第28話:魔女と星見の街
翌朝、窓を開けると、山の斜面を包む白い湯けむりが静かに揺れていた。
空は淡い灰色で、雲の切れ間からうっすらと陽が差している。昨夜までの湯の温もりがまだ身体の奥に残っており、指先に触れる空気の冷たさが、かえって心地よかった。
軽く朝湯に浸かり、湯殿の縁に肘をかけながら外を眺める。
岩肌を伝う湯の流れが、朝日を受けて金色にきらめいていた。
湯気の向こうに見える木々は露をまとい、枝先から落ちる雫が静かな音を立てる。
(……こうして温もりの中で迎える朝も悪くありませんね)
支度を整え、宿を後にする。
通りには、湯治客らしき旅人や、荷を背負った行商人の姿がちらほら見える。
足元の石畳は夜のうちに降った雨でまだしっとりとしており、踏みしめるたびに小さく靴底が鳴った。
山道を抜ける頃、前方の空が徐々に開けていく。
視界の先、平野の中央にそびえる一本の白い塔が朝靄の中に浮かび上がった。
それは雲間から差す光を受け、まるで天へ向かう道標のように輝いている。
(あれが……星見塔でしょうか)
ふと、温泉宿で耳にした旅人たちの話がよみがえる。
山を下った先にある中核都市──星見の街オルディナ。
古くから星や魔力の潮汐を観測してきた都市であり、商人や学者、そして冒険者が集う要衝だという。
特に星見塔は都市の象徴で、夜になると魔法灯台として街全体を照らし、周辺の旅人に方角を示すのだとか。
(活気のある街なのでしょうね……人も多く、依頼も豊富でしょう)
舗装の整った街道を進むにつれ、周囲の木々は低くなり、視界が広がっていく。
大きな荷馬車が何台も列をなし、商人や旅芸人の一団が笑い声を上げながらすれ違っていく。
すれ違いざま、香辛料や焼き菓子の香りが漂い、旅の疲れをほんの少し和らげてくれた。
道の脇には、星や月を模した彫刻があしらわれた石柱が一定間隔で立っている。
それはまるで、塔へと導く道しるべのようであり、歩を進めるごとに都市の息吹が近づいてくるのを感じた。
(温泉の静けさを離れ、次は人の息づかいと星見の街ですね……)
* * *
街門へ近づくにつれ、人の声と車輪の音が重なり合い、まるで大きな川の流れのように耳を満たしていく。
高くそびえる城壁は、外面に星や月の紋様が刻まれ、魔法で淡く輝いていた。
その上からは星見塔の白い尖端が覗き、昼の光を受けてもなお、夜を見つめているかのように空を指している。
門前広場では、旅商人が色鮮やかな布を広げ、香辛料や果実、彫金細工を売っていた。
焼きたての平パンの香りや、香草を混ぜた肉の匂いが風に乗って流れ込み、思わず足を止めたくなる。
行き交う人々の服装もさまざまで、遠方からの旅人や遊牧民風の一団、楽器を背負った吟遊詩人など、顔ぶれは実に多彩だ。
(……ここまで活気のある街は久しぶりですね)
検問を通過し、街路へ足を踏み入れる。
石畳はきめ細かく敷き詰められ、両脇には二階建ての商館や飲食店が並んでいる。
上階には木製の回廊が張り出し、通りを見下ろせるようになっていた。
看板には星や月を模した意匠が多く、都市全体が夜空を象徴するように設計されている。
通りを進むごとに、街の中心へと近づいていく。
やがて視界の先に、白い石造りの巨大な塔──星見塔が、近くにそびえ立つのが見えた。
その根元には噴水広場があり、水面に映る塔の姿は風に揺れ、きらきらと砕けている。
(……この高さなら、遠くの山や海までも見渡せそうですね)
広場の南側、石造りの堂々とした建物の上には、冒険者ギルドの紋章が掲げられていた。
厚い扉は昼間でも開け放たれ、出入りする冒険者たちの笑い声や武具のぶつかる音が絶えない。
肩に弓を掛けた者、大剣を背負った者、魔法杖を抱えた者──それぞれが依頼や仲間を求めてここへ集まってくるのだろう。
(活気のある街は、依頼も豊富そうです……温泉で癒やした身体も、そろそろ動かす頃合いですね)
私は外套のフードを軽く整え、石段を上がった。
扉をくぐると、木と革の匂いに混じって、焙煎した豆の香りが鼻をくすぐる。
掲示板には依頼票がびっしりと貼られ、各地の情報や魔物の出没報告が並んでいた。
依頼票を一枚ずつ目で追っていると、背後からわずかに躊躇いを含んだ声が響いた。
「……ルシアさん、ですよね?」
振り返ると、銀に近い明るい髪を高く束ねた少女が立っていた。
「えーと、あなたは確か――」
「セルティアの街で一緒に依頼を受けました、ノア・アウステルです」
「あー、そうでしたね。お久しぶりです。あなたもこの街で依頼を?」
私がそう告げると、彼女の表情がぱっと明るくなる。
けれど次の瞬間、ほんのわずかに頬が赤く染まった。
「はい。この街の近くに温泉が盛んな街があると聞いて、先に依頼をこなそうかと思っていたんです」
「そうだったんですね。私も昨日温泉宿に泊まったのですが、とても良い場所でしたよ」
「……昨日行けば……一緒に」
彼女は小声で何か呟き、落ち着かない様子で視線を逸らし、指先で自分の手袋の端をいじっていた。
私は首を傾げる。何か言いかけて、飲み込むような仕草が続く。
「ルシアさん。よかったら一緒に何か依頼を受けませんか?」
「……そうですね。まぁ最近はずっと一人で受けていましたし、たまには気分転換にいいですかね」
私はそう答えると、彼女と一緒にパーティ向けの依頼を探し始めた。
(誰かと受ける依頼と言うのもたまにはいいでしょう)
私たちは並んで掲示板を眺めていると、一枚の依頼票が目に留まった。
白い塔と星空を模した印章──星見塔の観測部門から出されたものだ。
「……夜間観測補助と魔力異常対応、ですか」
「知ってます? 星見塔は魔力の潮汐も観測してるんです。今夜は珍しい星の配置になるらしくて、魔力が揺らぐ可能性があるって聞きましたよ」
「なるほど……それで夜間の警戒が必要なのですね」
依頼文には、観測器材の運搬や設置の補助に加え、魔力の揺らぎに反応して現れる夜行性魔物への対処とあった。
ランクはD。経験者の補助が推奨されている。
「ルシアさん。こういうの、興味あります?」
「……ええ、観測というのも悪くありませんし、夜の塔というのも魅力的ですね」
私が答えると、彼女は目を輝かせ、すぐに依頼票を剥がした。
その指先がわずかに震えているのを、私は見逃さなかった。
「じゃあ、決まりですね。夜は冷えるらしいので、防寒具も忘れずにしなきゃですね」
そう言って笑う彼女の横顔は、昼の街並みに負けないほど明るかった。
(……星を眺めながらの依頼。温泉の静けさとはまた違う、夜の景色が見られそうです)
星見塔を仰ぎ見る。
その白い尖端は、昼の光の中でもかすかに輝き、今夜の役目を静かに待っているようだった。




