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未来を解いた日

眠りの鳥が、私の瞳孔に巣をかけようとしたが、睫を見て、鳥網かと思い、身をすくめる。

 カーテンの隙間から三日月が覗くが、白い光に呑み消される。

 掠れた光が世界を覆うたび、癒えることのない可能性の影が、骨髄の隙間にまで忍び込み、根を張り、静かに蝕んでいく。

 星たちの歌は、遠い誰かの失われた声のように、未来だと思い込んでいたものを、既に凍りついた過去の断片として投げ返してきた。

 拒もうとした指先から零れ落ちる砂のように、思考は抗いもなく、意識の奥を押し潰すように沈んでいく。

 回らぬ歯車が、微かな余熱を残して軋む。

 その音は、私の中でだけ時を刻み、決して遠ざからない潮騒のように響き続ける。

 絶え間なく沈降していく音が重ねられるたび、眼の奥の景色は同じ場所へ。方角だけを指す磁針のように、逃げ場なく一つの深みに引き寄せられていく。

 呼吸は浅く、心臓の音ばかりが耳に打ち寄せる。

 時が途切れたのか、それとも止まったのか、意識はわずかな裂け目に迷い込む。


 裂け目の向こうで、枕元で青白い光が震えた。

 掴んだ画面には『4月7日』。新学期。

 その響きは、未来を開く扉ではなく、閉ざされた檻の錠前の音にしか聞こえなかった。

 襟の皺を指先でなぞり、靴に光を映し込むように足を差し入れ、歩調を乱さぬまま、変わらぬ人生を終わりに向けて歩み続けてしまう。


 学校は、いつも同じ音しか鳴らない。

 チャイムも声も、決まった高さで空気を震わせ、何かを区切ることも、始めることもできなくなって久しい。

 教師の声は遠くで波のように繰り返し、内容はもう意味を持たなかった。

 見渡せば、顔という形は消えかけ、白と黒の模様だけが机の上に並んでいる。

 世界は、誰のものでもない静物画のように、ただそこにあった。


 始業式が終わり、校内が一時的にざわついていた。

 生徒たちはクラス替えの話や新しい担任の噂で騒がしく、その中に入らずに、あてもなく校内を歩き出した。

 屋上も、保健室も、お手洗いも、どこも人で埋まっていて、静かな場所だけが少しずつ消えていく。


 そのとき、ふいに、この学校には旧校舎があった事を思い出す。

 何処にあるのかは分かってはいたが、生徒間では常に根も葉もない噂が絶えず、誰も近づこうとはしない。

 その事を思い出した途端、足は自然と旧校舎へと向かっていた。


 旧校舎は思っていたよりも荒れておらず、バリケードもない。

 ただ静かに、校庭の端で時間を干からびさせているようだった。

 中に入ってみようと、正面の扉に手をかけた。

 重い金属が鈍く唸った。鍵がかかっているのか、びくともしない。

 仕方なく建物の周りを回ってみる。

 風が吹くたびに、埃と紙の匂いが混ざった古い空気が頬を撫でた。


 裏手に回ると、崩れかけた掲示板の陰に、大量の本が積まれていた。

 どれも難解な専門書のようだったが、紙の白さはまだ息づいていた。

 捨てられたはずのそれらは、まるで地面から湧き出たように乱雑に一つの小さな山を形成していた。


 すると、鳥の飛び立つような音がした。

 音がする方向を見上げた瞬間、数冊の本が降ってきた。

 紙が空気を裂く音がして、白い頁が宙に舞う。

 一瞬、時間の輪郭が滲み、重力だけが世界を繋ぎとめているようだった。


 ふと地面に映る影がわずかに動いた。

 もう一度見上げると、落とした誰かが、確かにそこにいた。

 視線を戻すと、一階の窓がわずかに空いていた。

 足が、自分の知らぬ意志で、その場所へ向かっていた。


 旧校舎の内部は外装と違い静謐で、埃一つないのに、誰かの存在の痕跡がどこにもなかった。

 その無人の気配は、なぜか自分の呼吸に似ていた。

 本の降ってきた屋上を目指して階段を登る。

 一段を踏むたび、空気が足首に纏わりつき、離れる気配もなかった。

 螺旋のように続く階段は、上るほどに下へ沈む錯覚を孕んでいた。

 天と地の境が溶けていく。

 階段を上っているはずなのに、天井のない地下牢を歩いているようだった。

 自由という名の酸素は薄れていった。

 目に見えない深さだけが、私の足を掴んで離さなかった。


 やがて屋上へ続く扉の前に立つ。

 扉の取っ手に手をかける。

 だが、押しても引いても、微動だにしなかった。

 冷たい金属は、生きているように脈打ち、そのたび、私の心臓が外側で鳴っている気がした。

 何度試しても扉は開かず、私は静かに息を吐き、階段を下りようとした。


 そのとき──

 背後で、誰かの足音がした。

 振り返ると、そこには同じ学校の制服を着た女生徒が立っていた。

 髪は光を拒むように淡く揺れ、瞳の奥に、世界の残り火のような色を宿していた。

 それを見た瞬間、私の世界が初めて呼吸した気がした。


 「その扉はね」

 彼女が、まるで独り言のように言った。


 「鍵がかかってるわけじゃないの」


 その言葉に何か含みがあるのは分かっていた。

 それでも私は、もう一度ドアノブを捻り、少し乱暴に押した。

 だが扉は動かなかった。

 私の力では、世界の形すら変えられないように思えた。


 すると彼女は、そっと手の上に手を重ねて言った。


 「この扉、少し傾いてるの。内装は綺麗でも、時間が経ってるから、もう随分と劣化してるの」


 言われて足元を見ると、確かにネジは外れ、四隅にはわずかな隙間があった。


 「だから、ちょっとだけ扉を持ち上げて、押してあげれば」


 次の瞬間、私は──世界の壁というものを、初めて思惟の形として触れた。

 その閉域のなかで、私は長らく自由という名の盲点に安住していたのだ。

 触れえぬ壁に囲まれながら、触れぬという事実そのものをもって、自らを無限と誤認していた──そのような錯覚の構造を、ようやく認識という名の牢獄の中で知ったのである。

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