第35話:魔女と遺構
外縁部の構造物を記録し終えたあと、私たちはさらに奥へと歩を進めた。地形は複雑になり、斜面は崩れかけ、足元の土壌も不安定だ。魔力干渉が強まっているせいか、術式の保持にもわずかな緊張を要する。
そして霧の中を抜けた先、わずかに開けた地形に出た。
そこには、崩れかけた階段と、その先に続く地下への入り口があった。
「……記録にある地図と符合する。おそらく、ここがかつての都市の副門にあたる地点だろう。いわゆる、区画境界の始まりに当たる場所だ」
彼が慎重に結界を張りながら、入り口の石壁を観察している。
私はふと、その地下へと続く空間に目を向けた。
そこに在るのは、言葉にならない気配だった。
闇の奥から、静かに満ちてくるような感触。空気の層が、どこかで切り替わったような感覚。理屈ではない、けれど確かに肌に染み入る時代の違いが、そこにはあった。
(……この空間は、何かを残している)
誰にも知られず、誰にも見つけられず、けれど確かに存在している。そんな静かな執念のような意志の残滓が、周囲の魔力の流れに混ざり込んでいるようだった。
「術式反応、微弱ながら持続している。保存魔法か……いや、部分的な封印にも見えるな。いずれにせよ、ここから先は慎重に踏み込むべきだろう」
彼が記録装置を取り出し、壁面の文様と反応を逐一転写していく。
「……君は、どう思う? この反応」
唐突に問われ、私は少しだけ視線を落とした。
「……不自然なくらい、静かですね。けれど、まるで眠っているような」
「眠っている、か。面白い表現だ。なるほど、それなら何かが起きる可能性を前提に構えておいた方がいいな」
彼はそう言って肩をすくめたが、私の言葉がただの比喩ではないことに気づいてはいないだろう。
私には──この空間が、まるで脈動しているように思えた。
どこかで、誰かがかつて刻んだ意志。思考。記録。その全てが、この空間の奥に息づいている。
そう、これは知識ではない。記憶だ。
歴史ではなく、誰かの生の証。そこに触れることは、きっと……今の私にしかできない。
「……今日中に分析まで進めるのは難しそうですね」
「ああ。焦って踏み込むより、一度整理した方がいい」
霧の向こう、なお見ぬ中央区画。その先には、何が待っているのか。
彼が知として求めているものと、私が思い出すものは、きっと重ならない。
けれどそれでいい。
この場所に、私が来た意味は、きっと私だけが知っていればいい。
夕暮れが迫る中、私たちは慎重に来た道を戻っていく。
日が傾き、霧の色も淡く赤みを帯びていた。
「今日は助かったよ。単独だったら、ここまで踏み込むことはなかった」
「……私も、来られてよかったと思っています」
そう口にした私の胸には、言葉にはできない感情が小さく灯っていた。
* * *
霧の谷を抜け、再び山道を戻る頃には、日はすでに傾き始めていた。
この遺跡──バラドゥーンの外縁部には、冒険者や学術者のための滞在設備は整っていない。かといって、遺構のすぐ近くに野営できるほど安全でもなかった。
「日没までに、近くの街まで戻ろう。今朝通った分岐の手前に、小さな宿場町があったはずだ」
「ええ……あの場所なら、夜を越せそうですね」
ようやく辿り着いたその街は、商業と宿泊だけに特化した小さな集落だった。
宿屋の外壁には、簡素な魔力灯が灯され、玄関には「空室あり」の印が掲げられていた。
私は旅装の埃を払いながら、軒先の椅子に腰掛けて一息をつく。
彼は先に部屋の手続きを済ませ、すでに奥の共有スペースで何やら記録を整理しているようだった。
──夕空には、風が吹いている。
ここは静かだ。霧もなく、魔力も濃くはない。けれどその静けさが、かえって私には、どこか心許なく感じられた。
あの遺跡の空気には、確かに存在の重みがあった。人の歴史が、思考が、願いが、沈黙のうちに積み重なっていた。
それを私はただ感じ取っている。
(……明日は、もう少し奥へいけるといいのですが)
明日は再度、霧の谷に足を踏み入れる。
道の先には、遺構よりもさらに深く、かつての都市の心臓が眠っている。
けれどその場所に、私は単に知を求めて行くのではない。
記録のためでも、任務のためでもなく──私自身の、何かを探すために。
そう感じていた。




