第33話:魔女と記録に眠る世界
ページをめくる指先が、時折、微かに震えていた。
それは興奮でも、緊張でもなく、言葉にならない感覚だった。
私は今、過去の痕跡と向き合っている。
静かな空間に、筆写された記録の文字列が音もなく積み重なる。紙ではない、加工魔布に刻まれた文字。時代ごとに異なる筆跡と用語。けれど、確かに連なっていた。
彼から受け取った資料には、五十年前の魔法通信網の初期設計図が添えられていた。
当時、まだ大陸の各都市は独立した魔導ネットワークを持っていた。共通化された仕様はなく、互換性のない術式が並存していた。
それらを「連結可能な仕様」として設計した試みこそが、今の魔法通信の礎なのだという。
その一方で、私は他の文書にも目を通していた。
時代をさらに遡るもの、制度改革時の論争記録、地方都市で独自に発展した応用魔法技術の事例報告。
多くの文書が、断片的ながらも確かな輪郭を持ってそこにあった。
(……体系として整えられている。いつの間に、こんなにも)
私の時代、魔法はまだ力であり、選ばれし者の専有物だった。
しかし今、記録から見えてくるのは、法体系の一部として運用され、行政や医療、産業に溶け込み、技術として分類された魔法の姿だった。
その変遷を見ながら、私はふと、微笑みそうになる。
四千年という時間が、ただ過ぎたわけではない。誰かが知識をつなぎ、失敗を繰り返し、制度を築いてきた。
それを証明するように、ここには記録があった。
けれど、あまりに古い時代の文献には、やはり欠落が多い。
魔法戦争期以前の資料は断片ばかりで、用語の意味も曖昧。魔法式も今とは異なる文法で記されており、索引魔法でも対応できないものすらある。
それでも私は読み進めていた。
(……これは……)
ある一冊の中、端の方に書かれた手書きの補遺。
そこに記されていたのは、私の記憶と酷似した魔法式の構造だった。
明らかに今の世界の文法とは異なる古語。けれど、そこに記された「詠唱の省略構造」は、かつて私が研究していた術式理論と酷似していた。
私は思わず、ページの端に指を滑らせる。
──四千年。
それは、決して断絶ではなかったのかもしれない。
(……どこかに、まだ残っているんですね。私が託したものの、かすかな痕跡が)
思考に沈んでいた私の中に、ふと静けさが満ちる。
過去にしがみつくのではなく、今という時代の中に、見つけ出すための旅。
この手で拾い上げるために、私はここに来たのだ。
私はゆっくりと息を吐き、閉じていた目を開いた。
魔法灯の色が、ほんのわずかに黄味を帯びている。
気づけば、かなりの時間が経っていたようだった。
「……集中していたようだね。声をかけるのが憚られたよ」
書架の奥から届いた声に、私はそっと顔を上げた。
そこには、やや乱れた髪を片手で整えながら、タヴァスの姿があった。
彼は手にしていた魔法帳を閉じ、机の上に置く。
「もう数時間は経っている。こうして時間を忘れるのも、久しぶりだったな」
「……こちらこそ、お邪魔してしまっているのではないかと気になっていたのですが」
私がそう返すと、彼はふっと目を細める。
「いや、静かに同じ空間で何かを追っているというのは、案外悪くない。……思考が鈍らずに済む」
その言葉には、迎合でも社交辞令でもない、理知的な静けさがあった。
心地よい沈黙の共有を、肯定してくれる人間──私は少しだけ肩の力を抜いた。
「君は、何か得られたかい?」
「……いくつか興味深い記述を見つけました。理論的には断片的でも、時代によって繰り返されている思考の流れが、見えてきたような気がします」
私はページをめくりながら答える。
「そういう視点は大切だ。点と点が、時を越えて線になる瞬間がある」
彼は机に腰を下ろしながら、穏やかに言葉を続ける。
「ところで……少し、相談がある」
彼はひと呼吸置いてから、話を切り出した。
「数日後に、南方の都市へ向かう予定がある。名は──バラドゥーン。君は聞いたことがあるかい?」
「……いいえ、初耳です。ですが、どこか印象に残る響きですね」
「そうだろう? 実はごく最近、旧時代の遺構と思われる構造物が再び露出したらしくてね。僕はそれを直接確認しに行く許可を得た」
彼の視線は、どこか遠くを見ていた。
研究者の目だ。まだ見ぬ知へと向かう、確かな眼差し。
「ただ……あの土地には、独自の魔力異常が確認されている。地形も不安定で、移動にも調査にも危険が伴う。……だから、護衛役を探していたところなんだ」
彼は真っ直ぐに私を見る。
「君はCランクの冒険者で、魔法知識もある。観察眼も鋭い。もし時間に余裕があるのなら、僕と共に調査に同行してもらえないか?」
静かな、だが誠実な問いかけだった。
私はわずかに目を伏せ、思考をめぐらせる。
バラドゥーン──その名は、なぜだか心の奥にざわめきを呼び起こす。
「……ええ、引き受けます。ちょうど次の目的地を考えていたところでしたし」
そう応えると、彼はほんの少しだけ、目元を緩めた。
「助かるよ。もちろん、正式な依頼としてギルド経由で手配するつもりだ。これはあくまで、私的な打診ということで」
「それで十分です。調査の場に立ち会えるのは、私にとっても貴重な経験になりますから」
言葉を交わすうちに、沈黙はもはや距離ではなく、余白として受け入れられていた。
知を求める者同士の、静かな共鳴。
それはまだ、信頼とは呼べない。けれど確かに、何かが始まる気配がそこにあった。
* * *
翌日。
私は商人ギルドの一角に設けられた依頼受付所を訪れていた。
調査同行に関する正式な手続きは、すでにタヴァスの側で提出されており、私はその受領確認を行うだけだった。
「こちらが、ルシア・フェーン様宛の護衛依頼書です。依頼主は研究員タヴァス・エルン。調査対象は南部地域・バラドゥーン遺構、調査期間はおおよそ3日間。危険区域指定はD等級相当、報酬は基準額を基に――」
ギルド職員の淡々とした説明に頷きつつ、私は魔力端末に署名を刻んだ。
全ての確認が済んだところで、職員が一礼する。
「依頼内容に不備はありません。ご出発は明朝とのことですので、今夜中に集合場所へお越しください」
「かしこまりました」
私は丁寧に頭を下げ、受付を後にした。
マルゼンの街は、刻一刻と表情を変えていく。
商館には灯りがともり、水路を照らす魔導灯が川面に揺らめいていた。
昼の喧騒が、静かな往来へと収束していく中、私は街の片隅の高台に立っていた。
眼下に広がる物流の拠点。
魔法と秩序が、見えない基盤の上で動き続けている街。
そのどこかで、過去の知は眠り、あるいは静かに流されていく。
私はこの場所で、それをほんの少し、拾い集めたにすぎない。
(……バラドゥーン。今度は、何が待っているのでしょうか)
どこか、耳に引っかかる響き──あるいは、記録の中で何度か見かけた地名だったのかもしれない。
風が吹き抜ける。
背に小さくなった夕日が、長く静かな影を落としていた。
新たな旅路。
知を求める者と、かつて知を失った者。
それぞれの理由を携えて、ひとつの街を目指す。
私は足元を見下ろし、深く一度息をついた。
そして、静かにその歩みを再び進めた。




