第9話:魔女と魔法織物
扉の鈴が鳴り、小さく閉まる音が背後に消える。
私は通りに出た。
着慣れぬ藍の外套が、歩くたびに肩からふわりと揺れる。
店を出たばかりの通りは、さほど人通りは多くなかった。
けれどすれ違う人々の誰もが、軽くこちらへ目を向け、ほんの一瞬で視線を外していく。
それは無遠慮な注目でもなく、値踏みでもない。
ただ、服とその人とをひとつの景色として受け取った上での、自然な挨拶のようなまなざしだった。
(……装いひとつで、街にいる自分がこんなにも変わって感じられるなんて)
自分が何者かを語るわけではない。
けれど、何も語らなくても、今の姿がどこか自然に馴染んでいるような気がした。
ローブのときとは違う。
この服は、私が選んだ。
だからなのかもしれない。
「……なるほど、選ぶというのは、こういうことですか」
小さくそう呟いて、私は通りの石畳を進む。
すぐに思い出したのは、先ほどの店員の言葉だった。
「装いは意思ですから。鏡に映る自分に、好きと言えるかどうかが、大事なんですよ」
──意思。
生まれてこの方、誰かにそう言われたのは初めてだった。
私は目を上げる。
この街ノルト=ヴィレルには、布が風景に溶け込んでいた。
家々の窓辺には結界織の薄布が揺れ、店先の天幕には魔法刺繍が施されている。
遠くでは魔力風車が静かに回り、染色工房からはわずかに香草の匂いが漂ってきた。
(この街の人たちは、装いと共に生きているんですね)
ただ防ぐ、飾る、という以上に──
そこに暮らす人々が選んだ何かが、布地に込められている。
私は足を止め、通りの角に掲げられた木製看板を見上げた。
そこには「魔法織工房フラウ」と、小さく刻まれていた。
(……たしか、店員さんが話していたのは、この名前でしたね)
織物職人たちが手作業で布を織る、老舗の工房。
機械織りでは出せない気配が宿る、と昔聞いた言葉が頭の片隅に残っていた。
私は扉に手をかける。
(装いだけでなく──その奥にある手や意志を、見てみたくなったのかもしれません)
その理由を、私はまだ言葉にできなかった。
けれど扉の向こうに、それがあるような気がした。
扉を開けた瞬間、布と木のあたたかな匂いがふわりと迎えてくれた。
整然と並ぶ織機の奥には、布製の小物が丁寧に並べられた棚があり、壁には色とりどりのショールやポーチがかけられている。
店と工房が一体となった空間。そのどこかに、静かな営みの気配が満ちていた。
「いらっしゃいませ。あら見かけない顔ね、旅の方かしら?」
柔らかくかけられた声に、私はそっと顔を向けた。
藍染のエプロンをつけた年配の女性が、手を拭きながらこちらに微笑んでいた。
「ええ。通りがかりに、少し気になって……先ほど別のお店で、こちらの名前を耳にしました」
「あら、それは嬉しいこと。ゆっくりご覧になってくださいな。お買い物でも、ご見学でも歓迎ですよ」
彼女の手つきや表情には、染み込んだ余裕があった。
私は礼を言い、入口近くのショールをひとつ手に取る。
さらりとした織地。だが、触れると細やかな結界の揺らぎが伝わってくる。
(織りと魔力の調和……なるほど、これは織物で結界を組む術式構造ですね)
理知的に観察する一方で、視線は自然に工房の奥へと誘われていた。
織機に向かう若い職人たちが、黙々と糸を引いていた。
中でも、淡い灰紫の布を織る青年の動きに、私は思わず目を留める。
織り込まれた線が、どこか揺れていた。
均一ではない。意図的に、どこかで感情の波のようなうねりを生んでいる。
「……あの、すみません」
声をかけると、青年は糸を止めてこちらを見た。
「はい?」
「その模様……どうして、このように揺らぎを?」
青年は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑みを返した。
「……気づかれましたか。これは、旅立ちの前の気持ちを布に表現してほしいっていう注文でして。不安と期待と……どちらも混ざった気持ちを、そのまま模様に込めているんです」
「……それを、布に織り込むんですか」
私が呟くと、青年は小さく頷いた。
「正確に、強く、整えるだけなら機械でもできるんです。でも、人の手が作る布には、想いが残るんです。……僕は、そう信じてて」
(想いが、布に……)
それは、術式でも、魔力制御でもない。
けれど、どこか懐かしい考え方だった。
(かつて私が目指した誰でも魔法を扱える世界も、本当は──)
私は織りかけの布に視線を落とした。
「……素敵な考え方ですね」
青年は少し照れたように笑い、それきり黙って作業に戻った。
私は、その場から少し離れ、別の棚へと歩いていった。
布と糸と魔法が、静かに調和している空間。
道具でも、兵器でもなく──
誰かの気持ちを込めるためのものとしての魔法が、そこにはあった。
* * *
工房の奥にある小さな棚に、ひときわ色褪せた裂布が数枚、静かに積まれていた。
展示品でも売り物でもないらしく、目立たぬ位置にそっと置かれている。
私はその中から、一枚をそっと手に取った。
くすんだ藍色の布地に、わずかに浮かぶ刺繍の痕跡。
魔力の残滓はほとんど感じられない。
けれど、微かに、確かに、何かがそこに残っていた。
(……温度。誰かが、確かにこの布に触れていた痕)
指先を滑らせた瞬間、胸の奥に柔らかなものが波紋のように広がった。
これは記憶の断片。
遠く、まだ私が理想を語っていた頃の、曇りない魔法研究の日々。
布の断面に触れながら、私は小さく息を呑んだ。
(あの時も、私は必死に何かを残そうとしていました)
魔法を武器としてではなく、手段としてでもなく、
心と並び立つものとして定着させたい。
そう願った日々は、今では誰の記憶にも残っていない。
けれど、この時代にはそれが、静かに、自然に、暮らしの中に根を張っていた。
(……私は、もう知られていなくていい。けれど)
名もない織師が糸を織るように。
誰にも気づかれず、それでも確かに誰かのために布を織るように──
そういう生き方が、今の私にもできるのだろうかと、ふと思った。
「それ、ずっと昔の工房主が織った布なんですよ」
振り向くと、あの年配の女性がそっとこちらを見ていた。
「若い頃にね、自分の布がどれだけ気持ちを宿せるか試してみたいって言って、いろんな人の想いを聞いては織っていたんですって」
「……気持ちを、ですか」
「ええ。今でもたまに、この布を見て初心を思い出すっていう子もいます」
「……とても、あたたかい布ですね」
(みんなの思いの上に、布製品ができているんですね)
そう感じられたのは、この街に風が吹いていたからかもしれない。
午後の陽光が、織機の上でやわらかにきらめいていた。




