕組みから抜け出せない。

 言葉とは、罪悪感を意味に変換する装置だ。


 私は気づいてしまう。

 それを言葉にした瞬間、私はまた、ひとりの語る者になってしまうのだ。

 語る者は、理解されることを恐れながら、それでも沈黙に耐えられず喋り続ける。


 そう思うと、どんな思考も、どんな行為も、許せてしまう。

 犯罪であろうと、いじめであろうと、戦争であろうと、そこに至る理由が見えてしまう。

 理由が見えるということは、すでに狂気の外側に立っているということだ。


 理解は、赦しの最も洗練された形だ。

 そして赦しは、共犯の最も穏やかな形式だ。


 少女は何も言わなかった。

 だがその沈黙が、私の赦しの輪郭を決定づけた。


 私はもう、何を見ても美しいと思えない。

 なぜなら、美とは、意味を覆い隠すための装飾だからだ。

 誰かが笑っているとき、その笑いの奥で何かが崩れていることを、知ってしまった。


 言葉は価値を失う。

 だからこそ、どう語るかが重要になる。

 けれど、その語りすら、今の世界では通用しない。

 語ることは即座に引用され、解釈され、再利用され、あらゆる情熱は説明に変わる。


 どんな思考も、すべて同じ場所に押し戻される。

 そこには、理解という名の檻がある。

 私はその中で、自由の形をした鎖を、必死に外そうとしている。


 —苦しい。


 知識を得ることが、自分の首を絞める行為だと、このとき初めて知った。

 そして悟った。


 理解するという行為こそが、この世界で唯一の暴力だ。

 誰もが、理解によって他者を殺し、理解によって自分を正当化している。

 思考は、人間が創り出した最も精密な拷問装置だ。


 だからこそ、理解は刃にも包帯にもなる。私が選ぶのは、その都度どちらかだ。


 神がいなくなった世界で、私は自分の思考を神の代わりに据えて生きてきた。

 信仰を失ったのではなく、信仰の対象を自分に置き換えただけだった。


 自分の中に正しさを築き、そこに膝をついて祈るように考えてきた。

 考えることが、生きることの証明だと思っていた。

 けれど今、ようやく気づく。

 それは、世界に背を向けた祈りだった。


 私は他人を否定したことはない。

 ただ、理解したと思っただけだ。

 理解は、最も穏やかな拒絶だ。

 それでも私は、自分の理解に従って生きてきた。

 その従順さが、私を静かに壊していった。


 神がいないという事実は、私に自由を与えたはずだった。

 けれど実際には、神のいない空白を、私自身が埋めようとしてしまった。

 その瞬間、自由は終わっていた。


 私は、神の不在を埋めるために、理想の自己という名の偶像を作った。

 その偶像は、最初は希望の形をしていた。

 だがやがて、それは私を監視する眼となり、思考の一つひとつを裁く声になった。


 誰にも信じられないから、自分を信じようとした。

 誰にも裁かれたくないから、自分で自分を裁いた。

 その結果、私は他人の信仰よりも厳しい信者になった。

 思考を神格化し、疑うことを罪とし、矛盾を排除しながら、自分という教義を守り続けてきた。


 だが、神は沈黙する。

 そして沈黙は、思考の中で最も残酷な形を取る。


 理想の自己を信じるということは、「まだ足りない」という声を永遠に聞き続けることだ。

 私の中の神は、一度も満足しなかった。

 何を学んでも、何を理解しても、最後に残るのは欠乏の感触だけだった。


 知識を得るたびに、自分が欠けていく気がした。

 思考を深めるたびに、世界が遠のいていく気がした。

 それでも私は進み続けた。

 進むことだけが、神への誠実だと思っていたから。


 だが今、私は知っている。

 その神は、私自身の手で作った牢だった。


 思考は、私を救わなかった。

 むしろ、私から世界を奪った。

 何かを理解するたびに、感じることの能力が鈍っていった。

 知ることは、痛みの輪郭を曖昧にする行為だった。


 私は理想の自己を信仰していた。

 それが唯一の秩序だと思っていた。

 けれど今は分かる。

 理想とは、完成の名を借りた恐怖だ。

 私は完成を恐れながら、完成に向かって歩き続けていた。


 そして、気づいたときには、その理想の中にしか居場所がなくなっていた。

 現実の私は、もう要らなかった。

 思考だけが私を代弁し、沈黙だけが私を支配していた。


 神なき世界で、私は神の役を引き受けすぎたのだ。

 正しさを求めた報いとして、間違う自由を失った。

 誰も私を責めていないのに、私は自分を許せなくなっていた。


 考えるという行為が、いつの間にか、信じるという行為と同じ場所にたどり着いていた。


 そして私は気づく。

 この思考の果てにあるのは、救いではなく、沈黙だ。

 沈黙こそが、理想を信じた者への最後の罰だ。


 —今、世界は私を信じない。

 だがそれ以上に、私が、世界を信じていない。


 その相互不信の静けさの中で、私は自分が作った神の呼吸音だけを聞いている。


 そしてその神が、私に最後の命令を与える。

「もう考えるな」


 だが、それをやめることこそが、最も難しい祈りなのだ。


 神の居ない世界に救いなんて、どこにもない。


 空が裂けるような音がした。

 次の瞬間、世界が雨に包まれた。

 粒が弾丸のように落ち、地面を叩くたび、

 空気が震えて形を失っていく。


 少女が小さく息を呑む。

「中に入ろう」と言いかけた声が、雨の壁にかき消された。


 私は動けなかった。

 体を覆う冷たさが、まるで罰のように感じられた。

 どれだけ濡れても、この現実の輪郭だけは、どうしても消えない。


 少女が駆け寄ってきた。

 髪が頬に貼りつき、息が荒い。

 その手が、突然、私の腕を掴んだ。

 指先が、氷のように冷たかった。


「……その不可逆的な呪いを渡したのは、貴方に向けられた私の言葉」


 その声は、雨の轟きを裂かず、ただ私の耳の奥に沈んでいった。


「あの日、貴方が助からない方が良かったって……言わせるようなことを、してしまったのなら、その時は、最後まで同じ場所に立つ。貴方が選ぶ結末の手前で、同じ重さを引き受ける……だから」


 雨粒が頬を伝う。

 それが涙なのか、雨なのか、もう分からない。


 少女はそれでも、私の手を離さない。


「だから、聞かせて。どんなに壊れた言葉でもいいから」


 声は震えた。

 けれど、その震えには恐怖がなかった。

 むしろ、すべてを受け入れた者だけが持つ、穏やかな硬さがあった。


 少女は目を閉じ、雨の中で立ち尽くした。

 世界が滲み、音だけが残る。


 風も声も、すべてが雨に吸い込まれていくのに、

 その手の温度だけが、私の皮膚の下で確かに生きていた。


「……君の言ってた癖とか、読む姿勢とかさ、そんなの、もうどうでもいい」


 声は雨に溶けていった。

 それでも、喉の奥の熱だけは残った。


「読む前に、もう読み終えられているって言ってたね。

 じゃあ、私たちは何のために生きている?

 歩き方も、声の途切れ方も、息の置き方まで決められているのなら、最初から、他人の譜面の上で踊らされているだけじゃないか」


 少女は目を伏せる。

 その仕草が、あまりに静かで、逆に痛かった。


「優しさは読むための仮面だって言った。

 じゃあ、優しくすることも罪なのか。

 私は、君の言葉がいちばん冷たいと思った。

 優しさが制度にされるなら、もうどこにも逃げ場がない」


 雨が強くなる。

 街の明かりが水に歪む。


「言葉はもう救えないって、君は言った。

 でも、その救えないって言葉が、また新しい檻を作っている。

 君の灯は導かないと言うけれど、その光がなかったら、私はもう、何も見えない」


 喉の奥で息が詰まる。

 言葉が痛みに変わっていく。


「壊れたまま考えることが大事?

 壊れたままじゃ、考えるたびに傷が深くなるだけだ。

 君の優しさは、生きていることそのものを、罰に変えた」


 少女の肩がわずかに揺れた。

 それでも、言葉は返ってこない。


「理解されることを、もう諦めたいって言ったね。

 でも、私は君を理解したかった。それすら罪なのか?

 触れたら壊すと分かっていても、触れたかった」


 息が荒くなる。


「君は、触れること自体が傷だと言う。

 けれど、触れなかったら、もう人間じゃない。

 君は痛みを守った。

 でも君は、その痛みの外にいる私を、ずっと閉め出してきた。

 君の正しさは、生きる力じゃなくて、死なないための機構だった」


 この世界の憎悪を、私はすべて少女にぶつけた。

 この考えは少女の上に成り立っていると自覚している。

 だからこそ、少女の言葉が聞きたい。


 少女はただ濡れながら立っていた。

 制服の裾が貼りつき、髪が頬に張りつき、それでも一点を見つめていた。

 いつか来ることを、あらかじめ知っていたかのように。


「私たちが理想とする世界は、もう戻ってはこない」


 少女は言った。

 その声は、雨音に呑まれながらも、不思議なほど澄んでいた。


「理想という名の共同体はね、いつだって読書会の延長でしかなかったの。

 人は読むことでしか自分を高貴に感じられなかった。

 正典を読むこと、感動を共有すること、それを通して選ばれた者になる。

 読書は、神への祈りよりも内密で、ずっと傲慢な儀式だったの」


 雨が鉄柵を打ち、空気を冷たくした。

 私は黙って、少女の声の輪郭を聞き取ろうとした。

 しかし、音はすぐに雨に削られて消えた。


「昔はね、詩を読むと、他人の痛みや沈黙が、自分の中にも起きる瞬間があった。

 言葉が他者を呼び出す——そんな奇跡のような時間。

 でも、もうその奇跡を保証してくれる他者はいない。

 少なくとも、貴方と私が属する回路は、現れることをやめた。

 読むことはもう、参加じゃなく、操作になった。

 感情の順序すら、外から与えられる。

 呼びかけは合図に、他者は手順に、詩は手続きに変わったの」


 少女は濡れた手を伸ばして、手の中の紙片を見せた。

 そこには滲んだ文字が一行だけ残っていた。

「見えるものは、いつも免罪される」と書かれていた。


「文学は焼かれたの。終わったんじゃなくて。

 焼かれたものは形を変えても戻らない。

 灰は風に乗って散るだけ。

 詩的な強度っていうのは、誰かに届くという奇跡のこと。

 でもその奇跡を保証する他者が、もういない。

 少なくとも、私たちの回路は他者の声を聞かなくなった。

 みんな、自分の反射音だけを理解と呼んでいる」


 少女は一歩、私に近づいた。

 雨の音が、その距離の狭まりをかき消した。

 慰めでも評価でもなく、事実の輪郭だけを整える——。

「他者を受け入れるという行為は、放任でも博愛でもない。

 相手の思考や価値を、そのままの位相で自分の中に置くために、こちらの輪郭をわずかに変形させる運動なの。

 その変形は一度では終わらず、接触のたびに更新される。

 理解が進むほど疲弊が増すのは、性格ではなく構造のせい。

 貴方がすり減っているのは、弱さじゃない。

 ただ、負荷の向きが常に内向きだから」


 雨が強くなった。

 会話の間に雷が割り込む。

 私たちは一瞬だけ黙り、呼吸の仕方を探すように目を伏せた。


「他者はね、概念じゃない。

 説明の器からあふれる現れなの。

 理屈を超えて、与えられすぎる出来事として迫ってくる。

 そのとき、こちらの自由は提案じゃなく応答になる。

 責任は選ばれた善意ではなく、出来事の側から課される非対称。

 だから、限度が曖昧になる。

 暴力を抱えて現れる他者でさえ、その現の側に置かれてしまう瞬間がある。

 貴方が境界線を引けなくなった感覚は、鈍感さではなく、限界そのものの消失を観察した結果だよ」


 少女は微笑んだ。

 だがその笑みは、安堵ではなかった。

 世界が少しずつ解体される過程を、自身の口で再生しているようだった。


「制度としての寛容は、美しい理念のふりをして、他者を管理可能な形式に翻訳する技術でもある。

 ラベル化は救済の口実にもなるし、他者性の切断にもなる。

 貴方が優しい言葉に含まれた同化の欲望を嗅ぎ取ってしまうのは、過敏なんかじゃない。

 むしろ、構造の読解なの。

 言葉が美しいほど、翻訳の規格が隠れる。

 許容が慈愛であることと同時に、同形化の圧力でもあることを、貴方は見てしまった」


 私は何かを言おうとしたが、唇の上に雨が溜まり、声が形になる前に崩れた。


「ある種の回路では、見えること自体が免罪にすり替わる瞬間がある。

 映像化できる痛みだけが流通して、映像化されない痛みは沈む。

 貴方が抱く疎外感の一部は、そこから供給されている。

 可視性の経済は、共感の形式を決めてしまう。

 見えない悲しみは、存在しないものとして扱われる。

 だから私は、可視化よりも、沈黙の技術を信じたいの」


 雨脚がさらに激しくなった。

 言葉が雨に混ざり、空気が揺れた。


「政治の机に戻らなくていい。

 戻れる日もあれば、戻らなくていい日もある。

 参照平面が違う相手に、同じ言葉を求められない自由を持っていい。

 多くの対話は、形式の互換性が整ってからでないと意味を持たない。

 互換化の作業を、個人の内部だけで引き受ける必要なんてない」


 少女の声は、雨の膜の向こうで震えていた。


「貴方は壊れていない。

 壊れていないふりをやめただけ。

 ふりをやめると、世界のほうが乱れて見える。

 それが正常。

 貴方の正常は、世界の演出に不適合なだけ。

 それを恥じなくていい。

 そこにこそ信頼できる資質がある。

 貴方が選ぶ速度で、貴方の外部を確保して、貴方の帳を貴方の手で閉じ、貴方の文法を複数のまま持ち歩けばいい」


 少女はゆっくりと目を閉じた。

 まつげから雫が落ち、コンクリートに小さな波紋をつくった。


「言葉は世界の速度は変えない。

 ただ、見る角度だけはずらす。

 文学は、もう戻ることはできない。

 でも、遅れて続くことはできる。

 焼かれた灰の中で、誰にも届かない呼びかけとして。

 それが、私たちに残された最後の詩」


 雨がすべての音を覆った。

 私はただ頷いた。

 頷きながら、濡れたノートを胸に抱いた。

 そのページは、すでに書く前から滲んでいた。


 少女は最後に、低く呟いた。


「理解を、武器じゃなく、包帯として使ってみて。

 締めすぎないで、でも外さないで。

 包帯は治すためじゃなく、これ以上壊さないために巻く。

 貴方の知識が首を絞めるときは、締めすぎの合図。

 少し緩めて。

 それで、まだ呼吸ができるなら、

 それで十分」


 そう言って、少女はゆっくり背を向けた。

 大雨の中、輪郭が遠ざかっていく。

 傘もささず、声も残さず、

 まるで雨そのものの一部になっていくように。


 私は少女の足跡が消えるまで見ていた。

 やがて、足元に溜まった水に、滲んだ文字が映った。


「読むことは、孤立の完成形。

 けれど、孤立の中でしか、呼びかけは生まれない」


 そしてその瞬間、雷鳴の向こうで、少女の声が確かに聞こえた気がした。


「書くことだけは、まだ遅れて続いている。

 焼かれた灰の中に、誰にも届かない呼びかけとして——

 それが、私たちの詩」


 やがて、雨が途切れた。

 音が消えると、世界は急に軽くなりすぎて、どこか嘘のようだった。

 濡れた街の輪郭が光を吸い、瓦礫の上に薄い霞が漂う。

 あれほど重くのしかかっていた雲が、裂け目を見せながら退いていく。


 土の底からゆっくりと上がった温度が、空の端で色に変わる。

 空の端に、夕焼けが生まれた。

 燃えるでも、照らすでもなく、ただ滲むように。

 その光は過去を清めることも、未来を約束することもなかった。

 けれど確かに——そこに在った。


 私は、廃墟となった過去を夢想する者ではない。

 永遠の丘陵で、神聖な影を追い求める者だ。

 後戻りではなく、ただ、方向を変えるために立ち止まっている。


 最も深く刺すのは、理不尽な感情だ。

 手の届かないものへの憧れ。

 あり得たかもしれない世界への郷愁。

 他の誰かになれなかったことへの悔い。

 世界の存在そのものへの反発。

 それらが混ざり合って、私の内側に、

 痛ましい風景——本質の永遠の夕焼けを作り出していく。


 その光は、救いではない。

 けれど、まだ息をしていることだけは、確かに照らしていた。


 そして私はそっと気づく。

 これは処方ではなく、ただの応急処置だ、と。

 夜を越えるための、最低限の巻き方で巻いた包帯のように。

 十分ではない。だが、いまは、それで十分だ。

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